朝晩はまだ風が冷たいが、日中は春の日差しを受けてだいぶ暖かくなってきていた。

「勝手な真似して迷惑かけるようなことはやめてよね、千鶴ちゃん」
「は、はい…っ」

疎らに雲が空を流れるその下で、千鶴は自分よりもうんと背の高い男の笑みに思わず上擦ったような声が出たのを感じた。彼はいつもにこにこと笑っていて温厚そうに見えるが、平気で千鶴に向かって斬るだとか殺すだとか物騒な言葉を吐く。おまけに出会いがあんな形だったものだから、千鶴は少し彼のことを恐ろしく思っていた。

けれど、こんなことで怖気付いていてはいけない。これから自分は、命懸けと言っても過言ではない彼らの仕事について行って、父を探さなければいけないのだから。腰に差した護身用の小太刀に手を添えて、千鶴は背筋を伸ばし先を歩いていく男の背を追った。

「今日はよろしくお願いします、沖田さん」

――雪村千鶴が京の都にやってきたのは、まだこの地を雪が覆っていた頃のことである。幕命で京に登ったきり連絡が途絶えた蘭方医の父を探すため、はるばる江戸から旅をしてきた千鶴は京に辿り着いたその日の夜、雪の舞う中で"見てはいけないもの"を見た。真白の髪、赤い瞳、溢れ返る血。忘れられるものなら忘れたいと思うが、瞼の裏にこびり付いた情景はなかなか記憶から去ってはくれない。本当にただの偶然で見てしまっただけだった。けれど偶然見てしまったせいで、千鶴は京で人殺し集団とまで言われている新選組の屯所でほとんど監禁と言ってもいい生活を送ることになった。本当は、殺されるはずだった。それをなんとか免れたのは、父の存在があったからだ。詳しいことは千鶴には教えてくれなかったが、新選組も父を探しているらしく、その手がかりになるやもということで生かしてもらえることになったのだ。始めのひと月は与えられた部屋から一歩も外に出させてくれず、不安に暮れる時を過ごしていた。しかし面倒を見てくれた(監視とも言うが)新選組の人達は思っていたよりも優しい人ばかりで、千鶴を気遣って一緒に食事をとってくれたり、話をしたりしてくれた。そして監禁生活からひと月ほど経った頃、説得の甲斐あってか新選組の職務である京の街の巡回に同行して父を探すことを許された。

(父様の手がかりは、ずっと見つけられないまま…)

固まって歩く新選組の隊士達の後ろにつく千鶴の表情は険しい。そうして父探しを本格的に始めて数ヶ月、未だに足取りはまったくと言っても良いほどに掴めていなかった。活気付く都の街は千鶴の浮かない顔とは対称的に賑やかである。そんな光景に、千鶴は故郷の江戸を思った。京と江戸では人々の気質が違うとは言うが、それでも活気づく街の雰囲気にたいした差はない。

(父様…無事でいるといいんだけど…)

江戸での父との暮らしを思い出し、千鶴は目を伏せた。新選組から聞いた話に寄ると、父のいた宿が焼かれそこに遺体が無かったことから、誰かに攫われたという筋が濃厚だという。父は医者として人を救いたかっただけだろうに、どうしてそんなことになってしまったのだろう。

「ああ、一君」

聞こえた沖田の声に千鶴ははっと俯き気味だった顔を上げた。見ると、前方から別の経路で街を回っていた新選組の集団がやってきていた。その先頭を歩くのは沖田と同じくよく千鶴の監視を務めていた斎藤である。

「…総司か。そちらは何かあったか」
「ううん、なにも」
「そうか。…ならば綱道さんと、それから例の少年の手がかりは?」
「それも特には…」

沖田と斎藤が立ち止まって二人で何かを話している。今の内にと千鶴は集団の中から抜け出して、側を歩いている人に父のことを聞いて回ることにした。

「お姉ちゃん」
「え?」

不意に呼び止められて、千鶴は背後を振り返った。まだ頭の位置が低い小さな子供が千鶴の着物の袖を掴んでいる。驚いて、千鶴は一瞬言葉に詰まってしまった。

「…ええと。坊や、どうしたの?」

言いながら、千鶴は心の中で項垂れる。何せ千鶴は江戸を発った時から今の今までずっと男装を続けているのだから。それなのに"お姉ちゃん"だなんて。治安の良くない京を出歩くのにも男だらけの新選組の屯所に留まるのにも都合が良いからと身を扮しているもののまったく男に見えないと散々言われてきたが、まさかこんな小さな子供にも見破られてしまうとは。自分にはその手の才能がこれっぽっちもないらしい。苦笑いする千鶴のことを気にした様子もなく、その子供は千鶴の視線よりも奥、自分の背後から伸びている家と家の間の細い通りの方を指差してみせた。

