朝
冬が近付き、夜は随分と長くなっていた。若干薄暗い朝の並盛の空気は冷たく、どこかまだ寝惚け気味だった頭がみるみる冴えていく。頬に乾いた風を感じながら、雲雀は自宅を出て歩き出した。
この時間、まだ人通りはそう多くない。途中、一人か二人ほどとすれ違いながら、雲雀は並盛の町をゆったりと歩いた。適当に角を曲がり、緩やかな坂を登って、ついでに喧しい奴に声をかけられたりもして(極限がどうのこうのだとか、お前も一緒に朝のロードワークはどうだとか何とか言われた気がするが勿論無視した)。何の宛ても無く、気分のままに自分の町を歩き回ることを雲雀は案外気に入っていた。
そして今日も、雲雀はたまたま通りがかった並盛町の外れにある小さな公園に立ち寄っていた。その公園は小高い丘の上に位置していて、周辺の住宅街を一望できる。少しずつ活動を始めていく町の様子を、雲雀は目を細めて眺めていた。昼間は幼い子供が遊ぶことも多い場所であるが、今は遠くの方で聞こえる鳥の鳴き声以外に音は無い。穏やかな朝だった。
きみとぼくの町
「わ、ちょっと、こら! 待ちなさいー!」
聞こえてきた足音と、耳慣れた大声に雲雀は思わず溜息をついた。まさかこんな時間に出くわすことになるとは思わなかったが、朝っぱらからやはり、彼女はうるさい。崩れてしまった静かなひとときに若干の名残惜しさを覚えつつ、雲雀はあえて背後を振り返らずにこちらに近付いてくる足音を黙って聞いていた。
――ワフ、ワフッ
そして、聞こえてくる足音は一つではなかった。騒がしく駆けてきた一人と一匹は公園へと足を踏み入れると、またさらに雲雀のいる方向へ一直線に駆けてくる。
「ちょっと、アル! ……あ」
目の前にまできて、ようやく雲雀がいることに気付いたミナは足を止めた。その手には、落ち着きなく動き回る毛足の長いゴールデンレトリバーが繋がれた赤いリードが握られている。相当な勢いで引っ張られていそうだが、そんなことなど意にも返さぬようにびっくりした顔で雲雀を見ていた。
ちらりと一瞬だけミナを目に留めた雲雀は、またすぐに眼下に広がる町の方に視線を戻す。柔らかい朝日が照らすそのきれいな横顔に見惚れて、ミナはほんの少しの間だけ息の仕方を忘れてしまった。
(この、美形め)
思わず文句を垂れたミナの足元で、ゴールデンレトリバーのアルがちぎれそうなほど尻尾を振っている。ミナがしっかりとリードを握っていなければ、今にも駆け出してしまいそうなほどに。
「…うわっ」
ミナが惚けて気を抜いていたその隙に、とうとうアルは雲雀の方へと飛びかかりに行ってしまった。咄嗟にトンファーで殴り飛ばされる愛犬の姿が想像されて、サッと顔から血の気が引く。こんなことになるなら、もっとしっかりリードを握っておくべきだった。
「…え」
しかし数秒後にミナの視界に広がったのは、そんな予想に反した光景だった。
「…ふ」
足元にすり寄ってくるアルの頭を、雲雀が優しい手つきで撫でている。小さく息をつくその表情はどこか笑っているようにさえ見えて、これは本当にあの雲雀なのだろうかとミナは呆気に取られた。
(動物、好きなのかな)
そういえば、確か初めて雲雀の姿を見かけた時も野良猫の顎を撫でながらこんな表情をしていた。彼自身も弱いものは嫌いだと言っているし、何より普段のあの冷たく刺々しい態度である。ライオンのような肉食獣ならともかく、犬猫のような可愛い動物を愛でるだなんてどうにもそのイメージとは結び付かないが、これがギャップというものだろうか。
「…何」
「えっ、あ、いや、別に…」
じろりと視線を向けられてミナはたじろいだ。――言えるものか。彼のことを、ちょっとだけ可愛いと思っただなんて。普段は自分に懐きっきりのアルが初対面の雲雀にされるがままに撫でられているのはなんだか悔しかったけれど、貴重なものを見れた気がして気分が良かった。
「ふふ」
「………」
振り向くと、視界に広がるのはすっかり明るくなった町の姿。部活の朝練なのか、エナメルバッグを背負ったジャージ姿の学生が自転車を漕いでいるのを見つけた。ああ、もうこんな時間だ。そろそろ家に帰らなければ学校に遅刻してしまう。リードを握り直して、ミナはアルに帰るように促した。
「それじゃ、またあとで! 雲雀くん」
ミナに倣うよつに吠えてアルが駆け出す。あっという間に走り去ってしまった一人と一匹の後ろ姿を、傍目には分からないほどわずかに、おだやかな表情で雲雀は見送った。
(…あの犬、飼い主によく似ていた)
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