沖縄の地が琉球(りゅうきゅう)と呼ばれていた頃、シンドウ様と呼ばれる神様がいました。彼は道祖神の一種で人々から旅や交通安全の神として祀られ、愛されています。この美しく逞しい男神は生来孤独であったため、自らと夫婦(めおと)になってくれる者を心から欲しがっていました。
「この地のどこかに、伴侶となってくれる者はいないだろうか。」
シンドウ様はやがて自ら道を作り、その道を最後まで渡れた者を自らの伴侶とすることにしました。ですがシンドウ様の作った道は大変危険で、人々はおろか、神々さえも忌避するほどでした。
シンドウ様に唆され、道を渡ろうと挑戦した者は老若男女、大勢いました。ですが、みな例外なく死んでしまったり、大怪我をするなど、誰一人として最後まで渡れた者はいませんでした。最早、その道はシンドウ様にしか渡れないのだと囁かれるほどに。
「なぜ皆渡れない。俗世を捨て、対となってくれる者は誰もいないのか。」
シンドウ様は大いに嘆きました。最愛の伴侶を見つけられぬまま、孤独に生きていかねばならないのかと。
しかしある日、変化は訪れました。シンドウ様の作った道を最後まで渡れる者が現れたのです。渡ったのは若い女でした。シンドウ様は大喜びし、この者を夫婦にと迎え入れました。白無垢を着せ、盃と神酒を用意し、ありったけの贅を凝らして祝言を挙げたのです。
シンドウ様と若い女は、夫婦の盃を交わします。すると若い女はこの時、初めて口を開きました。
「シンドウ様。わたくしが道を渡ったのは、兄のためです。兄は貴方様に唆され、無謀にも貴方様の作った道を渡ろうとして、命を落としました。これは仇討ちです。あなたと夫婦になど、金輪際なりませぬ。」
若い女は隠し持っていた脇差で自らの首を斬り、自死しました。彼女は夫婦になるのが目的ではなく、復讐のためにシンドウ様の道を渡ったのです。夫婦の盃を交わしてから自死したのは、より深い絶望をシンドウ様に与えたかったからに他なりません。白無垢は血で赤く染まり、道さえも赤く染めていきました。
シンドウ様は暫く言葉を失っていましたが、彼女の遺骸にそっと口付けて微笑みました。
「これで逃げたつもりか。夫婦の盃を交わしたからには、縁は深く結ばれ、我が愛からは逃げられぬ。次の世、いや、世の果てまで我々は夫婦(めおと)となる宿命だ。」
シンドウ様は若い女の遺骸を抱えたまま、自らの作った道を進んでいきました。愛しい者の血に塗れた、真っ赤な道を。その道は神の道、後の世で神道(しんどう)と呼ばれることになりました。
彼は長い時間をかけて、ようやく対となる存在を見つけたのです。シンドウ様は人に転生しました。俗世へと赴き、逃げてしまった最愛の伴侶を迎えに行くために。
※
神道家の庭の片隅には、シンドウ様という道祖神の像がひっそりと祀られている。
忌事には神道家の当主が、慶事の際には当主の妻が神酒と家宝である脇差を捧げ、祈る風習があった。
神道家当主の妻、名前はこの儀式がどうにも苦手だった。特にシンドウ様の前で脇差を握っていると、ひやりと心臓のあたりを撫ぜられた心地を味わった。続いて、右側の首筋がどうにも疼き、まるで本当に斬りつけたかのような嫌な気持ちさえ抱いた。
「名前、顔色が悪いな。大丈夫か?」
「あなた……はい、大丈夫です。」
シンドウ様に神酒と脇差を捧げ、彼女は夫である愛之介に気丈に微笑んだ。そして数ヶ月前の出来事を回想した。
名前には兄がいた。彼は愛之介と同期で将来有望な政治家であったが、とある建設会社の裏金帳簿の隠滅に関わったとして偽証罪で逮捕されてしまった。
当主の逮捕は名前の家では一大事となり、資金繰りに困窮し、家名存続の危機に立たされた。すると愛之介が名前との婚姻を条件に、援助を申し出た。
彼は名前の兄とは親交が深く、また名前を愛していたために、助けになりたいのだと強く主張した。まさに救いの手だとして、名前の家の者たちは神に縋るように愛之介の提案を受け入れた。
「兄のことを思い出していました。……兄は危険な道を渡ってしまいました。結果、政治家としては死んでしまったも同然です。」
「……お義兄さんのことは、気の毒だった。」
愛之介は心痛の表情で労った。証拠がありながらも、兄は最後まで無実を訴えていたことも名前は思い出す。
もしかしたら誰かの策略に嵌められ、無謀にも死出の道を渡ってしまったのではないか。まるでシンドウ様に唆され、危険な道を渡って命を落とした青年のように。名前はそんなおそろしい考えを振り払った。そんなはずはない、と愛しい夫へと縋りながら。
「愛之介さん、シンドウ様は人の世でも伴侶に逢えたと思いますか?」
「ああ。」
伝承ではシンドウ様は伴侶と見初めた若い女を追い、人へと転生したという。次の世だけではなく世の果てまで夫婦となる宿命だと、呪縛のように告げて。
愛之介は頷き、名前に優しく寄り添う。そして最愛の妻の下腹を、愛しそうに撫ぜた。
「僕の愛しい名前。だから今度は逃げられないように、子を成した。」
いずれ愛しい妻の血に塗れた、神道のように真っ赤な道を赤子は渡ってくる。愛之介は愛の結晶の誕生を、心から楽しみに待っていた。
幾世巡れど、彼は名前を愛する。世の果てまで続くそれは、祝福のような呪縛に他ならなかった。