「げ」

体育館の外でクロを待っていたら嫌悪感たっぷりな声が聞こえてきた。うつらうつらしだした意識を精一杯引き戻し、そちらを確認すると、声を出していたのはクロらしい。
つーか「げ」とはなんだこいつ。待ってやったのに。

「なんでいんだ」
「研磨に言われたからだけどー。なに?あんたが研磨に頼んだ訳じゃないの?」
「ちげーよ。なにあいつ、気でも効かせたつもりか?」
「なにそれ」

私は立ち上がりスカートに付いた土ぼこりを払う。
クロは体育館に向けて「居残るヤツちゃんと鍵閉めとけよー」と声を上げた。もう十分遅い時間なのにまだ残るヤツいるんだと感心しながら中を覗くと、リエーフが夜久くんにしごかれてて納得。
どっちを労るべきなのか。いや、夜久くんだな。
お疲れ様です……。

「おら、帰んぞ」

クロは私をちらりと見てから歩き出す。居残りのヤツらは心配であるけど、彼の背中を追いかけることにした。
ちなみに研磨は先に帰ったのを確認済みだ。

前を歩いていたクロに追い付き、隣に並ぶ。こんな風に一緒に帰るのも久しぶりだ。
私はもう部活を引退したから早くに帰ってるし。バレー部は遅くまで部活やってるし。

「あー、そういやさ」
「なに?」
「あいつになんか言われたか?」
「あいつ?研磨のこと?」
「そ」
「別に、今日は「クロのこと待ってやって」って言われただけだけど。あいつは先に帰ったみたい」
「…………研磨に余計なこと言うんじゃねーな…」

クロはガシガシと寝癖頭を掻く。
どうしたんだろうか。
なんかいつもと様子が違う。
なんかあったの? と聞けばクロは一度言い淀んで、溜め息を吐いてから口を開いた。

「あれだ、研磨に恋愛相談みたいなことしてみたんだよ」
「ぶっは」

思わず吹き出す。
この猫みたいに飄々としてるやつが恋愛相談。想像もつかない上に面白すぎる。
研磨も相当困っただろう。研磨、そういうの疎いだろうし。
ああ、だからか。話が繋がった。

「なるほど、それで困った研磨が私に丸投げしたわけね」
「……………はぁ?」
「え、違うの?」

絶対そうだと思ったのに、クロはドン引きという面持ち。なによその顔。
つーか折角繋がったのにまたバラバラじゃん。

「研磨が「多分、行動に移さないとどうにもならない」って言っていたけど、確かにな」
「なに自己解決してんの。あんたの恋愛関係の話なんて珍しいんだから、ちゃんと話してよ」
「お前のそれ、楽しんでるだけだろ」
「いかにも!」
「うわー。ほんと、あり得ねー」

クロは足を止めると、じっとこちらを見つめてくる。私も足を止めてクロを見つめてみた。
真剣な瞳にゾワっと全身を巡る血が駆け足になる。


「もしかしてあんた、私のことが好き?」


なぜか動揺する自分があり得なくて、冗談のつもりで言ったのに、クロは深く頷いて更に動揺してしまう。まさかそんな、クロのことだから嘘に決まってる。
だって私とクロは幼馴染みだし、恋愛とかほんと、そんなのいらない仲じゃん。男女の友情は成り立つって話もしたじゃん。

だから嘘だ。
じゃないと、今までの全てが嘘になる。

「なんだよ、俺ってそんなに信用ないわけ?」
「ゼロ!!」
「うっわ、泣きそ」
「泣くも何も、ニヤニヤしてんじゃん!」
「あ、やべ……うわーん、えーん、カナシーヨー」
「「あ、やべ」って聞こえたんですけど!」
「ま、そういう冗談はさておき」

クロはニマニマ顔でおちゃらけたように両手をヒラヒラと動かす。そしてその顔のまま、声音だけは真を突くように。

「俺、名前が好きなわけ」

と、なんとも反応しづらい言葉を言いやがるんだ。
声音も全部いつも通りなら、嘘だと全力で否定できたのに。そんな言い方じゃ、言葉が出ない。
しばらく黙っているとクロはびしりと私を指差す。

「ね、無言って肯定の意?」
「ち、違うし!」
「えー」

クロは何が楽しいのか私の様子を見ては口角を上げる。腹が立ったので近付くその顔を両手で押した。
なんとか解放されたと安心したのもつかの間で、なんとクロは顔に押し付けられた私の手のひらをペロリと舐めやがったのだ。

