天国か地獄


 25

 灘たちと別れ、俺は考えていた。
 縁がなにを企んでいるか分からないだろうか。
 せめて、志摩の居場所に繋がる手掛かりさえあればいいのだけれど。
 けれど、肝心の縁がどこに行っているのかすら分からない。

 縁の用事ってことは、やっぱり……阿賀松絡みだろうか。
 そんなことを考えながら歩いていたときだった。
 校舎前、ちらりと玄関口に目を向ければ何やら声が聞こえてきた。

「どうして俺を呼んでくれなかったんですか、伊織さん!」

 伊織、という聞き覚えのある固有名詞に声に、思わず俺は近くの木陰に隠れた。
 離れたここまで聞こえてくる声の主は安久だ。
 そして、その向かい側には……阿佐美がいた。いや、阿佐美かどうかわからない。黒髪だが、どちらにせよ安久に見つかっては面倒だ。俺はそのまま気配を圧し殺し、そっとその場を離れた。

 ◆ ◆ ◆

 阿賀松に見つかってしまうことを恐れ、俺は学生寮に戻った。
 考えてみれば、阿賀松はまだ俺が阿佐美を裏切ったことを知らない。ならば、と思ったが、やはり後ろめたさか大きくて。

「は……っ、はぁ……」

 バクバクと鳴り止まない心臓を抑え、俺は四回の元阿賀松の部屋にまで戻ってきた。
 走ったせいで、酷く息苦しい。
 ここ数日で極端に体力が衰えてしまったような気がしてならない。

「どうしよう……」

 この調子では、まともに出歩くことが叶わなくなる。

 怖がっても仕方ないと分かってはいても、阿賀松の姿を見ると脊髄反射で逃げてしまうのだ。
 あの拳の痛みを知ってるからだろう。
 このままではダメだ、と分かっていたが、それでもなるべくなら会いたくない相手だ。

 ……それよりもだ。
 縁の用事は阿賀松絡みのことだろうと思っていたが、あの場に縁の姿はなかった。
 どこに行っているか分からないだけに、いつ戻ってくるかも分からない。
 ならば、と俺は携帯を取り出した。

「……」

 なんとかまだ充電は溜まっているが、それも今日一日持つかどうか怪しい。
 一か八か、電話帳から志摩の番号を選んだ俺は恐る恐る通話ボタンを押した。
 出てくれ、せめて、声だけでも。ぎゅっと目を瞑り、念じたときだった。

『……齋藤?』
「し……」
『なーんちゃって。俺だよ、齋藤君』

 ま、と声を上げそうになったのも束の間だった。
 受話器から聞こえたきたのは縁方人の明るい声だった。

 どうして、なんで、縁が。
 咄嗟に番号を確認するが、志摩の番号に間違いない。

『どうしたの?俺に会いたくなっちゃった?』
「ど、どうして……志摩の電話に……」
『どうしてって、そりゃ借りてるからね』

 借りているだと?
 信じられない。もしかして、意識のない志摩から盗み取ったということだろうか。
 どちらにせよ志摩のものが縁の手に渡っていると思っただけでゾッとした。背筋に汗が滲む。

「志摩に、何をしたんですか」
『人聞き悪いなぁ。まるで俺が何かしたみたいじゃん。期待に添えなくて悪いけど、何もしてないよ。言っただろ、借りただけって』

 あり得ない、あの志摩がそんなに簡単に貸すわけがないんだ。おまけに、相手は縁だ。
 声には出さなかったが、その沈黙て俺の考えていることか伝わったようだ。受話器の向こうで縁が笑う気配がした。

『なに?それとも、齋藤君は俺に何かしてほしいの?』
「っ、ち、違います……けど……」
『あーあ、せっかくの齋藤君からの電話でテンション上がったのに傷つくなぁ……ムカつくから亮太のところ戻るかぁ』

 そう、まるで言い聞かせるようなわざとらしい口調で続ける縁に嫌な予感が脳裏を過る。
 躊躇いのもなく他人の指を折るような人間だ。
 もし志摩の身に何かがあったら、と思うと震えが止まらなかった。

