まさしく君であるならば
「ねぇ、イクト…」
太腿の上に居座る猫っ毛頭をさわりと撫でながら、あむは小さく彼の名前を呼んでみた。いつだったか、人気のない路地裏で野良猫よろしく喧嘩をして傷ついたその男に、今と同じように膝枕をさせられた時のことを思い出していた。確か、いつものように何を考えているのか分からない顔をして、セクハラまがいなことを言ってくるあの口に腹が立って、コンクリートの地面に容赦なく頭を落としてやったんだっけ。思い出して、ちょっと笑いながら、あむは思い出をなぞるように彼の耳に指先を少し触れさせた。
「ん…」
あむと同じで耳が弱いと言ったイクトは、やはりこそばゆいのか、指から逃れるようにごろりと寝返りをうった。仰向けになって、眠そうに細められたその目があむを見る。
「イクトはさ…あたしの、どんなところを好きになってくれたの?」
へぇ、とイクトは少し笑った。いつもの、あむをからかうときのような、にやにやとした笑みである。けれどその笑みが、あむを蔑むのではなく、ただ愛でているために浮かんだものであることを、あむはもうずっと前から知っていた。イクトは、もうずっと前から、あむを大切にしてくれていた。
「なんだよ、あむにしては随分大胆な質問じゃん」
「だっ、だって」
案の定、イクトは早速あむを茶化しだす。困っているあむの顔を見ることが好きなのだ、このヘンタイは。意地っ張りで素直になれないあむは、何年経ってもこの男の思惑通りに慌てて、思ってもないようなことを口走ったり、やりたくもないようなことをしでかしてはまた繰り返し笑われてしまう。だけど、好きだから。好かれていることも、知っているから。あむは、それでもいいやと思っているのだ。口に出してやることは、あまりないけど。
「だって…イクトが、あたしのことを好きになってくれたのって、ちょうど今のあたしと同じくらいの歳の頃でしょ」
茶化してくるから、あむの口調は自然と少し言い訳じみたようなものになってしまう。それでもあむにしては、やはりイクトの言う通りいつもより素直に物を言えた方であった。言い訳じみた口調であれ、言いたいことを間違いなく伝えられたのだから。
あむは高校生になった。イクトは、もう成人を越えた。あむをからかって笑う表情はあの時と同じでも、その顔つきは丸みを控えシャープになって、纏う雰囲気も以前よりもさらに大人びた。
決して埋まることのない年齢の差を、あむは最近になってようやく自覚したところだった。イクトと自分が生まれる間に五年の隙間があったことを知らなかったわけじゃない。けれど、意識はあまりしてこなかった。イクトは出会った当初から大人びた雰囲気ではあったけれど、同時にどこか子どもっぽくもあったから。あむをからかって、怒らせて、たまにズレたお詫びをしてきては、あむはそのことが少しおかしかった。イクトが学生として過ごしている姿をあまり見てこなかったことも、原因のうちにきっとあるんだろう。自分があの時のイクトと同じように高校生になって、あむはやっと意識できたのだった。イクトは、まだ小学生だった自分を、好きになってくれたのだと。
「それって…すごいことだと、思っただけで…」
「ふーん…」
五歳差なんて、言葉にしてしまえばたいしたことはない。あむの周りにだって、五歳程度歳の離れたカップルは探せばきっと出てくるだろう。五歳年上の恋人なんて、何も珍しくはない。だけど、年下は?小学生の恋人は?あむはふと、そんなことを思ったのだった。五歳差なんて言葉にしてしまえばたいしたことはないけれど、小学生と高校生と言い直せば話はまったく別である。当時のあむはさほど年齢差を感じていなかったけれど、イクトの目にはよほどちんちくりんに映っていたのではないか。ガキだガキだと言われてむかついたこともあったけれど、まさしくイクトからすれば自分は紛れもなくお子様だったはずだ。だって現に、今のあむからすれば小学生は十分に子どもだった。外を歩いていて時折見かける元気に走り回る小学生相手に、はたして恋愛感情を向けられるかどうか、あむには正直分からなかった。
「すごい、ね…」
「イクト…?」
「あむはオレがロリコンだって言いたいわけ?」
「えっ!?」
急に出てきたなんだか妙に生々しい単語に、あむは思わずイクトの頭に乗せていた手を離してしまった。そんな風に思って尋ねたわけではなかったけれど、それでも否定しきれず、少し後ろめたくなってそろろと視線が明後日へと向いてしまう。
「…あ〜、アハハ…いや、えっとぉ…」
「そこ否定しないの?ひでーの」
とはいえ、イクトはさして気にしている風でもなかった。分かりやすくうろたえてしまうあむを、おかしそうに見つめてくる。だらりとリラックスして腹の上に乗っていたイクトの腕が、不意にあむの方へ伸びてきた。頬をするりと撫でられ、その優しい手つきに、力の入ってしまったあむの肩から強張りが抜ける。
「子どもクセーところも、オレよりもずっと小さい身体で一生懸命頑張ってたところも、ガキみたいな意地っ張りなところも、全部、全部、好きだったよ」
