風とりの窓からふわりと舞い込んだ清風が、背中へ流された後ろ髪をそよがせた。 ふと筆を止め、幸村は風を辿った先へ顔を上げた。目に飛び込む、丸窓が切り取った緑の風景に目元を和ませる。 張りつめていた静かな緊張をゆっくりとほどき、ほうと息を吐き出す。目を閉じれば小鳥のさえずりがじんわりと疲れを癒す。空気に運ばれてきた草の香を感じていた幸村は、しばしの後にぱちりと目を開くと、筆を取り、最後の一文をさらさらと書き上げ、最後に敬具で結んだ。筆を置き、ざっと全体を見る。 「………うむ」 満足のいく仕上がりになっていることを確認すると自然と顔がほころんだ。筆と硯を懐紙で拭う間に墨を乾かし、丁寧に紙を折り畳んだ。 いつものように書簡を届けてもらおうと幸村は脳裏に迷彩の忍を思い浮かべ―――同時に、そういえばあれは任務でいないのだった、とすぐに思い至った。ついでに別れ際の言葉が思い出される。 ―――『団子は一日三本まで』。 任務の前だというのに、そんなことに念を押し、こちらの反論をろくに聞きもせず消えた橙へ、その時の憤慨が少し甦る。あ奴が帰ってきた時こそは団子の本数を交渉してやろうと決意を固めた。弁の立つあの忍をどのように説き伏せてやろうか。 …それはさておき。 「これを誰に届けてもらうか…」 小さく呟き、腕を組んでことりと首を傾げる。今日の真田忍隊の非番は誰だっただろうか、と記憶を手繰れば、適当な者の名を呼び起こすより先に、障子の外でわずか気配が揺れた。音もなく影もなく、常に側へ侍る気配。惹かれるように幸村は視線をそちらへ移す。気配の持ち主に気づくと口元に笑みを浮かばせて、幸村はその者の名を呼んだ。 「才蔵」 するりと障子が開き、黒を身に纏った忍が現れる。 「…相変わらず、気配に敏くておられる」 「何を言う、お主がわざと完全に気配を絶っておらなんだのだろう?」 某如きに真田忍隊の副官が見破られるはずもないだろう、と快活に笑うと、才蔵も端正な顔立ちにわずか笑みを掃いた。いつも無表情に近いこの忍が感情を表へ出すのは、実は珍しい。 「才蔵、これを届けて欲しいのだ」 「承りました」 かさりと書状を手に取り、才蔵へ手渡す。素早く宛先を読みとり、丁寧に懐へと仕舞った。 「急ぐものではないから、忙しくない時にでも届けてくれ。他の者へ頼んでもいいのだが」 「いえ、責任を持って届けさせて頂きます」 他の者に、主直々の命を譲る気はありませんから。 小さく呟かれた至極真面目で自身に忠実な言葉が耳に入らなかった幸村は、ん?と首を傾げたが、お気になさらないでくださいと返され終了となる。しばしをおいて、幸村はくすりと笑みを零した。才蔵は表情は変えずに目だけを瞬かせる。 「…何かおかしな事があったでしょうか」 「いや、すまない。お前がおかしいのではないのだがな」 才蔵が柔らかな沈黙で言を促す。口角は上げたままで幸村は続けた。 「いつもこうした事は佐助に頼んでおるのだが…お前の態度があまりにもあれとかけ離れていて、つい」 「まぁ、佐助のような不躾な態度を主の御前でとろうなどと考える不届き者は滅多におりませんから」 「それもそうだな」 しれっと毒を含んだ答えを口に上らせる才蔵へ、どうやら概要だけを聞き取ったらしい幸村もあっけらかんと頷く。 あまつさえ城主へ小言を並べ立て、歯に衣着せぬ物言いで行動を慎ませ、反論の余地を与えぬ正論を操って主を丸め込む忍など、日の丸広しと言えども一人しか見あたらないのではないか。 「至らぬところが多く、周りが見えなくなりがちな某を良くたしなめてくれる、出来た忍だ。…少し小言が多いのが難点だが」 「…ご自分で自覚なされているのならば、もう少し御自重ください。あまり真田忍の肝を脅さないで頂きたく思います」 ゆるりと、しかし先日の戦がそれとなく示唆されて、幸村は言葉に詰まる。 窮地に追い込まれた斥候部隊が退却する中、ひとり隊から離脱し、戦を勝利という形で収めても本陣へ姿を表さなかった幸村を、あわや真田総出で捜索開始とまで至ったのは記憶に新しい。ひょっこり帰ってきた幸村へ安堵のため泣き出す者もいたらしい。影と呼ばれ疎まれる忍に惜しげなく情を傾ける、熱く、明るく、煌々と陽のような主に感化され、情深くなる忍もいるのだとか。主限定にだが。 その後は佐助から罵倒されるよりも堪える静かな説教を丸一日喰らい、真田忍たちには『無事で良かった』と号泣されたり『心配してました』と目に見えそうな安堵の雰囲気を醸し出され、申し訳ない気持ちになったり居たたまれない思いをしたりとせわしなかった。 苦い面持ちでそれらを思い返し、ううむと幸村が呻った。 「つい血が上ってしまってな…気付けば体が動いてしまうのだ」 だが、某の挙動がお主達に不安を与えるのなら、某は必ず克服してみせようぞ。 幸村はきっぱりと宣言する。その言葉に、しかし才蔵はすこしだけ眉根を寄せた。 「…主は、忍へ心を傾けすぎてはいませんか、」 「………やはりお前もそう思うのか」 「恐れながら。…御身の成されるべきは御身を守るため、決して我等の為ではございません。