「待ってください。……あの、疑ってすみませんでした」
『やだ、許さない』
「……っ」
『じゃあさぁ齋藤君、なんか面白いことしてみせてよ』

 そう続ける縁が受話器の向こうでにやにや笑っている姿が安易に想像できた。
 完全に遊ばれている。
 そう分かったが、あしらって下手に逆上されても困る。

「面白いことって……」
『例えば、電話を性器に見立てて愛撫とか』

 取り敢えず話だけでも聞こうとした自分が馬鹿だった。
 あっけらかんとした調子で答える縁にあまりの不快さで携帯を落としそうになる。

「ふ、ざけないで下さい……っ、なんでそんなこと俺が……」
『じゃあ亮太の肋一本折ってやろうかな』
「な、に言って……ッ」

 無茶苦茶だ。ただの脅しならよかったが、本当にやり兼ねない縁に血の気が引く。

『いいじゃんいいじゃん、減るもんじゃないし』

『無機物にまで操立てる必要ないだろ』と笑う縁に、歯を食い縛る。
 嫌だった。志摩を玩具か何かのように扱う縁が。そんな縁の戯れで志摩が傷付けられると思ったら、言葉にし難い感情が腹の奥から溢れ出す。

「ふざけないで下さい……っ」
『んだよ、簡単だろ、こんな風にさ。舌這わせて』

 受話器越し、ピチャリと濡れた音が鼓膜に響く。
 耳を疑った。吐息混じり、嫌に生々しい音は近く、まるで自分の耳に舌を這わされているかのような錯覚に陥りそうになる。

『……っ、ん、齋藤君……』

 響くリップ音に紛れ、名前を呼ばれたと同時に俺の我慢は限界を超える。
 堪らず通話をぶち切った俺は、待ち受け画面に戻った携帯を睨みつけた。

「っ……信じられない……」

 今の通話のお陰で電池がいくらか減っている。
 充電の無駄だった。
 あんな人に脅されていると思ったら堪えられなかった、けれど、そんな縁に対抗することが出来ない自分が余計嫌で、情けなくて、むしゃくしゃしながら携帯を仕舞ったときだった。
 背後、扉が開く。

「おいおい、本当に切ることないじゃん」

 まさか、と硬直する俺の背後。
 先ほど受話器越しに聞いた声が部屋に響いた。
 予想よりも早く戻ってきた縁方人に、息が止まりそうになる。

「あれ?反応薄いな。もっと喜んでくれると思ったんだけど」

 どっからそんな自信がくるのか逆に不思議だが、いちいち縁の軽口に付き合ってられるような余裕もなかった。
 なるべく、縁と距離を取りながら俺は目の前の男を見上げる。

「……ゲームの内容は決まったんですか」
「そんなに急かすなよ。齋藤君ってば、結構積極的なんだ。俺、嬉しいなぁ」
「ふざけてないで……」
「けど、灘和真と別れたのは賢くないと思うけど」

「あいつ、頼んだら齋藤君のために身代わりにくらいにはなってくれると思うぜ」身代わりで満足するわけでもないくせにそんなことをあっけらかんとして言うのだから嫌になってくる。
 挑発か、それとも無自覚か、恐らく前者だろうが、下手に縁のペースに乗せられることだけは避けたかった。

「そういえば、阿賀松先輩がいらしていたみたいですが……先輩の用事って阿賀松先輩との用事だったんですか?」
「そうだよ、って言っても信じないって顔してるけど、齋藤君」

 その言葉に内心ぎくりとした。
 顔に出したつもりはなかったのだが、やはり出てしまうようだ。
 目を細めた縁は、口角を持ち上げ、嫌な笑みを浮かべてみせる。

「まどろっこしい聞き方はやめろよ、他人行儀みたいでこそばゆいんだよなぁ。聞きたいのはそうじゃないだろ?亮太に会ってたんですか?ってちゃんと言えよ」
「……ッ」
「ま、伊織からは連絡きてないからあれは詩織だろうな。用事って言うのは本当、野暮用。奎吾が怪我が気になるから包帯を変えさせろって煩くてそれに付き合ったわけ。そんで齋藤君が気になってる亮太のことだけどさっき電話で話したことは本当。これはあいつから預かったってわけ、勿論、了承を得てね」

