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たまに自分が何者か分からなくなる。
聞き慣れない名前に、変わる家族の顔に、思考が絡まるのだ。
前までは自分の名前なんてどうでも良かったが、それでも最近は気にするようになっていた。
芳川知憲。
学生証に記載された名前を口の中で繰り返し呟く。

俺は、芳川知憲だ。
伊東知憲でも、栫井知憲でもない。
今までの俺はもういないんだ。
言い聞かせるように何度も繰り返す。
それが、朝、起きてからする俺の日課だった。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「よっ!おはよーさん、知憲!」

「っ、会長……おはようございます」

「そのさぁ、会長って言うのやめろって言ってんだろ?呼び捨てでも良いってのにさぁ……あ!それともあれか?もしかして俺の名前覚えてねーの?」

「……」

「お、お前まじかよ!生徒会に入ってから何ヶ月経つんだよ!」

「……すみません、会長会長とばかり呼んでいたので」

「あーそりゃ確実にそれのせいだわ。俺の言う通り呼び捨てにしねーからだよ」


「志摩裕斗。なんなら裕斗先輩って読んでくれてもいいんだぜ」そう、あっけらかんと笑う生徒会長・志摩裕斗。
このマンモス校、矢追ヵ丘学園の全校生徒の代表でもあるその人はその威厳はまるでない。
とは言っても生徒会長は前任の会長により指名されるものなので、投票で選ばれたわけではなかった。
それでも、志摩裕斗の生徒からの支持率は高い。
この気取らない性格もその理由なのだろうが、少し軽すぎるのではないかと常々思う。


「……裕斗先輩」

「なんでそんな渋々なんだよ!」

「そうですか、貴方の記にしすぎではありませんか?……それよりも、ちゃんと前を向いて歩かないと転びますよ」

「え?……あ、うわッ!!」


「……」


言わんこっちゃない。
植木鉢に足を足を引っ掛け、ど派手に転倒する志摩裕斗には溜息すら出なかった。


「大丈夫ですか。……先輩」

「いてて、うう〜ケツ割れた〜」

「元からでしょう。ほら、手」


差し出せば、少し目を丸くして、志摩裕斗はにっこりと笑ってその手を掴んできた。
……意外と重いぞ、この人。


「知憲も大分気遣いってのが出来るようになったよなぁ。生徒会入った時はクソ生意気だったのにさぁ。ま、俺のお陰かな?」

「……そうですね、世の中には話が通じない人間がいるということを勉強しましたので」

「へぇそりゃ良かったなぁ!勉強代になんか奢ってもらおうかなー」

「後輩にたかんないで下さいよ」

「はは、冗談だっての。お前いつも甘いもんばっかだからなぁ、俺食えねーし」

「……」


なんだかんだよく見てるのだろう。
何も見えていないようにみえて、誰よりも現状を把握する洞察力に長けているところは、正直俺もすごいと思う。
一言余計だが。


「そう言えばさぁ、知憲に言ってたよな。俺の弟がいなくなったって」


裕斗先輩の弟。
以前、相談されたことがある。
反抗期まっただなかの先輩の弟がいきなり家出してから帰らなくなったと。


「確か、俺の一つ下だから……中三でしたっけ」

「そうそう、あいつなんだけどな、なんとか見つかったんだよ」

「へぇ、帰ってきたんですか?」

「まだ帰ってきてねーよ。見つかって、なんか知り合いんところとか転々としてるみてーでさ、俺が言ってもすーぐ逃げるんだよ」


噂では、大分好き勝手していると聞いているが。
栫井家に世話になっていたとき、親戚たちの顔を見たくなかったから適当な店や知り合った人間の家に無理矢理上がり込んでいた日々を思い出す。
家に帰りたくない気持ちは分かるが、実の兄弟からまでも身を隠す理由は分からない。
他人でもあるまいし。


「居場所が分かってるんならそこを叩けばいいんじゃないんですか」

「それがわかんねーの。けど、俺の知り合いが協力してくれるっつってさ」

「……協力?」


そんな家族の問題にどう協力するのだろうか。
疑問に思ったときだった。
確かに、志摩裕斗の背後で陰が動いた、瞬間だった。


「わっ!!」

「うおわッ!!!」


大きな声と、それを掻き消す程の馬鹿でかい裕斗先輩の悲鳴。
いきなりの大声で飛び退く裕斗先輩の背後、現れたその人影はクスクスと愉しそうに笑う。


「おい、方人、やめろよ!心臓停まるかと思っただろ!」

「いやいや、裕斗君がぼや〜としてるからダメなんだよ。言ってるだろ?いつどこで襲われるとも分かんないんだからさ、背後には気を付けないとって」

「お前が襲ってどうすんだよ!」


怒る裕斗先輩に怯むわけでもなく、方人と呼ばれたその男はただニコニコと笑っていた。
一見すればそこら辺に転がってる少し育ちのいいお坊っちゃんという感じの風貌だが、明らかに周りから浮いている。
間違いなく、この校則を完全無視した真っ青な髪のせいだろう。

