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言葉以外で相手の気持ちを汲み取る場合、多数の人間は『表情』を見るという。
かくいう俺もその多数の人間の一人で、むしろ言葉を交わすよりも相手の顔色を伺うことの方が多いかもしれない。
その中でも特に、というよりも例外レベルで気持ちが汲み取れない人間がいる。

灘和真。
生徒会で会計をしている彼は、特に表情の変化が乏しかった。その理由も知っていた。

『昔、交通事故に遭いました。その後遺症で痛みを感じる神経が麻痺してるみたいです』

他人事のように彼はそう言うけど、俺にとっては俄考えられない話だった。
何も感じないというわけではなく、あくまで痛覚が非常に鈍いというが、灘の話を要約すればこうだ。
怪我をしても痛みを感じないし、濡れてる感触も薄いから気がつけば身体が傷だらけになってるし最悪、手遅れになる場合もあるという。
話を聞いて真っ青になる俺に、灘はそうならないようには気を付けてますが、と続けたが俺からしてみれば気が気でなかった。


「……申し訳ございません、つまらない話をしましたね」

「そっ、そんなことないよ!……けど、その、びっくりしちゃって……」

「だから、自分の怪我は心配しなくてもいい……と、言いたかったのですが逆効果のようですね」

「……うっ……それは……」


確かに、余計に気になってしまうのが本音だ。

紙で指を切ったようで、掌まで真っ赤になっていた灘に気付いたのは寮に帰る途中だった。
生徒会活動を終えたばかりだったという灘は、俺の言葉でようやく自分の傷に気付き、結果、こうして保健室までやってきたのだが……丁度養護教諭は席を外しているところだったので、灘が自分で手当をしていた。
が、見てられない。


「な、灘君、あの……包帯締めすぎじゃない?鬱血してるように見えるけど……」

「これくらいの強さで締めたほうが早く止血できるかと判断しました」

「い、いや、止血どころか指が壊死すると思うけど……」

「……壊死、ですか。考えてませんでした」


俺よりも遥かにしっかりしてると思っていたが、灘はこういうところが時たまにある。
それも、自分自身への関心の低さが成せるものだからだろうが、本気で心配になるのだ。


「あの、良かったら……俺が包帯、巻き直そうか」

「ですが、汚れた手に触れるのは嫌ではありませんか」

「そんなことないよ、それに、怪我してるんだよ。……嫌とかそういうのは、関係ないよ」

「……そうですか」


余計なお世話だっただろうか。
珍しく返答に迷っているように見えた。
が、すぐに、灘の視線がこちらに向く。


「それでは、お願いしていいですか」


そう言って、相変わらずの無表情のまま、灘は不器用に包帯を巻かれた指先を俺に差し出した。


灘と二人きりの保健室に談笑等あるわけもなく、静かな空気がその場に流れた。
他人の手にこうやって触れる機会は早々にないだろう。俺は、滲む血液を拭い、それから傷口にガーゼを被せる。
本当に紙で切ったのかと思うくらい、深い傷だった。まるでナイフで切ったかのような深さに、それでも俺に傷口の近くを触られても眉一つ動かさない灘に、改めて俺と灘が違うことを感じた。
ガーゼが傷口からずれないように、包帯テープで固定する。あまり傷口を押さえるような真似はどうかと思ったが、灘は「気にせず包帯を巻いてください」とだけ口にした。
傷の治りが遅くなることよりも、自分の血で資料等が汚れることの方が困るという。

自分の身体、大切にしないとだめだよ。なんて、言えなかった。俺が何を言ったところで灘の身体は灘のものだ、それならば、俺にできることなど限られてるのではないだろうか。


「……はい、終わったよ」

「ありがとうございます。……これで、先程よりも関節が曲がりやすくなりました」


他に言い方はなかったのだろうかと思ったが、「余計なお世話です」と一蹴されるのではないかと覚悟していただけに少し、いや、大分嬉しかった。


「今後はこのような失態を晒すような真似、ないようにします。手間を掛けてしまい申し訳ございませんでした」


また、何かあったら言ってね。なんて言い掛けた言葉は一気に喉の奥へと引っ込んだ。
そうか、そうなのか、いや、わかっていたことだ。灘が、他人を頼ることを良しと考えない人だと。
そんないつも自分で抱え込む灘だからこそ、こうして手助けできたことが嬉しかったのだが、もしかしたら灘にとっては不名誉だったのかもしれない。


