ニライカナイ


 ニライカナイ。その名前を愛之介が耳にしたのは、視察先の学校内、下駄箱付近を歩いていた時だった。
 校舎の老朽化が著しく、耐震性もない。次の議会で建て替えを提案する。愛之介がそう告げ、話をしていた教頭らと別れた直後のことだった。

「……神道先生、ニライカナイへの行き方はご存知ですか?」

 その問いかけをしたのは、この学校に勤める教師らしき男だった。顔色に生気がないのに、充血しきった目は異様な圧力があった。シャツは何日もアイロンをかけていないのか、皺だらけだ。ネクタイは解けて首もとにだらしなくかかっている。ボタンだけはきっちり襟元まで留めているが、そのアンバランスさが見る者に狂気を感じさせた。
 こんな面相で授業に支障はないのか。愛之介は率直にそんな感想を抱いた。男の異様な妄執めいた雰囲気に、有権者用の愛想はつい引っ込んでしまった。

「いえ、申し訳ありませんが……存じません。」

 愛之介がそう答えると、教師らしき男は片手でぐしゃりと自身の髪を掴んだ。そして遂に両手で乱雑に頭を掻きむしり始めた。興奮しきった絶望といった様子で騒ぎ始めたのである。

「ああああ、あの高名な議員先生なら知ってると思ったのによおぉ……知らねーじゃんか、ニライカナイの行き方……ニライカナイだ……俺はニライカナイに行きたいんだよぉ……誰か教えてくれ……行かせてくれよおぉ……!!!」

 狂乱した男の声に、職員室から教師たちが数名飛び出してきた。混乱と動揺、怒号が飛び交う。

「なぜ彼がここにいるんだ?休職中だっただろう!」
「とにかく止めましょう!!」

 教師たちは動揺と混乱をしながらも、頭を掻きむしる男を押さえつけ、別所へと運び出す。教頭は見本のような平身低頭の姿勢で、愛之介に謝罪した。

「……お騒がせしました、神道先生。誠に申し訳ありません。彼は休職している教師でして、現在療養中の身です。なぜ本日学校に来ていたかはわかりませんが、然るべき措置を取らせていただきます。」
「いえ、それは大変だったでしょう。お気になさらず。では失礼します。」

 愛之介はようやく有権者用の愛想をまとい、学校を後にした。秘書の運転する車に乗り込み、次の視察地へと向かう。
 送迎車がアスファルト舗装道を走っていく。窓の外の変化していく街の風景を、彼は眺めていた。やがて愛之介の口から、ちいさな呟きが滑り落ちた。
 
「ニライカナイへの行き方、か。」

 精神が明らかに錯乱していた男の言葉が、愛之介はやけに気になった。まるで石を投じた池が波紋を生むように、彼の胸中に好奇心が生まれたのだった。



 仕事を終えた愛之介はニライカナイについて、ネットで調べた。優秀な電脳世界は、愛之介の知りたい情報をすぐに提供した。

 『ニライカナイは理想郷、魂の還る安息の地を意味する。俗世から隔離され、生者は行くことのできない禁足地とされている。』

 それは愛之介の頭のなかにある知識と一致していた。沖縄や奄美諸島で定着している土着信仰の対象のひとつであり、空想上の存在。桃源郷に近い。ニライカナイに行きたいと錯乱した男はおそらく自殺願望があったのだろうと、愛之介は結論付けた。
 更に検索していく。そして個人サイトではあったが、興味深い一文を彼は発見した。

「『ニライカナイは足を踏み入れた者にとって最大の幸福、理想だけを投影した世界が見えるといいます。』……なるほど。僕の場合ならランガくんとずっとスケートをしたり、忠が傍にいて名前に甘やかされる世界が見えるわけか。いいな。」

 俗世から隔離された理想郷、その夢想に愛之介はうっとりと浸った。
 政界や神道家のわずらわしい呪縛から、すべて解放された世界。スノーこと馳河ランガと心ゆくまでスケートで滑る。自らに忠実な犬である忠を傍らに置き、最愛の妻である名前と愛し合い、寄り添う。まさに最高の世界だと、愛之介は脳内で理想を幻成していた。
 やがて規則正しいノック音が響いた。愛之介が入室を許可すると、名前が珈琲を持って入ってきた。