 そう、饒舌に続ける縁は制服から黒の端末を取り出した。
 志摩の携帯だ。
 疑っていたつもりはなかったが、志摩のものが縁の手の中にあるというだけで目の前が薄暗くなる。
 それ以上に、縁の言葉が引っ掛かって仕方なかった。

「なんで……」
「そういう約束をしたから」

 約束。脅迫の間違いではないのか。
 落ち着き掛けていた腹の底から沸々と何かが込み上げてくる。不快感。いや、それよりも、もっとどす黒い何かが。

「志摩に……手を出したら許しませんから」
「言っただろ、それは君次第だって」

 否定も肯定もせず、縁はそう答えた。そして、「おいで、齋藤君」と扉を開いた。
 縁がどこに行くつもりかは分からなかった。
 次のゲームが決まったのだろうか。縁に従うのは不服だったが、それでも、打開策の見えない今は縁に付いていくしかない。
 縁の後を追うように寝室を出たと同時だった。

 手首を掴まれ、そのまま片腕を捻り上げられたと思った矢先、そのまま壁に叩き付けられた。
 節々が悲鳴を上げ、突然の衝撃にろくに受け身が取れなかった俺はその痛みに呻いた。

「……ッなに……んぅっ」

 何が起こったのか分からなかった。
 暗くなった視界の中、唇を塞がれ、濡れた舌が唇を舐め上げた瞬間、全身が硬直した。
 堪らず、腕を振り上げた俺はそのまま縁の頬を叩く。

 乾いた破裂音とともに、縁の唇が離れる。
 思いっきり引っ叩いた自分にも驚いたが、それ以上に、頭の中は冷静だった。
 平手打ちした縁の左頬は赤く染まり、愛しそうにそれを撫でた縁は厭らしく笑う。

「へぇ……齋藤結構力強いねぇ」
「いきなり……な、何するんですか……っ」
「じゃあ、いきなりじゃなかったらしていいんだ?」
「……っ」

 唇は離れたものの、壁に押し付けてくる腕は離れるどころか強く俺を掴んでくる。
 近付く鼻先に、もう一度拳を握り締めれば、それを察した縁に手首を掴まれ、抑え込まれた。

「……聞いたよ君のルームメイトのなんとか遥香君?彼、齋藤君の中学の時のクラスメートだってね」

 あと数ミリでキスしてしまいそうなくらいの至近距離。
 縁の口から出た聞き覚えのある名前に全身に緊張が走る。
 何故、このタイミングであいつの……壱畝遥香の名前が出てくるのか分からなかった。けれど、それ以上に縁の口から壱畝の名前が出たことに嫌な予感しかしなくて、無意識の内に全身の筋肉が縮小する。

「おまけに、副会長になるかもしれないなんて噂が流れてるけどさ、ここ最近まともに授業にも出てないらしいじゃん」

「齋藤君、遥香君がどこにいるのか知らない?」舐めるような視線。全器官が圧迫されるような威圧感にドッと全身から汗が滲む。
 壱畝。壱畝。壱畝君は、俺は、知っている。あいつがどこにいるのか、志摩が、どうしたのかを。
 加速する脈を無視し、俺は、出来る限りの平然を装った。
 縁が何を企んでいるか分からないだけに、下手に手数を見せるような真似はしたくなかった。

「……どうして、そんなことを先輩に言わないといけないんですか」
「勘違いしないで欲しいんだけどさぁ、お願いじゃなくて命令してんだけど」

「知ってんだろ?言えよ」伸びてきた手に両頬を挟まれ、強引に上を向かされる。
 無理矢理視線を合わせられるのが嫌で、首を動かそうとするがビクともしない。
 食い込む指先。諦めて、俺は縁を見た。

