天国か地獄


 09

 寝返りを打とうとして、思うように動かない体に違和感を覚える。
 そこで、俺は目を覚ました。

 そこはどこか既視感のある部屋で、ベッドの上、寝ていたらしい俺は起きようとして、右の手首を強く引っ張られる。俺の手首には手錠が嵌められていた。
 厚い鉄は重く、もう一方の輪はベッドのフレームに嵌められている。
 これのせいで、思うように動くことが出来なかったのだろう。
 誰がこんなことを、という疑問の答えはすぐに出てきた。

「……ぅ、んぐ……ッ」

 力を入れやすいよう動ける範囲で体勢を直し、座り直した俺は右腕を思いっきり引っ張った。
 どちらも頑丈な素材で出来ているようで、生半可の力じゃびくともしない。

「……っ」

 だからと言って、このままベッドの上でぼーっとしてるわけにはいかない。
 気を失う前に見た、芳川会長の目を思い出し、体が震えるのを堪えながら俺はぐっと体全体に体重を掛け、力任せに手錠を引っ張る。
 ピンと張った鎖。
 しかし、それ以上反応はなくて、ただ、無理な体重を掛ければ掛けるだけ手錠との摩擦を起こした手首が擦れ、鋭い痛みが走った。

「……っ、どうしよう……」

 無理だ。痛みに怯み、手錠の嵌められた腕を下ろした俺は辺りに視線を向けた。
 見覚えのある、綺麗に整頓されたその部屋は会長の部屋だ。
 以前、何度か来たことあるから間違いないだろう。肝心の会長の姿はない。
 俺の服も、気を失う前と変わらない。だとしたら、と制服のポケットを弄ってみるが、携帯らしき感触は見当たらない。
 安久から借りた携帯もない。
 安久にどう言い訳したらいいのか、考えてみたがそれより先にやらなければいけないことがある。
 フレームに繋がった自分の手首を見詰め、ぐっと奥歯を噛み締めた。
 やっぱり、鎖を切るしかないんだ。

「っぁ゙ああッ!」

 最初、バギリという音が手錠から発せられたものなのか、それとも自分の腕から発せられたものなのか、分からなかった。
 あまりの激痛に頭の中が鮮明になっていく。なんだか、目が覚めたようだった。音は、手錠からだった。正確には、手錠の鎖。
 俺とベッドを繋ぎ止めていた鎖はぐにゃりと曲がり、引き千切れていた。

「っ、ふ、ぅ……ぐぅ……ッ」

 無理な体勢で無理なことをし、無理矢理引き千切った手錠同様俺の手首の負担も相当だったようで、手錠はハマったまま、真っ赤に腫れた自分の手首から目を逸らす。
 でも、これで動ける。そう意気込んで数分後。

「やっぱりダメか……」

 ここが会長の部屋で、会長の意思によって俺がベッドに縛り付けられているという時点で正直、諦めていた。
 玄関に通じている扉は外からきっちりカードキーで施錠してあり、びくともしない。

 食料品も用意してあるし、トイレも風呂もついているこの寮室内、困ることなんてないのだろうけれど、それでも俺はここに閉じ込められているわけにはいなかった。
 唯一、無防備な窓を見る。四階。馬鹿でかいこの寮の四階は優に10メートルは越しているはずだ。
 それでも、志摩は。俺を逃してくれるとき、平然とその道を選んだ志摩を思い出す。
 そして、拳を握り締めた。
 窓は固定されており、開閉は不可能だ。つまり、ただのガラスだ。ここを進むには、突き破るしかないわけで。
 部屋の片隅、置かれた椅子を手に取った。
 手首が痛むのを堪え、それの足を掴みに椅子を持ち上げた俺はそのまま窓へと近づき、抱えたそれを思いっきりガラスへ叩き付けた。
 硬い音が響いただけで、ガラスは無事だ。
 もちろん、一回だけでこのセキュリティ万全の設備を破ることができるなんて思っていない。

 椅子を高く持ち上げた俺はよろけながらも二回目、三回目とガラスを叩く。
 何発椅子を叩き込んだかわからなくなった頃、思いっきり椅子をぶん投げた瞬間、窓ガラスに亀裂が走る。
 真っ白になったガラスに息を飲んだ俺は、すかさずもう一発叩き込んだ。
 瞬間、劈くような破壊音とともに椅子が窓を突き破って外へ飛んでいった。
 飛び散る破片。
 窓ガラスに亀裂を入れることが出来たが、今の状態ではとてもではないが俺が窓から出る前に突き刺さってしまう。
 他になにかないだろうか、と椅子の代用になりそうなものを探し、不意に壁に掛かった額縁が目に入った。
 人の部屋のものを使うのは気が引けたが、既に椅子を使ってしまった今なにを取り繕うことも出来ないはずだ。
 今更、後ろに引けない。心の底、込み上げてくる謝罪の念を振り払い、額縁を壁から外した俺はそれを掴み、残ったガラスの片を掃き捨てる。
 もう少しだ。腕に突き刺さるガラスの破片を振り払い、額縁を高く振り上げたとき。
 閉まっていたはずの玄関の扉が開く。
 そして、