「愛之介さん、お疲れさま。」

 柔らかな微笑みと一緒に、名前は珈琲を差し出した。結婚してからそれなりに期間は経つが、未だにこの笑顔が愛しいと、愛之介は頬を緩めてしまう。
 妻を大切にする姿勢から、彼は愛妻家議員だと週刊誌で評されたこともあった。そして結婚を考えている人々や共働き夫婦への支援政策を強化する意向を示したため、独身層から主婦層に至るまで絶大な支持を受けた。結果、愛之介は今期の選挙戦で大勝している。
 名前への愛が議員としての自分を支えている。それを名実ともに愛之介は実感していた。その心の緩みからつい、彼は口にしてしまった。

「ありがとう。名前はニライカナイを知っているか?」
「ええと……理想郷のこと?」
「そう。そんな世界が実在するなら、最高だと思ったんだ。」
「ニライカナイね。うーん、確かその言葉は気にしたら駄目だったような……あ、そういえば今日は美味しい菓子もあるから、持ってくるよ。休憩しましょう。」
「ああ。」

 名前はそう告げて、退室した。愛之介はボールペンで『ニライカナイ』と白磁のメモ用紙に書いた。余白に幾度もニライカナイと書いていく。まるで隙間をすべて埋め尽くしたいかのように、文字で埋めていく。
 『ニライカナイ』の文字が余白を埋め尽くしたところで、愛之介は満足そうにつぶやいた。

「知りたいな。……ニライカナイへの行き方。誰かに教えてほしいくらいだ。」

 妻の淹れてくれた珈琲の香りを楽しみ、口へと運んでいく。愛之介はこの時、精神が錯乱していた教師とほぼ同じことを言っていた。だが、彼はそれに気づかなかった。夢見心地のあまり、すっかりその事実を忘れてしまったのである。



 今日は愛之介の様子がおかしい。その異変に最初に気づいたのは、秘書の忠だった。休憩時間や車の移動中に独り言をつぶやくようになったのである。
 午前中は責任の所在を問う尋問のような議会、地元住民たちから酷評と反対の嵐を浴びている建設地への視察など激務が重なっていた。そのストレスで一時的にそうなったのかと忠は思ったが、どうやらそうではないらしい。
 運転席で忠が耳を澄ませると「ニライカナイに行きたい。」と言っているのがわかった。バックミラー越しに見る主人は、妄執に満ちたような異様な雰囲気をまとっている。

「愛之介さま。お疲れのようでしたら、この後のご予定をキャンセル致しましょうか。幸い別日でも問題がない案件です。本日は……、」
「差し出がましいな、僕は疲れていない。早くニライカナイに行きたい。……忠、お前はニライカナイへの行き方を知らないか?」
「ニライカナイ、ですか。いえ、存じ上げません。」

 忠が正直に答えると、愛之介は不機嫌そうに眉根をしかめた。そして運転席のシートを乱暴に掴み、忠へと叩きつけるように声を荒げた。

「何で知らないんだ……僕の優秀な犬で、運転手も兼任しているお前なら分かると思ったのに。……ニライカナイだ。目的地はニライカナイにしろ。……早くニライカナイに行け!今すぐにだ、早くしろ!!忠!!」

 尋常ではない様子に、忠は絶句する。このままでは仕事どころではない。彼は非常灯をつけて車を停止させ、車外に出て予定の全キャンセルを相手方に告げた。
 これまで政治家秘書として、あらゆるトラブルを未然に防止してきた忠。その彼であっても想像のつかない領域で、とんでもない異常事態が発生していた。それだけは確かだった。



 自宅へ強制的に帰させるという忠の判断は、英断だといえた。愛之介は今、まともに仕事ができる状態ではない。忠は狂乱寸前の愛之介を苦労しながらも自室へと誘導し、休息を促した。
 すると只事ではない気配を察知した名前が、慌てた様子で部屋へと入ってきた。