「向こうに人が倒れてるの」
「え?」
「たくさん血が出てて、苦しそうなの。お姉ちゃん」
「そんな、大変…!」

気付けば、駆け出していた。周りの人に助けを求めるだとか、他にもっと利口な行動はあっただろう。けれど、人が血を流して倒れている。そのことが頭の中を駆け巡って、自分が囚われの身であること、勝手な真似をすれば斬り殺されかねないことなどはその一時意識の外に放り投げてしまった。医者の子とはいえ女の千鶴は医療の知識を然程深く持ち合わせているわけでもなかったが、それでも行かなければと思った。普段は女子らしい一歩控えた態度を心がけている千鶴だが、それでも元来はお節介な質なのである。

「あ…!」

薄暗い通りの奥、壁に背をもたれて座り込む人影を見つけた。力無く頭を垂れ、ぴくりとも動かない姿に少年が言っていた人に間違いないと確信する。

「大丈夫ですか!?」

駆け寄り肩に手をかけたところで、地面にいくつもの血の染みが付いていることに気付く。見ると、千鶴が触れた方とは反対側の肩のあたりから着物がぱっくりと裂け、そこから広がるように全身が赤黒く染まっていた。その血液の多さにぞっとして顔を伺えば、案の定肌色が真っ青になっていた。

(いけない…!)

血を流しすぎているのだと思った。慌てて懐から手ぬぐいを取り出して、見たところ一番大きな、未だに血を流し続けている肩の傷口を縛り止血する。西洋の医学を学んだ父の元で千鶴もよく手伝いをしていたから、止血をするぐらいならそう難しいことではなかった。けれどこの傷の具合ではそれだけの応急処置では足りないだろう。となると、とても千鶴一人の手には負えない。千鶴は念の為にぐったりとしたままの男に一言声をかけると、助けを呼ぶために立ち上がろうとした。

「…いらない」
「え?」
「余計なことしないでよ…」

不意に耳に届いた唸るような声は、どうやら男のものであるらしかった。意識を失っていたわけではなかったのだろうか。しかしそうだとしても、満身創痍であることに変わりはない。少なくとも、最初の千鶴の声かけに応答ができなかったくらいには。

「無理に動かないでください!しっかりとお医者様に診てもらわないと……」
「うるさい」
「あっ…!」

少年は傍らの刀を手にすると、それを杖ように使いながら重々しそうに立ち上がった。はたはたと無数に血の雫を落としていく姿に千鶴はぎょっとして比較的負傷が緩い方の腕をとる。しかしすぐにそれは振り払われ、一体どこにそんな力が残っていたのか、体をつき飛ばされてしまった。

「何をしている」

それでも食い下がって背を向ける男に手を伸ばしたその瞬間、背後からかかる声。驚いて咄嗟に振り返ると、頬を掠めるように何かがすぐ横を通り過ぎる。何が起きたのか理解が追い付いていないのにも関わらず、体が先に恐怖を感じとって背筋を悪寒が走った。

「っ…」

膝をつく千鶴の顔のすぐ横に宛てがわれたのは、斎藤の手にする刀の刃である。急激に鼓動が高まり、息苦しくて、喉は掠れ、まともに声も出ない。見上げた斎藤の表情は冷たく、まるで最初に出会ったあの日の夜のようだ。

「あんたの今の立場でのこの行動は、逃亡ととられても仕方のないものだが?」
「そ、そんな…つもり…じゃ」

千鶴はそこで初めて、自分が逃げ出したのだと勘違いされていたことに気付いた。斎藤は、自分を探してここにきたのだ。巡察に同行するにあたって、必ず隊の誰かの目の届く場所にいるようにきつく言い含められている。それを破ってこうして、こんな人目につかない通りにいればそう捉えられてもおかしくはない。

「…ならば自分の身を弁え行動を慎め。でなければ、いつか身を滅ぼすことになるぞ」

そう言うと、斎藤は存外あっさりと刀を下ろした。安堵に浅く息を吐く千鶴は、けれどいまだに険しい顔を崩さない彼のことには気付かない。

斎藤は、刀を鞘に収めないままじっと千鶴の後ろを見つめる。

「……」

その目線の先には、千鶴が先程まで介抱しようとしていた男がいた。その光景を目にしていた斎藤は、千鶴が逃亡のためにここにきたとは思っていない。誰かしらに負傷した男のことを告げられ、放って置けなくなったのだろうということは想像がついた。斎藤の今の目的は、いなくなってしまった千鶴を探すこと。それが果たされたのだから、本来ならさっさと彼女を沖田に預けて自分の職務を再開するところである。けれど、目の前のこの男の存在が斎藤の足をその場に縫い止めていた。

男――いや、少年と言ってもいい顔付きである。世間では珍しい短髪は黒々しく、長い前髪の隙間からは鋭利な刃物を思わせる吊り上がった目がこちらを睨み付けているのが見えた。全身傷だらけで、特に酷いのが肩の傷なのだろう。千鶴の手によって止血が施されているものの、その布は早くも大部分が赤黒く染まっている。そしてそのすぐ下、二の腕のあたりに走る傷。肩ほど深くはなく、横から刀が掠って付いたようにも見える。

(…間違いない)

彼は、現在新選組が捜索中の探し人のうちの一人だ。怪我が多すぎることを除いて、少年の容貌は話に聞いた情報にぴたりと当てはまっている。それは足元でしゃがみ込んでいるこの娘の父ではない。数日前、彼女と同じように新選組のある機密に触れてしまった年若い少年である。

目付きを変えた斎藤に気付いたのか、少年は傍らにあった刀を右手にとり構えの姿勢をとった。

「…あんたに聞きたいことがある。悪いがついてきてもらう」

少年はこちらを睨むばかりで返事をする気配はない。ただ、こちらに向けられた刀から大人しくついてくる気がないということだけは分かる。斎藤は両手に刀の柄を握り、惚ける千鶴に視線を送った。こんな狭いところでは、彼女を巻き込みかねない。

「あっ!」

そうして、今まさに斬りかかってこようという時。少年の体がぐらりと傾く。斎藤の指示通り後ろに下がろうとしていた千鶴は慌てて引き返し、崩れる体を半ば潰されるようにして支える。構えを解いた斎藤は刀をしまうと少年と千鶴のもとに近寄った。

「意識を失ったか…」

千鶴にのしかかる少年は真っ青な顔をしたまま目を閉じていた。汗と血で汚れたそれを見るにどう考えても危険な状態であることは明らかだ。体中から血を流し、かなり弱っているのだろう。限界に近い状態で必死に意識を保っていたに違いなかった。

「…雪村。そいつを屯所に連れていく」
「え?」
「隊の者に手伝うように頼んでくるから、ここでそいつの見張りをしていろ。逃げるなどということは、考えるなよ」
「は、はい」

戸惑う千鶴を置いて、斎藤は仲間の元へ走った。千鶴への指示には少しの間違いが含まれている。正確には、隊の者に助けを頼むのではなく、隊の者に事情を知る監察方を呼んでくるように頼んで来るのだ。あの少年のことは機密に関わる。仲間とはいえそう易々と広めていい話ではない。

少年をその場で殺さず屯所へ連れ帰るのは、尋問が必要だろうと思った為である。土方と沖田が遭遇したその日ならともかく、それから何日かが経ったとなると件の化け物のことを外部に漏らされている可能性は否めない。それを問いただすのだ。だから、その答えが得られた後の少年の命は保障できない。機密を守るために殺されるのかもしれないし、この怪我が原因で放っておいても死ぬかもしれない。ともかく、斎藤は偶々あれの存在を見てしまったという不運な少年のことを同情はすれど救う気などは毛頭無かった。どんなに理不尽であろうと、これが彼の定めだったのだと割り切るより仕方のないことだった。

――だから、まさかこれから先あの少年が新選組と深く関わっていくことになるなどとは、斎藤はこの時考えもしていなかった。




昨日が遠くで泣いた
150618
170116 修正
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