カチカチと時を刻む時計の音を聞きながらコーヒーからのぼる湯気をじっと見ていた。もうしばらくしたらここに通うこともなくなる。ともなればこのコーヒーの香りも揺らめく陽炎のような湯気を無心に見つめることもない。
いつものさよの店のいつものカウンター席、いつもの料理に飲み物。いつもと変わらぬものに包まれたこの空間。もちろんここの女店主もいつも通り清廉な姿でグラスを磨いている。

今朝のこと。朝礼が済んでこれから業務に移ろうというときオヤジに呼ばれた。呼び出されるのは特段珍しいことではないが、後ろから覗く横顔がどこか遠くほの暗さを帯びていて、瞬時にただ事ではないことを悟る。
オヤジ専用の大きなデスクの前に立ち、目を閉じてどう切り出すか思案しているのであろうその顔を眺めていたがとうとうその重い口を開いた。
言いにくそうにしながらも口から零れたそれはおれの転勤を示すもので。男で独身であるならなにも珍しいことではない。
ただおれ自身は初めてのことだ。数日間の出張なら幾度かあったが今回はどうやらそういうことではないらしい。そちらのほうが落ち着くまで面倒を見てやってほしいというのだ。つまり期間は未定。落ち着けば早々に帰ってこられるのだろうがそうでなければ次いつここに帰ってかられるかわからないのだ。
だが他ならぬオヤジの指示。おれには断る理由がない。オヤジの指示とあればいつどこであろうと赴くことをとうの昔に決めている。

キン…とグラスのぶつかる甲高い音に意識が戻される。


「マルコさん?どうかなさいましたか?」
「あァ…いや…」


オヤジのためになるのなら。その気持ちに偽りなど微塵もないが思うこともある。その場所へ自然と足が向いていたからだ。数日後にはここからいなくなるのならこんなふうにのんびりする時間もないのだが、理解とは別に感情がこの店へと足を誘った。

ここへ来たのはのんびりするためでも考え事をするためでもない。この事実をさよに伝えるか、どうやって伝えるか、そのために来たのだ。
優しいさよのことだ。常連が遠くへ行くことに少しくらいは動揺してくれるだろう。しかしその穏やかな顔を歪めることは本意ではない。さよにはずっといつもの柔らかな笑顔でいてほしいのだ。

だが生憎なことに口下手な自分にはいかにしてその笑顔を守ったまま話を切り出すかわからずにいる。


「そういえば…」

あることを思い出した。以前もここでこうして過ごしていた時だ。あの時はたしかたとえ話として2人で笑いながらしゃべっていた。まさかそれが現実になるとも知らず笑っていた。


「この近くに新しくケーキ屋さんができるらしいなァ」
「よくご存じで。そうなんです、とても楽しみで」
「ここのコーヒーともよく合いそうだ。あァでもさよの作るケーキもうまいからなァ」
「ふふふ、それは褒めていただいたと思っても?」


ここの店で出されるものはどこのものよりもずっとうまい。

正直に言えば嬉しいのか顔を綻ばせたが遅れてやってきた照れのせいで持っていた布巾で顔を隠してしまった。
あァ、もうそんな顔を見ることもなくなる。


「ここのコーヒーはいつでもうまいよい」
「もう…先ほどもおっしゃいましたよ」
「どこにいても…飲みたくなるな」
「…そう、ですか」


布巾を下ろしておれを見つめるその瞳が揺らめいたように見えたのは気のせいだっただろうか。だが、これからいなくなるおれにとってはさよも、この変わらなく続いてきた空間も、コーヒーからのぼる湯気のように不確かでまるで陽炎のようだ。

しかしたとえそうであっても芙蓉のように美しいこの人は変わらずここにあるはずだ。






×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -