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「草壁」
そう呼ぶと、かれこれ十年もの付き合いになる部下は普段の生真面目そうな表情を緩めながらもすばやくこちらにやってくる。おそらく何を言われるのか分かっているくせして白々しくもどうしましたかと訪ねる彼の目の前に、一枚の葉書を差し出した。やはり予想通りだったのだろう、それを受け取ると一層笑みが深くなる。なんだかいたたまれなくなって殴ってしまいたくなるが、今日のところは抑えてやろう。
「今回のも綺麗ですね。きっと彼女、喜びますよ。…そうだ、またオリーブ石鹸も一緒に送るのはどうですか?この前の、気に入っていたようなので」
「…そうだね」
頭に浮かんだのは嬉しさに顔を綻ばせる彼女の姿。だからなのか、らしくなく随分と穏やかな声が出た。
少しでも喜んでくれればいい。以前の自分だったなら考えられもしないようなことを、その時の雲雀は思っていた。
喪失
日本を発ちイタリアへ行くことになった時、彼女と一つ約束をした。たまにでもいい、気が付いた時だけでもいい、私に手紙をください。たった一言だけで構わないから、雲雀君が書いた手紙を私に送ってくれませんか。そう控えめに問う彼女に仕方ないなと愛想のない返事をした。どうして彼女がこの時分に電子メールでなく古臭い手紙を選んだのかは、なんとなく分かるような分からないような。どこか気恥ずかしく長く文を書くことはなかったが、煩わしいとはちっとも思わなかったからたまにと言わずそれなりに頻繁に送った。最初は、真っ白な便箋に一言だけ綴った貧相な形のものだった。けれどそのうち、どうせ一言ならばと転々と各地を回る先で手に入れた、風景の描かれた絵葉書を送るようになった。
ほんのひとときの間だけでも、その絵を見て彼女が喜んでくれたら、退屈な日々から解放されてくれればいい。そんな思いを一枚の葉書に込めた。
「草壁」
そうしてその日も、雲雀は草壁を呼びつけた。ミコノス島の美しい海がうつる絵葉書を、日本に届ける手配をするように頼むのだ。定例通り何も言わずにそれを差し出すと、草壁は珍しくぽかんと間の抜けたような表情をその渋い顔に浮かべた。
「え…」
――あ。
戸惑ったような小さな声に、雲雀は目を見開く。葉書を渡そうとした腕が中途半端に持ち上がったまま、行き場なくさ迷っていた。
(今、何をしようとした?)
胸の内側が急激に冷めていくのを感じた。何でもないと一言だけ告げて、何か言いたげな草壁の視線から
逃れるようにその場から立ち去る。手の中で葉書を握り潰して、スーツのポケットに突っ込んだ。
(ああ、もう)
額に収まった花のような微笑みと、啜り泣きと、香の匂い。五感があの時に帰るような感覚。
どうして今更。もうあれから、随分経つというのに。
――雲雀君、
葉書の届け先は、今はもう、どこにもないのに。
◇
彼女がこの世から去ったのは今から数年ほど前のことである。まだ若かったのもあって、そう多くは交友関係を持っていなかったのだろう彼女の葬式の場で見る顔は、どいつもこいつも雲雀の見覚えのある奴ばかりだったように思う。皆一様に俯いて、涙を流す奴もいた。覗き込んだ棺の中には、白い顔をして横たわる彼女の姿。同じく真っ白な花に囲まれて安らかそうに眠っていた。その時、何も言葉は出ず、涙も出ず、表情だって少しも変わることはなかったのだろう。それどころか、寂しいだとか辛いだとか悲しいだとかいう感情さえ認識できずに。人より感情の起伏に乏しいのは何も今に始まったことではないし特に気にしてもいなかったが、この時ばかりはそんな自分に嫌気がさしたのを覚えている。何より大切に思っていた人が死んだ時でさえ、自分の心は平静のままだったのだ。
――いや。最初から、そう大切に思ってはいなかったのかもしれない。大切だと思い込んでいただけで、実際はそんなことはなかったのだ。だって自分は、そう、人とは違うから。非情だ冷徹だ果ては人でなしだなんだのとこれまで多くの者に言われてきたじゃないか。そんな自分が他と同じように他人を想うことなど、できるはずもない。する必要さえない。一時の記憶はいつしか消え去って、またいつも通り戦いにのみ思考を沈める日々に帰るのだ。
――ねえ、そうだろう?
「わぁ、このブドウ畑はどこの国のものなの?」
差し出された葉書を受け取るやいなや、彼女は頬を紅潮させて興奮したように雲雀の顔を見上げた。あまりの反応の良さに内心狼狽えつつも、それをおくびにも出さないまま返事をする。きっともう何を聞いても嬉しいのだろう、無愛想に口から出された答えにも目を輝かせるその様はまるで小さな子供のようだった。
その日は、久しぶりに日本へ帰ってきたからと直接彼女の元に出向いて絵葉書を渡した。以前そうしていたようにベッドの傍らに置いたイスに座り、ころころ表情の変わる彼女の横顔を眺めていた。――正確には、横顔以外に目をやれなかったという方が正しいのかもしれない。視界に入った彼女の体はひどく肉が痩け落ちて、陽の光に嫌われたように青白かった。
昔から、病弱だったという。思い出の中の彼女はいつだって病室の中だった。小学校も中学校もまともに通えた試しはなく、いつも退屈なのだと、なんでもないように笑う顔は何故だかやけに鮮明に雲雀の記憶に残っている。そんな彼女は雲雀からの葉書を受け取った時、いつもこんな風に笑ってくれていたのだろうか。雲雀が望んだように、その退屈さは少しは和らいでくれているのだろうか。離れて生活している雲雀には普段の手紙を受け取った彼女の反応を知る術はない。
「雲雀君?」
「!」
彼女が小首を傾げると、薄水色の病院着の肩がずれて鎖骨が顕になる。もはや骨と皮だけだと言っても過言ではないやつれた身体。笑った顔をしていても、彼女は最後に見た時よりも目に見えて衰弱していた。雲雀の知らない間に、こんなにも。
――僕が知らない間に、彼女は死ぬかもしれない。
「…ねえ、雲雀君」
嫌な考えがざわりと姿を覗かせた時、静かに彼女が雲雀を呼んだ。いつもは明るい振る舞いをする彼女の瞳は穏やかに細められ、まるで先程までの雲雀の心の内を読んだかのように優しく微笑んでいる。
「私、雲雀君と一緒に海に行きたい」
「…は?」
「絵葉書の中じゃない、本物の海。海外の…ほら、例えばギリシャの港街。綺麗って言うでしょう?青い海に真っ白な建物が冴えて…」
彼女の発言があまりに突飛だったものだから、雲雀は思わず目を見開いた。そんな所行ったこともないくせに、どこから仕入れた情報なのかぺらぺらと語り出す彼女に呆然とする。一瞬垣間見えたあの優しい微笑みはなんだったのか、いつの間にやら普段の調子に戻っているじゃないか。
「いつか、連れて行ってね。これも、約束だよ」
雲雀の右手を包み込んだ両手は、震えていた。けれど冷たくはなく、どこまでも優しい体温で、暖かくて。
飽きた/(^O^)\
っていうのと雲雀さんが誰これって感じだったんで…
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