「菊池さん!愛之介さんはどうしたんですか?」
「緊急事態です、奥さま。愛之介さまの様子が変なんです。ずっとニライカナイとうわ言のように……、」

 ニライカナイ。その単語について、名前は必死で記憶をたぐり寄せた。脳内で情報を合致させた彼女は、早口に告げていく。

「菊池さん、私は祖母から聞いたことがあるの。ニライカナイという言葉を口にしたり、耳で聞いたりする分には問題ない。問題なのは誰かに言われて本気で『行きたい』と願ってしまうことだって。」
「奥さま、では愛之介さまは、」
「何か強いストレスを受けて、本気で行きたいと願ってしまったんでしょうね。あの時、ニライカナイについて考えるのは駄目だと、はっきりと伝えていればよかった……後悔してる。」

 ニライカナイは生者にとっては禁足地。俗世から隔離された理想郷。行きたいと願うことは、逝きたいと願うことにひとしい。人が侵してはならない聖域、魂の安息地に他ならなかったのである。
 恐るべきことにニライカナイへの願望は言葉を通じて、人から人へ伝播する。まるで感染病のように、行きたいと願った人物を逝かせてしまうのだ。

「ニライカナイの思想に取り憑かれた人を解放するには、その思い描いた理想にいる人物が声かけをして、俗世に引き戻すしかない。私が愛之介さんの理想として存在していればいいけど……、」

 ベッドにいる愛之介へと名前は近寄り、声かけをしていく。事態は一刻を争う状態だった。

「あなた、しっかりして!愛之介!!」

 肩を揺さぶり、まるで緊急搬送された急病人の意識を呼び起こすように名前は懸命に叫んだ。魂が俗世へ戻るようにと、何度も切実に訴えかけた。
 すると愛之介に変化が訪れた。生気が感じられなかった蝋のような頬に、血色が戻っていく。興奮しきった絶望のような表情は消え失せ、憑き物が落ちたようなそれとなる。

「名前……、忠?」

 必死の形相のふたりに見つめられ、愛之介は不思議そうに問うた。

「愛之介さま……ご無事で良かったです。」
「良かった、ほんとうに。あなたが無事で。」

 安堵の唱和が響いた。彼は名前から抱きしめられ、忠からは気遣いのままに慰めの言葉をかけられていく。こうしてニライカナイの騒動は、一件落着と相成った。



 神道家ではニライカナイの話題は禁止とされ、事情を知る者たちには直ちに箝口令が敷かれた。騒動の性質上、名前や忠の英雄的な活躍は伏せられることになった。
 それから数日が過ぎた。議員として愛之介は精力的に活動し、忙しい日々を消化していく。愛之介はニライカナイについては、まったく覚えていない。校舎老朽化の件で学校へ視察した日から、ニライカナイに関する記憶は幸運なことに消失していた。
 本日も政務を終え、愛之介と忠は帰路についた。忠はずっと黙ったままだ。昨日から彼がいつになく暗い表情のまま、沈黙を守っていることを愛之介は知っていた。

『まったく……秘書の独断で政務をキャンセルするなんて、神道家の栄誉と信頼に泥を塗るつもり?あなたが秘書としてしっかりしてないから、こんな事態になったんじゃないのかしら。』
『私設秘書を増やしましょうか。愛之介さんの役に立つ犬を見繕いましょう。』
『見合いをして嫁を娶れば、すこしは落ち着くでしょう。愛之介さんも飼い主として、リードはしっかり握っていないといけませんよ。いいですね?』

 忠は叔母たちから見合いを勧められ、さらに今後は私設秘書を増やすことまで提言されていた。愛之介が狂乱状態で帰宅したのも忠のせいだと、酷い言いがかりまでつけられていた。
 相当なストレスが溜まっているだろうから、明日は強制的に休ませよう。そう愛之介が気遣いゆえに決意した、その時だった。

「愛之介さま、」

 深淵から囁くような暗い声だ。愛之介は運転席に座る男の顔色の悪さに気づく。まるで蝋のように蒼白だ。

「……忠、具合でも悪いのか。」

 すると忠はシートベルトを外し、ぐしゃりと片手で自身の髪を掴んだ。そして遂に両手で乱雑に頭を掻きむしり始め、興奮しきった絶望とも呼ぶべき雰囲気で振り向いた。
 愛之介はその様子に既視感を覚えた。記憶にないが知っているような気がしたのだ。顔色に生気がないのに、充血しきった目には異様な圧力がある。その狂気じみた表情を。

「……愛之介さま。ニライカナイへの行き方はご存知ですか?」



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