朝日もコートもないところに二人


私は花屋を営んでいる。昔、まだほんの小さな子どもだった頃から花が好きだった私は、自然と将来の夢もそれに沿うようなものとなり、数年前、念願のお店を開く運びとなった。
そんな私の右手が掴んでいるのは色とりどりの素敵な花束…などではなく、星野屋の牛丼である。
成人してから知り合った友人たちには「意外」だの「ギャップが」など好き放題言われがちだけれど、花屋をやっているから特盛りの牛丼を食べたらおかしいなんてことはない。好きなものは好き、お肉もラーメンもにんにくいっぱいの炒めものも大好きだ。
しかしなぜ牛丼かというと、今日、そろそろお店閉めなきゃという時分に来店したお客様が「このあと焼肉でも行く?」なんて話していたからである。ちょうど夕飯どうしようかな、なんてことも頭によぎっていたこともあり、私の夕飯はそうして思わぬ形で決まったのであった。
おかげでそこそこに雨が降る中、お店のシャッターを降ろし夕飯への気合を入れる。ただ、なんとなーくやっぱり一人で焼肉店に入るというのも気恥ずかしくて、一応は友達にも声をかけてみたけれどあいにくと付き合ってくれる友人はおらず、妥協と言っては聞こえは悪いが悩みに悩み、気恥ずかしさに勝てなかった私はちょっと安めの牛丼をテイクアウトすることに。
とはいえ、お腹の空く頃。香る芳しいお肉にすっかり頭の中は焼肉から牛丼へとシフトチェンジしてしまった。

るんるんと雨を撥ね上げる足取りは軽く、もう少しで家に着く。それまでにおいしいお肉たちが冷めてしまわなければいいけれど。かさり、かさりと特有の音を鳴らすそれに気を配りながら、もともと速めだった足の動きをよりいっそう速めた。
そしてようやくまだ新しさが見受けられるお店、もとい自宅が見えてくるが、ちょっと待って。なにかおかしい。


「ど、どうしよう」


降ろしたシャッターの前、軒の下に座り込む誰かの影が見えるではないか。
雨粒を撥ね上げていた足取りは次第に緩やかなものになり、やがて不審者よろしく足音を消してはそろり、そろりと近寄った。その姿はまさに泥棒が忍び込む直前のようにも見えるが、間違っても泥棒ではなく、かつ自宅に帰りたいだけである。
しかし家との距離が近づけば近づくほど鮮明に映し出されるその人影に戸惑いが広がってゆく。

だって、なんか……すごく顔をしかめてる。犬が唸る時みたいに口の端を上げて、どこかを睨んでる……ように見えるんだけど。

ずいぶんとがっしりした体型のその人は、霞む視界の中でも目を引く真っ赤なチューリップのような髪をしていて、そして花壇に水やりをしたかのようにずぶ濡れであった。
きっと彼は雨宿りをしているのだろう。それにしてはかなり険しい顔をしているが、もしかしたら肌が透けるほどに雨に打たれてしまったせいかもしれない。
あぁ、どうしよう。こんな表情が観察できるほどにその存在に気づいてしまった今、どのようにやり過ごせばいいのだろうか。家に入るにはどうしても彼の目の前を通り過ぎなければならず、かと思えば直後に家に入ることになるわけで、見せつけと思われないか心配である。しかも今日はちょっと、ううん、だいぶ寒い。昼間の陽射しは暖かいのに夜ともなると上着を着込まなければ震えてしまうほどだ。さらに不運なことに雨という追い打ちまで空から降ってきて、傘を忘れた人からすればさぞ腹立たしいに違いない。
もっと言うと、あの人、なんで半袖なんだろう。

おそらく焼肉か牛丼かを悩んだ以上に悩んでる。でも正解は一つしかなくて、いつまでもこうしていることは間違っているはずだ。私は家に帰らなければならない。なんと言ったって牛丼が冷めてしまう。冷めてカラカラになってしまったお肉なんて美味しくないのだ。雨宿りならいくらでもしていってください。

失礼は承知だが、そこに座っている人はかなり強面でそれだけでとても怖い。人相が悪いというかなんというか。おかげで内心ではどうしようもないくらい怯えている。しかしそれでは埒が明かないのでできる限り彼の癇に障らないよう静かに、ひたすら気配を殺して横切ることにした。その怖い目で睨まれませんように…!

