しりませんか?


 週刊誌は芸能人、各界における著名人のスキャンダルを鮮度の良い状態で読者に届ける雑誌だ。
 不倫や熱愛、賄賂から下世話な懐事情まで。タイムリーで刺激的なものであればあるほど、売れ行きは好調になる。そのなかでも、週刊文秋の活躍は群を抜いていた。『センテンスオータム』『文秋砲』と昨年流行語にも選ばれたほど、情報の高い精度と掲載の早さで一躍有名になった。
 現在、神道家を揺るがす目下の問題。それは週刊文秋に愛之介と謎の美女が『一夜の不倫疑惑』と書かれたことだった。

「厄介な事態になったな。週刊誌の訂正記事の見通しは?」
「これから連絡を入れます。交渉次第では、すぐに訂正記事が上がるかと。」
「額は上乗せして構わない。早急に訂正記事を掲載させるように伝えろ。他社からこの件で問い合わせがあった場合、事実確認中と回答しろ。」
「かしこまりました。すぐに手配します。」

 神道家当主にしてスキャンダルの当事者、愛之介は
秘書の忠に指示していく。会談から接待まで、すべては政敵の議員によって仕組まれたことだった。彼は予測していて可能な限り手を打ったが、同伴した先輩議員が見事にハニートラップに引っかかり、愛之介に火の粉が及んだのである。
 愛之介は自らの政治生命のほかにもうひとつ、最大の懸念があった。それは最愛の妻への影響だ。彼は名前の様子を早口に問う。
 
「それで名前の様子は?」
「奥さまは笑っていました。そして『叔母さまがたと正門前の記者たちへの対応は任せてほしい』と。」
「名前らしいな。」

 名前は自らが傷ついた時、周囲を気遣うように笑う癖があることを愛之介は知っている。
 心優しく寛容な彼女は、弁明する愛之介に対して責めることなく理解を示した。そして微笑みながら労った。
 彼女は現在、不機嫌の絶頂にいる叔母たちを宥め、正門に群がった記者たちに毅然と対応している。
 愛之介は干渉してくる者たちから、非難の言葉をひとことも浴びていない。それは名前の尽力の賜物だといえた。

「……苦労をかけてしまったな。僕が名前以外に目移りするなどあり得ない。愛を誓い、夫婦として生涯をともにするのは名前だけだ。」

 愛之介の言葉には妻への陳謝、愛情と誠意がふんだんに込められている。忠は主人の思いを汲み取り、忠実に仕事を果たすべく告げた。

「では私は引き続き対応にあたります。失礼します。」
「ああ。頼んだぞ。」

 秘書の仕事をすべく、忠が退出した。愛之介は気密性の高いケースから煙草を一本取り出し、慣れた仕草で火を灯して一服した。
 政治家で当事者である以上、当人が対応するのは報道陣のみを集めた会見だけが望ましい。つまり、今の愛之介は名前や忠に適切な対応を委託するしかない。
 呼吸器官から吐きだされた煙が、羽根のように散っていく。普段ソフトな嗜み方をする彼にしては珍しく、シケモクになるまでその一服は続いた。



「愛之介さん、今日は先に失礼します。おやすみなさい。」

 その晩、名前は愛之介に先に眠ることを伝え、早々に就寝した。週刊誌対応の件で肉体的にも精神的にも、かなり疲労しているのは誰の目にも明白だった。

「……おやすみ、名前。今日はすまなかった。」

 改めて詫びを入れ、その労に報いなくてはならない。彼はそう決意し、妻の隣で寝ることにした。
 幾時間が経過し、愛之介はふと目が覚めた。喉が異様に渇いていた。新鮮な水が欲しいという欲求のまま、部屋を出て階下に向かう。水分を補給した彼は、階段を登ったところで二階の廊下で人を発見した。
 月明かりに照らされ、ほっそりとした華奢な孤影が立っている。見慣れたガウン姿。妻の名前だった。彼女は寝室から3メートルほどの場所にいて、愛之介には背を向けている。
 こんな夜中に廊下で何をしているのか。愛之介が声をかけようとした瞬間、彼女が喋った。

「しりませんか?」
 
 老人と子どもの声が混ざり、それをボイスチェンジャーで通したような陰鬱で不気味な声だった。
 一体何を知りたいというのか。愛之介は妻の姿をした妻でないモノに一瞬で恐怖を覚えた。
 名前のかたちをした得体のしれない存在は振り向かずに、壊れたレコードのように同じフレーズを繰り返した。まるで首の後ろの紐を引っ張ると、同じ言葉を繰り返す人形のように。

「しりませんか?」
「しぃりませんか?」
「しりませぇんかぁ?」
「しニりぃませェんかァ?」

 愛之介は戦慄した。自身の耳もとのすぐ傍でその声が聞こえてきたからだ。奇妙な韻律に発狂寸前の恐慌状態となる。脳髄が強く痺れ、まるで裸で豪雪地帯に放り込まれたように凍えた。歯同士が擦れ合い、カチカチと震える。汗は最早流れるのではなく、おそろしいほど湧いてくるものだった。
 妻の姿をしたモノは、顔をゆっくりと愛之介の方へと向け始めた。彼は恐慌状態に陥っていたが、本能で察知した。

 ─── アレが完全にこちらを向いたら終わりだ。

 理解はしながらも、打つ手がまったくない。尋常ではない恐怖に直面すると手指が痺れ、産毛が逆立ち、氷像と化したように動けなくなってしまう。それを残酷なほどに愛之介は体感していた。
 死が緩やかに近づく。絶対的な死の淵が口をゆっくりと開けてくる。

「名前、」

 愛之介は妻の名を紡ぎ、その後は必死で脳内で呼んだ。もっと愛していると言えばよかった。苦労をかけてすまないともっと謝ればよかった。そんな後悔が次々と白波のように押し寄せ、愛之介が顔の全容を目にしようとした、その時。
 寝室の扉が勢いよく開いた。

「ん、……愛之介さん、廊下で何してるの?」

 扉を開けたのは、名前だった。幸運なことに、扉のおかげで得体の知れないモノから遮られた。
 愛之介の耳もとで聞こえていた不気味な声が止んだ。平穏な静寂が訪れ、彼は恐慌状態から解放された。頼りない、縋るような声で妻の名を呼ぶ。

「……名前、」
「夜中にうるさくしてごめんなさい。何かあなたに呼ばれた気がして……急いで起きて廊下に出たの。」
「いや、英断だった。」

 愛之介は寝室の扉を閉め、向かいの廊下を見た。妻の姿をしたモノは消えていた。まるで消失マジックのように、何の痕跡も残さずに。
 
 ─── しりませんか?
 
 アレは一体何を知りたがっていたのか。愛之介は考えたが、結論を出すことを早々に放棄した。ただ黙って安堵のままに妻を抱きしめる。彼女の行動があったからこそ、今の平穏があるのだから。
 名前は愛之介に何があったのか、追及したりはしなかった。週刊誌の記事を知った時と同じだ。彼女は理解を示し、夫の背中を労わりを込めて撫でた。

「愛之介さん、寝ましょう。……今日はとてもお疲れのようだから。」



 翌朝、週刊誌に訂正記事が掲載された。迅速な対応をしたおかげで、メディアでは『週刊文秋の行きすぎた取材行為』として騒がれることになった。
 会見にて愛之介は完全潔白を主張し『騒動で妻や秘書、各方面の方々に多大な迷惑をかけてしまいました。そして週刊誌の記者の方も仕事をしただけなので、どうか責めないでいただきたいと思います。』と先に平身低頭で対応した。
 記者さえも丁寧にフォローする姿勢は、世間から『人格者たる神道議員は記者にも寛大』『愛妻家の彼こそ最大の被害者だ』と大きな同情票を得ることになった。

「愛之介さま、素晴らしい会見でした。」
「当然だ。」

 愛之介は秘書からの賛辞を当然のように受け入れ、自室の窓から正門を眺めた。群がっている記者たちは気の早いことに、愛之介や名前を『週刊文秋の被害者』として取材したいらしい。
 名前が議員夫人として丁寧に答えている以上、騒ぎは早期に収束するにちがいなかった。愛之介は自らの伴侶の優秀さを誇らしく感じつつ、言葉を紡いでいく。

「で、僕に手間をかけさせた例の政敵の議員は?」
「複数の愛人の存在、大手の建設会社から賄賂を受け取っていることが判明し、週刊文秋に明日掲載される運びになりました。文秋側は今回不発に終わった名誉挽回のために、この件に関しては喰らいつくと思われます。」
「重畳だ。このまま失脚すれば僕も仕事がしやすい。ご苦労だったな、忠。」
「はい。それでは失礼いたします。」

 有能な忠犬のごとき働きをした忠を労い、愛之介は一息ついた。彼が退出した後、ふと昨日遭遇した怪異について考えた。思考に余裕が出てきたために、無性に気になったのだ。

「『しりませんか?』……一体アレは何を知りたかったんだ?」
 
 落とし物か、事実か。妻の姿をした得体の知れない何かは愛之介に問いかけた。
 答えが出ないまま頭を働かせていると、規則的なノック音が響く。愛之介が入室を促すと名前が部屋に入ってきた。

「愛之介さん、記者への対応が終わりました。その報告です。」
「早いな。それなりに人数はいたはずだが。」
「同じことを聞かれるから、時間がかからなかっただけですよ。ふふ、私が愛之介さんのことをたくさん褒めたから、惚気を聞いていられなくて取材を止めてしまったのかも。家の中でお茶を交えて話しましょうと言ったら、皆さん帰られてしまったし。」
「いや、よくやってくれた。ありがとう。」

 名前は仕事が早いことに、正門前に群がっていた報道陣への対応をもう済ませてしまったらしい。鼻唄交じりでお茶まで持ってきている。愛之介は優秀でいながら可愛らしい対応をした伴侶に苦笑し、そして改めて謝意を告げていく。

「名前、今回は迷惑をかけてしまってすまなかった。」
「いいのよ。あなたは潔白だったし。私は自分にできる仕事をしただけだから。」

 神道夫婦の間には、暖かな雰囲気が漂っていた。騒動を越えて、絆のようなものが深まった感触さえあった。
 愛之介は安心し、昨日の怪異について妻に意見を求めることにした。『しりませんか?』と繰り返し呟く名前の姿をした得体の知れないモノ。極大の恐怖、死を体感しかけたこと。彼はすべて妻に吐露したのである。
 すると名前は人好きのする微笑みで答えた。晴れやかに、まるで報道陣に対応するように。

「それ『死にませんか?』って言ってたのよ。……あなたが私じゃなくて別の女を呼んでたら、放っておこうと思ってた。良かったね。」



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -