ある日、不機嫌そうな彼女に呼ばれた。

のっそりと動くのは体が重く痛く辛いからだ。というのも昨日も不機嫌だった彼女に鎖骨の辺りをざくりと刺されたからだ。
今日も不機嫌だということは…と嫌な想像をしては益々体が重くなった。
そんな俺の心中はいざ知らず、不愉快そうに眉を寄せて目を細めると行くところがあるからと着替えるように言われた。
上等な服を女中に出され、何だ何だと戸惑いながら着替える。
今日に限って彼女は不機嫌そうな様子の割に至って普通に接してこようとする。
俺を気遣ってる訳ではないのはわかる。今までそんな事はなかったし今日突然、ということもないだろう。

準備を終えても何だ何だと頭を悩ませる俺を連れて彼女は口数も少ないまま広い廊下を進んでいく。
ついていった先は彼女の母親のところだった。

大分慣れてきた形式的な挨拶の言葉を言うと美しいその人は笑った。
そんな堅苦しくなくていいのよ、と。とても美しい天女のような声で。
確かに作られたかのように美しい容姿は母子似ていると思いながら他愛のない話をした。
母親に会っているというのに不機嫌そうな彼女は少しして俺を置いて部屋を後にした。
すぐに追いかけた方がいいかと思う俺を天女のような声が引きとめた。
二人きりで話したいことがある、と。

話したいことが何かと問えばそっと近づいて彼女が言う。
その傷はあの子がやったんでしょう、と。肯定も否定もできずに俺が黙っていると白い指先が触れた。
背筋がぞくぞくと震える。かわいそうに、いたかったでしょう。ひんやりした細い線が肌に触れる。
その手を取ると彼女が微笑む。ようやく、シャハラに置いて行かれた理由がわかった。

「シャハラ様が悲しむとは思わないのですか」

人形か天女のようだと思った彼女は人間で、確かに女の人だった。
大きな瞳を見開くも何も言わない彼女の手を振り払って部屋を出た。
走って走ってシャハラの姿を探す。きっと部屋にいるんだろうけれど、ひどく遠く感じた。

死にたいと思った事は幾度とある。それでも死なずに生きているのは生まれたからだ。
母親が腹を痛めて悲鳴を上げて歯を食いしばりながら俺を産み、強く生きて幸せになってくれと言ったからだ。
損得も何もなくただ俺の幸福を望む人間がいるからだ。その記憶があるからだ。

「早かったのね。気に食わなかったのかしら」
彼女の名前を呼びながらそろりと近付いていく。
座り込んでいたシャハラが急に立ち上がると声を荒げる。

「近寄らないで!気安く私の名前を呼ぶな!」
立ち止って素直に謝罪の言葉を口にすると彼女は笑いだした。
泣いているようにも聞こえる声で。

「哀れだと思ってるの?お前みたいな屑が!生まれてきた意味もなく、生きている価値もないお前がか!」
死ね、死ね、と繰り返しながら彼女が再び座り込む。
そして絞り出すような情けない声で一人にして、と言っていた。

誰か彼女が溺れるくらい愛してあげてはくれないだろうか、とそんなことを考えながら小さな体を抱きしめた。
みんね死ねばいいのに、と小さな声は確かに耳に届いているのに。

その日、ようやく彼女とわかりあえた気がする。
何も変わってはいないけれど。