もはや祈りながら決死の思いで彼の目の前まで来ると、雨音の中にこの天気に対して悪態をつく言葉がつらつらと聞こえてきた。ついでにそれらに混じって可愛らしく響くひくーい空腹の訴えも。どうやら強面の彼はおなかがぺこぺこのようである。
瞳だけを動かしてちらりと見た左腕は傷だらけであった。

見てはいけないものを見てしまったのかもしれないと、勝手に覗き見ておきながら慌てて視線を外し玄関へ駆け寄る。彼がどんよりとした空を眺めているうちに家の中に入ってしまおう。
慌てているせいで普段よりもなおガチャガチャとうるさい鍵穴のミッションをなんとか突破し安息の地へと体を滑り込ませた。文字通り滑り込ませた。
けれど、その刹那に聞こえた「雨やまねェのかよ」という声が容赦なく私の良心を攻撃する。
雨が止むどころかこのあともどんどん雨足は強くなるし夜中からは雷の予報だ。朝も夕方もアナウンサーさんが言っていたではないか。
それなのにこんなびしょ濡れで傘も持たないところを見るとどうやら彼はその事実をご存じないらしい。

どうしよう。どうしたら。
このまま放っておいていいのかもわからず、もしも体調でも崩して倒れてしまったら。これから冷え込んでくるのにびしょ濡れの半袖で命に危険が及んでしまったらごめんなさいでは済まされない。
というかこの時期になんで半袖…!

買ってきた特盛り牛丼をテーブルに置き、納戸や脱衣所へと駆け込む。あれ、どこにしまったかな。ここにしまったと思ったけど。
ちゃんと整理整頓しているはずなのにこういうときに限ってなかなか見つからないのはどうしてだろう。そして私が今こんなに必死になっているのもどうしてなんだろうか。
そう思うもののガサガサと捜索する手は止めず、ようやく見つけたそれを引っ掴み、そしてテーブルに置いた特盛り牛丼も持って急いで外へ向かった。
いないならいないで全く問題はないけど、もしもまだ雨宿りしているのならたとえ強面の男の人だろうとこれらを押し付けてしまおう。
これが雨やまねェのかよという独り言への返事である。


「あ、あの」
「…あ?」


え、怖い…っ!
真っ赤な髪に眉毛のない色の白い肌。そして先程と変わらない目つきの鋭さよ。威嚇するような低い声に加えて切れ味鋭い視線に睨まれてしまい、声のかけ方を間違えてしまったのかもしれないと少しだけ後悔した。
けれどここには私とこの人しかいなくて、今さらごまかすこともスルーすることもできず、そもそもそんな逃げ腰なら最初から声をかけるなという話である。だって彼がちょっと怖そうな人だなんて初めからわかっていたんだし。
放っておけないのも事実なので、さすがに殴られはしないだろうと腹をくくり、まとめて持ってきたものを目の前へ差し出した。


「なんのつもりだ?」
「な、なんのつもりでもないです。このままずっとここにいても雨はやみませんよ!これからもっと雨足強くなるみたいだし、雷も鳴るんだって。だから…はい、これ!」


そう言って大判のバスタオルと雨合羽、それから買ってきた特盛り牛丼。傘ではなく雨合羽なのは今も結構雨が強いし風も吹いているのであまり役に立たなさそうだから。それに体格のいい彼に私の傘ではちょっと小さいと思う。雨合羽もおそらく小さいのだろうけど、頭に被ってくれたら傘よりは使えそうだ。なんなら牛丼を守ってくれたっていい。

余計なお世話、という自覚はある。現に彼も怪訝そうな、不審そうな顔をしているのだから。けれど日付が変わったってやまない雨をいつまでもここで待っていたって仕方がない。きっと彼は今日の天気なんて知らないだろうし。


「ここにいても風邪引いちゃうだけですから早く帰ったほうがいいですよ。渡したものは返さなくて大丈夫ですから」
「おい…!おれはまだ受け取るなんて…!」


それだけ言ってそそくさと家の中へと逃げ帰った。もはや言い逃げだけど、私のやるべきことはやったつもりだし、それであの人が帰るかどうかはあの人次第で、渡したものを使うかどうかもあの人次第。
なんとなくまだ軒下にいそうなのであまり気は抜けないけど、少しは勇気を出せたんじゃないかなと、自己満足に浸りながら消えた夕飯を作るためキッチンへと向かった。





ざぁざぁ、かさり、かさり。


「牛丼……特盛りじゃねェか。見かけによらず大食いだな、あの女」


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