「……聞いて、どうするつもりですか」
「どうすると思う?賢い君ならすぐに分かるだろ」

 どこまでも掴み所のない縁。それが余計気味悪かった。
 想像は出来た。芳川に目を付けられてる壱畝を今の内に捕まえて利用する算段だというのも。
 縁が壱畝に興味を抱くとは思えない。
 しかし現に動いている縁のことを思うと、阿賀松の命令だと思うのが妥当だろう。
 想像はできたが、それでも、壱畝を阿賀松たちに手渡したくない。
 あいつが巻き込まれるのを見たくないというわけではない。俺にとっては、もう二度と関わりたくない相手だ。

「……俺は知りません、あいつのことは」
「……」
「それに、俺だって最近学園に戻ってきたばかりで……」

 言いかけて、ゴッという音ともに後頭部に鈍い痛みが走る。壁に押し付けられた後頭部。目の前の縁はにっこりと笑う。

「なら言い方を変えようか、齋藤君。……君の部屋の鍵を開けろよ」

 お願いではなく、命令だと縁は言った。
 頬の骨が折る勢いで鷲掴みにしてくる縁に、俺は息を飲んだ。
 騙されて陥れられた今、縁をまだいい人だと思うわけがなかった。そんな脳は一ミリもない。
 けれど。俺のことを好きだと言ってくれる縁だけは信じていたい気持ちがあったのも事実だ。
 だからこそ、こちらを見下ろしてくるなんの感情のないその目に、心臓が握り潰されそうになる。

「あそこにいるのは分かってんだよ、亮太が君たちの部屋に入り浸ってんのも。けど、伊織が使い物にならなくなってから生憎今の俺たちにはマスターキーを利用する権限はないんだよね」

「けど、齋藤君、君がいたら話は別だ」頬を撫でる指先が、ゆっくりと唇に触れる。
 感触を確かめるように這う指先に、汗が、止まらなくて。
 鼻先同士が触れ合う程の距離、縁の生暖かい吐息が唇に吹き掛かった。

「君に拒否権はないと思うけど」

 その言葉にドクン、と心臓が大きく脈打つ。
 脳裏に浮かぶ志摩の笑顔に、目の前が、黒く染まる。
 視界の中、縁は困ったように笑った。

「やだなぁ、齋藤君。別に俺は君に無茶なことを強要してるつもりはないんだけど。ただ部屋の扉の鍵を開けてほしいだけでさ」

 恐らく全て、縁は気付いているのだろう。
 隠し事をしたところで敵わない。
 そう、悟った俺は震える唇を噛み、そしてゆっくりと口を開いた。

「……鍵は、ありません」
「……へぇ?」
「どこかで落としたみたいで、俺も、持ってないので」
「なら、先生にそう言って合鍵を貰ってきたらいいじゃん」

 だから、無理です。そう俺が続けるよりも先に縁は言った。
 当たり前のように、平然と、そう言い放ったのだ。
 言葉を詰まらせる俺に、縁は目を細めた。

「それとも、そんなに君は遥香君に会いたくないのかな?」

 まるで、首を締め上げられるような絡みつく視線に、ねっとりとした声に、息が苦しくなる。
 会いたくない、当たり前だ、誰が好き好んであんなやつと会いたがるものか。
 けれど、それを縁に悟られてはダメだ。面白がって何をやらされるか分からない。
 そうは思うが、壱畝のことを思い出すだけで、血の気が引いていく。笑おうとしても表情筋はいう事を聞かなくて。
 そんな俺の頬を撫で、縁は笑う。

「酷い顔だね、齋藤君。そんな顔されちゃ、まるで俺が齋藤君を虐めてるみたいじゃないか」

 楽しそうに、他人事のように、縁は笑う。
 まるで面白い玩具を見つけた子供のような無邪気な笑みに、俺は諦めすら覚えていた。

「……わかり、ました」

 そして、観念した俺は口を開いた。

「鍵を、借りてきます」

 志摩を人質に取られている今、下手な真似は危険だ。
 それに、何か他に手があるかもしれない。
 その可能性を信じ、俺は、縁に従うことにする。
 ヘタすればそれが自分の首を締めることになったとしても、俺にはそれを選ぶことしか許されなかった。

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