ガン見していると、俺の視線に気付いたようだ。
その男はにこりと笑った。


「君は……確か生徒会の……会計だっけ?」

「俺は会長補佐です」

「へぇ、一年生なのに面倒じゃない?」

「いえ、俺が好きでやってるんで」

「ふうん。変わってるね、君」


歯に衣着せぬ男だと思った。
不快感は感じないが、なんだろうか。気に入らない。
別にこの男だけに対するものではないが、周りから可愛がられて受け入れられてからこその堂々とした振る舞いだろうと思うとどうしても不快感の方が勝るのだ。


「そーだ、こいつだよ。今言っただろ?弟のこと協力してくれるってやつ」

「ああ、亮太だろ?お前に似てすげー生意気なガキだよな、あいつ」

「そう言うなよ。ああ見えて昔は『お兄ちゃんお兄ちゃん』ってずーっと俺の後ろとことこ着いてきて可愛かったんだぞー!」

「出た、ブラコン。ブラコンはまじ伊織だけで間に合ってるから」

「あっはっは!そう言うなよ!あいつよりかはマシだって俺のは」

「俺からしてみればどっちもどっちだっての」


そう言っては笑い合う裕斗先輩と方人なる男。
仲がいいのだろう。
二人の輪に入れず、正直入りたくもないのでそれをとおくから傍観していると遠くで見覚えのある後ろ姿を見つける。


「仁科」

「……おはよ」


仁科奎吾。
クラスメートで、周りとはあまりウマが合わなかった俺が話しの合う数少ない人間だ。


「いいのか、会長と登校してたんじゃないのか」

「別に、そういう約束でもなかったし」

「ふーん。……お前も大変じゃないのか、生徒会とか」

「そうでもないな。それより、五味は一緒じゃないのか?珍しいな」

「あいつならなんか忘れ物したって帰って行ったぞ」

「あいつらしいな」


仁科との会話は盛り上がるわけでもなく、なんとなくぽつりぽつりと続いていく。
五味が来たら少しは騒がしくなるが、俺的にはこの時間が結構楽しみだったりする。
なんてこと、五味や仁科に言ったら笑われるだろうから絶対言わないけど。


「そうだ、トモ。なんか駅前に新しい洋菓子店がオープンしたんだってよ。海外で人気のらしいぞ」

「えっ?!本当か?!」

「今度休みの日行こうぜ。武蔵……あいつは行かないだろうな、甘いもの好きじゃねーし」

「無理矢理連れていけばいいだろ。空気だけ食って」

「はは、相変わらずひでーなお前」


仁科とともに教室に行けば、既に何人かが席についていた。
俺達もそれぞれ席に就こうとすれば、後ろの席のクラスメートに声を掛けられる。


「ねえねえ、トモ君、武蔵ちゃんは?一緒じゃないのぉ?」


舌っ足らずな甘えるような声。
背中をつーっと指でなぞられ、全身にサブイボが立つ。
振り返れ、やつは笑う。
中学生女子と見紛う童顔に、触れれば折れそうなしなやかな肢体。


「連理、そんなにあいつが気になるなら迎えに行けばいいだろ」

「いやよ!この前迎えに行ったらすごい怒られちゃったのよ、アタシ!武蔵ちゃんには嫌われたくないのよ〜!」


なら俺には嫌われていいのかとも思ったが答えを聞くのも馬鹿らしい。
後ろの席の連理貴音はくねくね一人で吠えているが無視しておく。因みにいくら顔が良かろうが仕草が女らしかろうがここは男子校だ。こいつも男だ。


「おい、貴音、お前の彼氏来たぞ」


仁科の言葉に連理は「本当っ?」と目を輝かせる。
言われた通り、開いた扉の奥、隣のクラスの八木と何やら話していた五味は教室に入ってきた。


「武蔵ちゃん遅ーい!アタシずっと待ってたんだからね〜!」

「うげっ!なんだよお前、誰も待っとけとか言ってねーだろ!」

「何それ冷たいじゃないの!もういいもん、せっかく武蔵ちゃんのためにお弁当用意してきたのに!」

「いらねえよ、自分で食っとけ!」

「おい、貰っとけよ。可哀想だろ」

「じゃあ奎吾お前が食うか?」

「そ、それはいいかな……」

「だろ?」


毎朝毎朝よくやるものだ。
騒々しいのはあまり好きではないが、この騒々しさは嫌いではない。

五味が席に付き、そこに連理が駆け寄る。
それから逃げるように俺たちの席のところにやってきた五味としょうもないことを会話しながら教師がやってくるのを待つ。
放課後になれば生徒会室に向かい、すぐサボろうとする裕斗先輩を椅子に縛り付けて仕事をさせる。

我ながらしょうもない生活だとは思っているが、不思議と充実しているのも事実だ。
約束の期日まで二年と半年。
その事実を忘れてしまいそうなくらい平凡で退屈で欠伸が出てしまいそうなそんな微温湯の中、油断すると自分が誰なのかを忘れそうになる。
それでも今は、自分のことも忘れてただこの平穏に身を任せていたかった。

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