温度計
「へぶしゅっ」
応接室にこもって、ひたすら書類に風紀委員会のサインを書きまくっていたら(万年赤点ギリギリアウトなあたしにはこれが精一杯のデスクワークである)くしゃみが出た拍子に手元が狂った。風紀の紀の字が見事に歪み、署名欄からペンの黒いインクがはみ出て、その上あたしの唾までプリントに飛び散ってしまった。自分でやっといて何だが、うっわあ汚ねえ…。プリントの上の方にはいつぞやの体育祭に使った費用がうんぬんかんとか書いてある。分かる、あたしには分かるぞ。このプリントは金が関わってるそこそこ重要なブツだ…!
(雲雀くんに殺される…)
風紀委員長専用のデスクで風紀委員会専用の鉛筆を走らせている雲雀くんを盗み見ると、さすが気配に鋭いというか、ばっちりと目が合った。ぎゃあ!と叫びそうになるのを堪えて慌てて視線をずらす。
「………」
どうしようかな、この書類。
熱くなんてない
「…寒いの?」
「え」
どうしたものかと拙い脳味噌を回転させていたあたしにそう声をかけたのは、言うまでもなく雲雀くんであった。
「えっと…そうですね、ちょっと寒いかも、です」
――んん?
答えながら、違和感に首を傾げた。今までに、雲雀くんがこんな風にあたしを気遣うような言葉をかけてきたことがあっただろうか。いや無い。皆無だ。何の変哲もないただの日常会話でも、相手が雲雀くんとなれば話は別。これは事件である。
(くっ草壁さぁーん!雲雀くんが下僕の心配をしましたよ――…!)
赤飯でも炊いてやろうか。そんな考えが浮かんでくるぐらい、雲雀くんの「寒いの?」はそれだけでも充分レアだった。だからまさか、知らないうちに雲雀くんが目の前まで近付いていて
「…!?」
「つめたい」
あろうことか、あたしの両手をすっぽりと包み込むように握ってくるとは思わなかったわけで。
「!?、…!?」
「………」
驚きすぎて声も出ない。
「…左手の方が冷たい」
「ぺ、ペン…握ってたからじゃないですかね………」
「ふうん」
握られた手にぎゅうと力を込められたのは何故なのか。いやいやいや意味分かんない。日頃から分かんない人だと常々思っていたけど今日は本当に意味不明である。
しかも、雲雀くんめ、イメージとは裏腹にぽかぽか暖かい手ぇしやがって。あれか、冷たい手の人は心があったかいっていうからこの人の心は絶対零度か。ああそうだそうに違いない。だからこんな意味不明極まりないことしてあたしを惑わしてくるんだ。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「ん」
「あ」
突然握られた手を、また突然離された。そして、ひょいと何かを投げられる。咄嗟に掴み取ったものは温かく、冷たかった指先がじんわりと暖まっていった。
「これ…」
「さっき、咬み殺した奴が落としていったから。捨てておいて」
「…もったいないから、貰っておきます」
「ふうん。そう」
じゃあ僕はまた群れを咬み殺してくるから。いつの間に自分のデスクワークを終えていたのか、雲雀くんはトレードマークの学ランを靡かせて応接室を出ていく。あたしの手に収まるカイロは、空気に触れて順調に発熱を繰り返していた。一体、なんだったんだ、今のは…。
「それと」
扉を閉める直前、雲雀くんがこちらを振り返る。
「そのプリント、なんとかしてよね」
例の、インクとあたしの唾でぐちゃぐちゃになったプリントを指差して、一言そう告げたあと、今度こそぴしゃりと扉を閉めて行ってしまった。結局雲雀くんにはバレていたようだが、殺されなくてよかった。
ほう。溜め息をつく。
(……もしや…あれが雲雀くんのデレ………)
筆箱の中から修正液を取り出して、黒インクの上に塗りたくる。さっきまで残っていた雲雀くんの手の温もりは、カイロの熱に上書きされて分からなくなった。けど、
(なんか、むずがゆい)
131215