「なにがあった!」

 顔色を変えた芳川会長が現れた。

「会長……」
「齋藤君……っ?!」

 割れた窓、辺りに散乱するガラスの破片。
 俺の手にした額縁。全てを悟ったのだろう。
 動揺を顕にする会長に、不思議と頭の中は冴え渡っていた。
 こうすれば、会長自ら現れるんじゃないだろうか、と心の奥底で信じていたのもあるのかもしれない。
 ガラスの破片で傷ついた腕から血が流れる。けれど、先程まで感じていた痛みはなかった。
 施設破壊なんて慣れないことしたせいで脳内麻薬が発生しているのかもしれない。
 不思議と、悪い気分ではなかった。

「なんて無茶なことを……。手を貸せ。早く止血を……」

 そう、一歩、近付いてきた会長は俺に手を差し伸べた。
 それでも、俺はその場から動かずに、身構えた。

「齋藤君?」
「どうして、こんなことするんですか」
「こんなこと?なんのことを言っているんだ」
「志摩は……志摩は、どこにいるでんすか……ッ」

 目の前、向かい合う会長と距離を取る。
 訳の分からない薬を嗅がされて閉じ込められた今、会長の接近を許せるほど俺の器は広くない。
 警戒する俺に、会長は口を閉じた。

「…………」
「会長っ」
「手を貸せ」

 そして、そんな俺を無視して強引に距離を詰めてきた芳川会長は俺の腕を掴んだ。
 必死に作り上げたバリケードを一発で壊されたような、そんな恐怖と緊張で、身が竦む。

「っ、会長……」
「君が気にすることなんて何もない」
「……それは、俺が決めることです」

 ここで怯んではダメだ、ダメだ、ダメだ。
 自分に言い聞かせる。会長を見上げ、向けられたその冷たい目を見据え返せば、会長は不快そうに眉を寄せた。

「だったらなんだ。志摩亮太に会うためにノコノコ外に出てそのまま針の筵にでもなりたいというのか」

 的確な指摘だとは分かっていた。
 分かっていたからこそ、それでも俺の意思は揺るがない。

「そうなるのなら、俺はそれでも構いません」

 自分でも愚答だとわかっていた。
 それでも、そう自分で決めた言葉は口に出すだけで酷く心強くなる。
 これ以上傷つく必要のない人間が巻き込まれるのなら、俺が針の筵になった方がマシだ。
 そんな俺の言葉に、もちろん会長はいい顔をするはずもなくて。

「俺は君に平穏な生活を過ごしてもらいたい。そのために、ただ少しの間だけ大人しくしていろと言っているだけだ。……なのに、何故そこまで嫌がる?」

 不可解だと言わんばかりに眉を寄せた会長。
 伸ばされた手に、手首の手錠を掴まれた。
 先程の無茶で擦れたそこは熱を持ち、赤く腫れいた。

「気持ちは嬉しいです、けど、これは俺の自業自得です。これ以上、他の人に迷惑を掛けるのは……耐えられません」
「だから、俺の言うことを聞けないと」
「……すみません」
「いや、構わないよ。君ならそういうと思っていた」

 そう会長は諦めたように息をつく。
 だけど、俺の言葉を認めてくれたというわけではないようだ。
 嫌な予感がし、「会長」と目の前のその人を見上げたとき。

「俺もな、あまり手荒な真似はしたくないんだ」
「……え?」

 どういう意味だ、と目を見開いたと同時に手首ごと、手錠を強い力で引っ張られる。

「ッ!!」

 抵抗する間もなく、ベッドの上に突き飛ばされた。
 軋むスプリング。咄嗟に起き上がろうとするものの、ベッドの上へと上がってきた会長に押さえ込まれ、儘ならない。

「っな、やめて下さいッ」

 手錠がぶら下がったままの手首を頭上へ持ち上げられ、そのままベッドのヘッド部分と紐状のなにかでキツく括られる。
 まさに、振り出しに戻る。
 鉄よりかはましだ、なんて思ったがこうも考えている間にも手首はキツく何重にも縛られ、痛み云々よりも強い力で血管を押し潰されたことにより手先の感覚が急激に麻痺していく。
 紫色に変色していく自分の指に、気分が悪くなった。

「なんで、こんな……ッ」
「そういえば、栫井のやつが病院に運ばれたらしいな」
「……は?」

 今、なんて言った?
 栫井が?