捨て置くべきを知らねば対局を見失うことになります。それこそ、我等が最も忌避する所」 自分たちの心配をするなら、何よりも自分を守って欲しい。才蔵の眼差しに声にそんな思いを感じ取る。佐助が真面目な表情で諭す時と、それは同じ色をしていた。 「…忍に心を傾けて頂けるこの身が幸せかと問われれば、是以外の答えなど見あたる筈もありませんが」 才蔵が、柔らかい口調でそう締めた。ふわりと、幸村も笑う。 今、これ以上の言葉を交えても、互いの立場と信念が変わるべくもない、そんな無粋で堂々巡りな確執をたまの会話で続ける気にもならなかった。 「ならば良いだろう。そういう賢しい事は考えるべく時に考えれば良い」 にっと笑って見せれば、才蔵の持つ空気がふわりと和らいだ。 「……あ奴と口論なさる度に、早々に切り上げてしまえばと何度思ったか知れません」 「言ってくれるな。あれの前ではつい意気地になってしまうのだ」 はたと才蔵が幸村の顔を見つめる。笑みにすこしだけばつの悪そうな苦みを混ぜ、幸村は続ける。 「某は不器用だからな、佐助に本気を向けられれば本気で返す事しかできない。譲歩も妥協もしない、某とて同じだ。口論は結局何も交わらぬままいつも平行線を辿るが、お互い信じる事を変える気にはならぬのだ。きっとこれからも変わらぬ。変わるとすれば、どちらかが自分の軸を見失った時ではないかとも思う。…だからこそ、俺には佐助が必要なのだ」 限りなく近く、だが決して交わることのない部分を持っている佐助が。そう幸村は言った。 「…それだけ心を許されている佐助が、羨ましくもあります」 静かに、才蔵が言葉を漏らした。それに今度は幸村がはたと才蔵の顔を見つめる。表情を変えずに才蔵は言う。 「我等とて主を思う気概は負けませぬ。…たまには、我等にもかまってください、幸村様」 真摯に、最後だけはすこし冗談めかして、才蔵が微かに首を傾けた。ぱちりと瞳を瞬いた幸村は、驚いたような顔に、明るい笑顔が向日葵のように零れた。 「…そうだな、久々に俺に構ってくれ」 手を伸ばして、口当てを外した才蔵の顔をいたわるように撫でた。思いがけない仕草に才蔵が固まっていると、お前達もどうだ?とそのまま幸村が障子の外へ声をかけた。瞬間ぶわりと嬉しそうな気配が巻き起こり、堰を切ったように忍隊の面々が部屋へ現れた。幸村と才蔵、二人の話し声だけだった室内が一気に騒がしさを増す。 「副官だけずるい!」 「幸村様と長々お話になるなんて羨ましすぎます!」 「俺たちも構ってください幸村様!」 「鬼の居ぬ間に何とか、とはよく言ったものですな」 「幸村様、皆で遠乗りでもいたしませぬか?」 「城下に新しい甘味屋が出来たと聞きました!」 忍隊の面々が我先にと幸村へ話しかける。あっと言う間に忍達に囲まれた幸村はしばし矢継ぎ早な声にきょとんとしていたが、すぐに心底幸せそうに、無邪気な笑顔を見せた。至近距離の笑顔を喰らって感極まってか至上の面持ちで倒れ伏す数人を才蔵は目撃した。 幸村が一言二言いうたびに盛り上がりを続ける忍隊の輪を、ちらりと嬉しそうに笑う幸村を見てから、才蔵は気付かれぬようにするりと抜け出した。先ほど幸村が眺めていた風とりの窓が面する中庭へ向かった才蔵は、一瞬で一本の木へ飛び乗る。枝の上に降り立ち、ゆったりと腕を組んだ。 「…お前の前では意固地になってしまうそうだ」 「うるせえよ」 ぼそりと放った声に、幹を挟んだ後方から声が飛んでくる。その不機嫌そうな声を鼻で笑い、才蔵は冷笑を浮かべた口を開いた。 「羨ましいな、幸村様に甘えられているお前が」 「人が悶絶してる事を直球で言うな」 「主は十分に割り切ったお方だ。不器用なのはどちらの方だか」 「うるさいっていってんだけど」 「照れ隠しなど気色が悪い、とっとと割り切れ無礼者」 「……お前さ、いい加減に…!」 周囲の空気が背後からの殺気と苛立ちで冷えていく。それだけ主の言葉の殺傷能力がすさまじかったと言うことか。主の前でなら例え同じ事を言われたとしてもへらへらと笑っているだろうに。 隠そうともしない殺気にいい気味だと、最後にとどめを言い放つ。 「いつまでも中途半端なら俺が奪うぞ」 「…はぁ!!?」 「冗談だ」 爆発的に高まった殺意と怒りに満ちた声へ涼しい顔でさらりと答えて、才蔵は組んでいた腕を解いた。 「俺ならば主に褒められれば手放しで喜ぶぞ。かわいげのあるお前など到底想像できたものではないが貴様もそれくらい振る舞ってみろ。…もの凄く痛い思いして死ねばいいのに」 枝の先へ一歩踏みだす。 「何それ!?ってお前、どこ…」 「書状を届けるよう主に頼まれたのでな、お前に付き合う暇はない」 焦った色の言葉を皆まで聞かず、才蔵は枝の上を跳び去った。 後に残るは、迷彩の忍が一人。 「………っ、どいつもこいつも…」 幹に背を預け、顔を手で覆ってしゃがみ込んだ佐助の呟きだけが、さわさわと木の葉を揺らす風に乗って消えた。 才蔵さん出張りすぎました。 途中「ん?」な箇所があっても生温く見てやってください。 |