「……ううん、そんなことないよ。俺は、灘君といろんなお話出来て嬉しかったし……なんて」

「そうですか」

「……う、うん……」

「……」


また、沈黙。
灘の時間を拘束してるのは俺の方ではないだろうか。とか、本当は灘は忙しかったんじゃないか、とか、そんな悪い考えばっかが頭の中をぐるぐる巡る。

灘のことは分からないことが多い。
好きなものだって、なんの科目が得意かとかだって分からない。
それでも、知りたいと思ってしまうのは、灘にとって迷惑なのだろうか。


「それでは、自分はこれで失礼します。……本日はありがとうございました」

「あ……うん、ごめんね、時間掛かっちゃって……」

「問題ありません。この後の予定はありませんでしたので」


では、と一礼し、保健室を出ていった灘。
音もなく閉まる扉に、保健室一人残された俺は肺に溜まっていた空気を一気に吐き出した。

緊張した。
一緒にいるときは別に、確かに気まずいなとか、何話したらいいんだろうとかばっかり考えて頭が回らなくなってしまうが……今回は、緊張した。
心臓がチクチクと針で刺されるみたいに痛くなって……落ち着かない。
灘の指に触れたのも、向かい合ったのも、こんなに喋ったのも……初めてだった。
図々しかったんじゃないかとかそんなマイナス思考ばっかり働く中、無防備に自分に手を貸してくれた灘が純粋に嬉しかった。そんな気持ちが込み上げてくる。
我ながら単純だと思うが、どうしようもない。
願わくば、これ以上灘に怪我がありませんように。
あとは、少しは自分の身体に気をつけてくれればいいなぁ。なんて思いながら、俺も、保健室をあとにした。









普通に友達を作って、普通に学校に行って、普通に勉強して、普通に笑って暮らす。
それは、俺にとって十分贅沢すぎるものだったようだ。


「……ッ、灘、君……」


走馬灯のように、焼ける脳裏に蘇る数週間前の記憶。
いつだって、俺の前で表情を変えることはなかった灘。
何を考えてるのか分からないし、最初は怖くて、苦手だった。けれど、灘はいつだって俺を、守ってくれて。


「灘、君……ッ?」


喉の奥が震える。
月明かりしか目の頼りになるものがない校舎裏で、俺は、灘を呼ぶ。
顔を濡らす赤い血が指先に触れ、ぬるりとした感触に血の気が引く。それでも、俺は、灘を揺するのをやめなかった。
「灘君」と名前を呼ぶ。そうすれば「なんですか」といつものぶっきらぼうな調子で返してくれるんじゃないかと思って、それで、だから、呼ぶのに。


「灘君……ッ!」

「無理だよ、諦めなって。そいつ、だってもう死んでるし」


聞こえてくる軽薄な声に、喉が焼けるように熱くなる。喉だけではない。全神経がひりつくように痛んだ。

そんなわけがない。だって、さっきまで灘は、いつも通り俺の傍にいてくれて、それから、縁から庇ってくれて。
目の前で、思いっきり金属バットで殴られて。


「……ッ!」


潰れるような音ともに、灘が糸が切れたみたいに地面に落ちる映像が、繰り返される。込み上げてくる熱いものを耐えられず、俺は、もう一度「灘君」と呼んだ。
俺のせいだ。俺が、我儘言って縁に会いに行くとか言ったからだ、それで、困らせて。


「齋藤君、諦めなよ。無理だって。死んでるんだよ。信じられないなら確かめさせてあげるよ」


そう言って、灘の首を踏んだ縁は持っていたバットを思いっきり高く、灘の頭部目掛けて掲げる。
ヤバイ、だめだ、これは本当に、ダメだ。
助けないと、と思うのに、身体が思うように動かなくて地面の上、這いずるようにして縁にしがみついたときだった。
縁の足首を、灘の手が掴む。
え、と思った次の瞬間、縁の振り被った金属バットの先端が、灘の額目掛けて突き落とされる。
鈍い音が辺りに響き渡り、俺は、耐えられずに目を瞑った。
そして、恐る恐る目を開いた俺は、そのまま見開いた。


バットの先端部。そこは灘の頭部ではなく、ただまっ更な地面の上に真っ直ぐに突き立てられていた。
数センチギリギリの位置でそれを避けたようだ。灘は、ゆっくりと目を開き、縁の足をそのまま掴み、引っ張った。


「っ、なんだ……お前、死に損ないかよ……」

「お生憎さまで。貴方の一発一発は確かに重いですが、急所に当たらなければどうということもない。それは、貴方がよくご存知ではありませんか」


足元を掬われる前に、灘の手を振り払い、自ら退いた縁は舌打ちをする。
俺は、信じられなかった。灘が動いて、話している。それだけで、ほっとして、瞬きをすることも呼吸をすることもできなかった。
そんな俺を見て、灘は、確かに笑った。ような気がした。


「だから言ったじゃありませんか、俺の心配は不要ですと」


ぼたぼたと額から流れ落ちる血を雑に拭い、灘は口にした。

灘は気付いていないかもしれないが、俺は、それ以上に灘が金属バットを避けてくれたことが嬉しかった。

きっと、前までの灘ならそれも真正面から受け止めていただろうと思ってたから。
言葉の代わりに嗚咽が洩れた。

END
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