「………」
「…何考えてっかはだいたい分かるけど、スゲー顔…」
「イクト…あんた本当に…ロリコン…」
ぞわ、と微妙にたった気がしないでもない鳥肌に自分の体を抱きしめる仕草をしてみせる。あむのあからさまに引いたような表情にイクトも若干出鼻をくじかれたようだった。頬に添えた手を離し、一気に皺の寄ったあむの眉間をほぐすように指でぐりぐりと押してくる。甘くなりかけたムードは、一瞬にしてすっかりぶち壊しとなった。今更嫌いになることなどないけれど、それでも恋人のまさかの性癖を知ってしまったようで、あんな質問するんじゃなかったと後悔があむの頭を通り過ぎる。
「…オイコラ。勘違いすんじゃねーよ」
「あっ!あいたっ」
イクトの長い指によって繰り出されたデコピンは、無防備なあむの額にしっかりと命中した。そして、じんじんとした痛みを感じる間もなく、あむの後頭部に回される手。そのままその手を引かれれば、あむの鼻先はあっという間にイクトのそれと触れ合うほどに近付いた。イクトと至近距離で見つめあった回数はもはや数えきれない。それでも不意打ちでこんな風にされたなら、あむの胸は否応なしにときめきを覚え、鼓動を早めてしまう。
「あむだから好きになったんだよ」
少し掠れたイクトの声があむの鼓膜を震わせる。ちんちくりんな子どもだったから好きになったわけじゃない。ちんちくりんな子どもだったところも、何もかも、あむが、あむであったから好きになったのだと、イクトはそう伝えてくれた。
「あむがガキだとか、そうじゃないとか、そんなのどうでもよかったんだよ」
イクトはそこまで言うと、もうぎりぎりまで近づいていたあむの顔をさらに少しだけ近づけて、唇と唇を触れ合わせた。触れ合ったのは瞬きほどのわずかな時間だったけれど、それでもあむの顔を赤くさせるには十分だった。
「そ、そ、そう…なんだ…」
「やーい、照れてる照れてる」
「うっうっさい!あんたがっ、恥ずかしいこと言うから…っ」
「そーだよ。恥ずいこと言ってるよ」
「え…?」
「お前がそうさせてるんだ。お前が、こんなすごいことさせたんだよ、オレに」
自分こそがイクトにすごいことをさせていたのだという衝撃だとか、イクトの言葉がなんだか妙に色っぽく聞こえてしまった恥ずかしさやら、もういっぱいいっぱいになって、あむはとうとう降参だというように項垂れた。赤い顔を見られないように、イクトの首元に顔を埋める。小学生の自分だったらそんなこともできないだろうけど、それぐらいのことが出来てしまうくらいには、あむはイクトと時を重ねてきた。イクトに手を引かれながら、少しずつ大人になってきた。濃紺がかった黒髪の柔らかい感触を直に受ける太腿は、おそらくあの時よりも幾分か肉付きが良くなったはずである。太腿だけではない、お尻も、胸も。特別に豊満な体型ではないけれど、それでも小学生だった頃に比べればマシになっていると、思う。けど、イクトはどっちだっていいらしい。どっちも好きになってくれるらしい。
(…あたし、なら)
イクトなら、この先あむがもっともっと大人になって、おばさんになって、おばあちゃんになっても、好きでいてくれる。確証なんてあるわけじゃないけれど、それでも、そう信じられる気がした。あむは、意地悪なイクトが、その実誰よりも優しくて、誠実な人であることを知っているから。そんなイクトを、あむは好きになったのだから。
「…あむは? オレのどこを好きになったワケ?」
「えっ!?」
まるで狙いすましたかのようなタイミングで質問してくるイクトについ声が裏返り、おまけに隠していた顔を上げてしまう。イクトは相変わらずのにやけた顔で、心が読めているわけではないと分かっていても、何もかも見透かされているような気がしてますます顔に熱が集中する。
「イクトこそっ!さっきの全然答えになってないじゃん!全部とか…っ」
「えー、オレはウソついてねーんだけど」
「最初から…その、全部好きとか、そういうわけじゃないでしょ? きっかけとか…」
「うーん…子どもクセーとことか?」
けろりとふざけたことを抜かす猫男に、ただでさえ興奮気味のあむの額に青筋が浮かんだ。
「結局それかーーっ!!」
「いてっ、オイ、殴んなよ。冗談…」
いつかと同じように膝から容赦なく落としてやったので、猫っ毛頭は次の日しっかりとタンコブをこさえることになる。
(教えてやんない。まだ…)
イクトは子どもだって大人だって構わなかったらしいけれど、それでも大人でありたいと思う。まずは、この子どもみたいなこの意地っ張りを直したい。そうでなければ、胸でいっぱいに膨らんだこの思いは、なかなかありのままを伝えられる気はしないから。
イクトの言葉がこんなにもあむを幸せでいっぱいにしたように、あむもまた、イクトを同じだけ幸せでいっぱいにしたいと、そう思った。
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