「ひゃっ!!!」

驚いて飛び退くと、クロは悪戯っ子のように舌を出して不敵に笑っている。

「し、信じられない…!!」

私が急いでハンカチを出そうと鞄に手を突っ込むと、その手首を掴まれた。
強引な行動に頭の中が真っ白になる。

「ほんと……あり得ないぐらいに隙だらけだろ」
「な、なにがっ……んぐっ」

無理矢理だった。

無理矢理引き寄せられて、がぶりと唇に噛みつかれて、「キス」という言葉より先に「捕食」という言葉が頭の中を駆け巡る。
今度は唇を舐めたクロは満足気にしたり顔をした。

言いたいこともムカつきも全部ブッ飛んで、顔が赤くなる。
一歩二歩と彼から距離をとり、つい口から出たのは「心の準備が……」なんて、まるで許したかのような言葉。
しまったと思うより早く、またクロの顔が近付く。

「お前さ」
「な、なに………?」
「煽ってんの?誘ってんの?」
「ちがっ」
「ま、煽られてやるし、誘われてやるけど」
「あ、く、クロ……!!」
「待ったはなしな。だから、今、心の準備しろ」
「ちょ、待ってよ…!」
「待った、なし」
「クロッ……んんッ…」

まだなんの覚悟もないのにクロの唇が押し付けられて何も言えなくなってしまう。
今度はちゃんとした「キス」で、不覚にも安堵してしまった。
これじゃあまるで受け入れているみたいだと思考して、気付く。

みたいじゃない、受け入れてるんだ。
そっか…私、クロのことが好きなのかな。無理矢理キスされてんのに、なに今さらなことに気付いてるんだろ。
バカらしくて笑えてきた。

「なに、ニヤニヤしてんだ」
「いや……なんか、クロのこと好きなのかなって、今さら」
「へ〜……何だお前、俺のこと好きなんだ」
「好きなのかなって思っただけだし!まだ「なのかな」だし!」
「それって…」

今度は抱き締められた。いっぱいいっぱい浮かんでいた文句が消えてなくなる。
なにこいつ。私を黙らせるプロにでもなるわけ。心底ムカつくんですけど。

「やっぱり、俺のこと好きなんじゃね?」
「…………好きにさせてみなよ」
「好きだろ」
「…………好き、かも」
「好きじゃん」
「あーもう!!!好きですーっ!!」
「やっぱな」

抱き締められてこんなにドキドキするなら認めざるを得ない。自棄になって声を張り上げれば、クロは大声で笑い飛ばした。
ムカつくのに言い返せなくて、更にムカつく。でも唇は一文字に結ばれて、一言も出ない。

「素直になれてよかったな」
「はぁ?マジあり得ないわ。クロが好きとか」
「かっこいい彼氏ができてよかったな」
「意味わかんない!」
「傷付く」

流石に と、クロは然して傷ついてない顔をする。そしてなんの前置きもなく、ごくごく自然に私の手を握る。

「っ…!!」
「なにお前、警戒心マックスの野良猫みたいになってんだけど」
「うっさい……」

またニヤニヤされて腹が立つ。ぎゅううっと強く手を握り返せば、彼は驚くぐらい穏やかに微笑む。痛がらせるつもりでやったのに余りにも拍子抜けで、自分がやったことが恥ずかしくなり力を緩める。

「やばいな」
「……なにが」
「んー、なんつーか」

クロは私の手を引いて歩き出す。いつも別れる別れ道は私の家の方に曲がってくれた。ほんとの彼氏みたいな行動にときめいた自分がらしくない。

「幸せすぎて怖い」
「は、なにそれ、中二病?」
「ちげーよ」
「中二病じゃん」
「あーはいはい。それでもいーわ」

いつもならもっと食い下がってくるのに余りにもあっさり引き下がられて呆気に取られてしまった。思わず「どうしたの」と見上げれば、彼はらしくないほど緩んだ笑顔でこちらを見てくる。

「だから、幸せすぎて怖いんだって」
「あ、あっそ…」

もう、ほんとなんなのそれ。
その言葉が恐ろしいほどの殺し文句であることを気づいて欲しい。
これじゃあ身が持たないとなんとなく理解してるのに、繋いでる手を放す気になれなくて、クロの言ってることがなんとなく分かった気がした。

「なんか私も怖くなってきた」
「だろ?」
「これってフラグじゃね?」
「おいやめろ」
「日本一になったら結婚しような」
「…………んじゃま、そうするか」
「は、はぁ!?」
「モチベ上がるわ〜」

冗談のつもりで言ったのに、クロはそれを本当の約束にしてしまった。こういうのはフラグなのに、なぜだろう、クロなら叶えてしまう気がして怖い。

「じゃ、じゃあ、待ってる…」
「待ってる?」
「た、楽しみに……てる」
「ん?」
「楽しみに待ってるから!だから、さっさと日本一でもなんでもなってこい!」

クロはニヤリと口角をあげ、任せろと私の左手の薬指を握った。