潮風が肌を撫でる。
海岸に佇むその背中に、どう声をかければいいのか分からなくて、思わず言葉がつまる。

「名前」

私の気配に気付いたのか、彼はこちらを振り向いた。
海より澄んだ瞳はまるで作り物のよう。

美風さんは微動だにしない私を疑問に思ったようで、どうしたの?と首を傾げた。

「美風、さん。海、苦手って言ってませんでした?」
「海は別に。潮風は苦手だけど、いきなりなに?」

だって、驚いたんだ。
海…いや、本人いわく潮風が苦手って言っているくせに、私が海を見たいと言ったら連れてきてくださるなんて。
私、わがままで怒られてしまうと思っていたのに。

「言っておくけど、今日だけ、特別だから」
「は、はい!」

美風さんは私の返事を確認してから海の方を見つめ直す。私もつられてそちらを見た。

青々と広がる、綺麗な海だ。
近くにこんな海があったなんて知らなかった。
冷気と潮風が混ざって、心地いい。

「ねぇ、冬に海に来てどうするつもりなの?」
「え?」
「だって入れないんでしょ?」
「あ、はい、まぁ。時期じゃないから入れませんけど…」

心底 謎だ という面持ちの美風さんに、私は説明を試みる。

「海って見ているだけで落ち着くんです。雄大で、爽快で。包み込んでくれる気がして」
「悩みでもあるの?」

当たり前だ。悩みはたくさんある。
芸能界に入った時点で悩みが増えるのは覚悟していた。
でも、吐き出し口が見つからなくて、いつもこうして海を見るのだ。
「海は、どんな私も受け入れてくれる気がして」私の言葉に美風さんは瞬きを二回した。

「ねぇ、それ、海じゃないとダメ?」

彼から飛んできた言葉は、真っ直ぐ胸に染み入る。

「僕はどんな名前も受け入れる」
「美風、さん…?」
「ねぇ、キミを見ていると身体がオーバーヒートを起こしそうになるんだ。他の男と話しているのを見ると、まるで冷気に包まれたような感覚になる」

まったく表情を変えず、美風さんは淡々と口にする。
無表情なのに、どこか感情たっぷりに聞こえるのはなぜだろう。

「これは、恋という現象に似てない?」

そんなこと、聞かれたって困る。
オーバーヒートとか、冷気とか、私には分からない表現ばかり。
なのに、思わず頷いていた。

「美風さん、なんで海が青いか知っていますか?」
「水面が空を写しているからでしょ?」
「違いますよ」

いや、本当はそうなんだろうけど。そんな理論的なことが言いたいわけじゃない。そこに正解はない。

「海が、空に恋しているんです」

なら、僕は空を知ってしまったんだね。そう笑む美風さんになにも言えない。

「僕は知りたくなかったよ、空なんて。こんなに、苦しくなるのなら」

重なった彼の唇は冷たくて冷たくて、暖かかった。

美風さん。
空も、海に恋してるんですよ。
そう言いたかったけど、恥ずかしくて言えなくて、私は静かに瞼を下ろした。