「五味とどんな話をしたか知らないが、君ならなにか知っているんじゃないのか?」
「……かこ、いが……?」

 一瞬、言葉が理解できなかった。
 栫井が病院に?なんで?あそこに人はいなかったはずだ。だとしたら。
 …………間に合わなかったってこと?
 その事実を理解したとき、頭を鈍器で殴り飛ばしたようなショックに目の前が真っ白になった。

「灘とも連絡がつかない」

 会長の声が遠くなる。
 間に合わなかった。その言葉は、俺の意気を消沈させるには充分なもので。

「……また、俺は……っ」

 取り返しつかなくなる前に、そう思って動いていたはずなのに。結局全ては最悪の方向へ進んでいく。いつもだ。
 いつも俺の思惑とは逆の方へと物事は進んでいく。
 その原因も、わかっているのに、どうにかすることも出来たはずなのに。それが歯痒くて、遣る瀬無くて、俺は。

「齋藤君、目を逸らすな」
「ッ!」
「もう、君が謝れば済む問題ではないと分かっているんだろう?」

 強い力で、肩を揺すられる。
 真正面、覆い被さってくる芳川会長の言葉が、視線が、崩れかけた俺の心に突き刺さった。

「かい、ちょう……」
「それとも……まだ君は、何故こうして俺が躍起になっているか分からないのか?」

 薄暗い光を灯した、真摯な眼差し。
 本当はわかっている。いつだって会長は俺の良い方へ導いてくれた、助けてくれた。
 その優しさに甘えてきたのも事実だ。

「君はここにいるだけでいい。あと二日もすれば全て片が付く。君は耳と目を塞いで休んでればいいんだ」
「……でも、俺……」
「君は疲れている。齋藤君が自責の念を抱く必要はないんだ。もう少し休んで、ゆっくり考え直せ」

 休む。その言葉を聞いた瞬間、息が詰まった。
 休む、俺が?なんで。こんなにたくさん休んで、高見から眺めていたというのに、また休めというのか。俺に。

「……齋藤君?……っ!」

 身を捩るようにして起き上がれば、驚いた顔をした芳川会長に肩を掴まれた。
 それでも、寝てる暇なんて無くて。

「灘君を、探します」
「は?」
「灘君なら……灘君なら、なにか知ってるかもしれません」
「何を言ってるんだ、君は」
「栫井が運ばれた病院はどこですか?」

 片手で、キツく縛られた手首のヒモの結び目を摘む。かなりの力で縛られたそこは片手ではきついが、時間があればなんとかなるはずだ。
 言いながら、手首を拘束するそれを解こうとすれば、目の色を変えた会長に「齋藤君っ」と怒鳴られた。
 その大きな声に反応したように、体が震える。それと同時に、必死に腹の底に溜め込んでいたドロドロとしたなにかが勢い良く溢れ出す。

「栫井に怪我させたのは、会長じゃないですかッ!」
「……っ」

 聞いたこともないような大きな自分の声に、自分でも驚いた。
 それでも、限界まで溜め込んで押し込めて蓋をして塞ぎ込んでいたものを簡単に止めることはできなくて。
 まるで他人が怪我させたかのような会長の態度に、余計拍車を掛かる。

「俺のことなんかどうでもいいから、早く、灘君を探しましょう……っ!」
「なにを言ってるんだ、君は」
「か……会長だって、なに言ってるんですか……もう、ほんと、意味わかんないです……おかしいですよ、会長……っ!もしかしたら、何かあったのかもしれませんし……っだったら余計尚更、探しにいかないといけないじゃないですかっ」
「……だから、何故そこで泣く……」

 自分がどんな酷い顔になっているのか、震えと涙が混じった声で大体想像はつく。それでも、今更自分の醜態を気にかける余裕なんてなくて。
 それよりももっと大事ななにかがあるはずだ。それを会長に伝えなければ。
 そう思えば思うほど、溢れたものは止まらなくて。
 そのときだった。バキッと、なにかが破れるような音がした。それと同時に、一番奥、鍵が閉まっていたはずのその扉が派手に吹っ飛ぶ。

「な……ッ」

 呆れ、目を見開いた会長。
 そこには……

「齋藤っ!大丈夫っ?!」
「し、志摩……っ?!」

 扉がなくなったその向こうから現れた志摩に、頭がこんがらがる。
 どうして志摩が、というかどうやって。

「あの縄をどうやって……」
「あいにく狙われやすいらしくてね、こんなものくらいはマナーとして持ち歩いてるんだよ」

 そう笑う志摩の手の中には小型ナイフが握り締められていて。
 鋭く光るそれに、俺も芳川会長も言葉を失った。

「呆れた。どういう教育を受けてるんだ」
「それはこっちのセリフだけど。……生徒会長さん、一般生徒にんなことして許されると思ってるんですか?」
「一般生徒はナイフを持ち歩かない」
「俺は、ナイフを持ち歩いていない一般生徒のことを言っているんだよ」

 そう、会長の背後に立った志摩は笑みを消した。
 会長の首筋に、ナイフを突き立てて。

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