別に彼でなくても良かったんだ。

思考を重ねに重ねた結果、私の納得いく答えがそれだった。
決して彼でなければならない理由はなく、彼以外の男性でも構わなかっただろう。

「そうやって本当は腹では笑ってるんだわ」
額に張り付く濡れた髪を退けて彼女が泣きそうな顔で笑う。
ここに至るまでの経緯は何も複雑な事はない。
彼女が女性に囲まれていて嫌な雰囲気だと思いながら近づけば彼女は水をかけられていた。
それでも元の性格からか怯む事もなく大勢相手に言い返す彼女を核として嫌な雰囲気が濃くなるのを感じた。
自分が危害を加わるのを良しとする程お人よしでもなければ強い人間でもないのだけれで気づけば彼女を庇っていた。
多少の口論の後、多くの人が不服そうにしながらもその場を去った。残されたのは彼女と私だけ。
首を振って彼女の言葉を否定すれば眉を寄せられる。

「そう。じゃあ媚を売りに?恥ずかしくないの?情けないとは?」
私が首を振れば眉間の皺を濃くする彼女が一度振り返る。
立ち去った人達の影もないのを確認してから再び私へと視線をやる。
腕を組んで不愉快そうに顔を歪めてる姿も可愛らしいと思う。
本当に美しい人は何をしていても絵になるものだとそう感じた。

「彼女達も言ってたじゃない。貴方、私が嫌いでしょう。そうよね、私がいなければ紅炎様は貴方なんかを構っていたんだもの」
私が否定も肯定もしなければ彼女は言葉を続ける。
それにしても彼女は可愛らしい姿をしている上に、美しい声をしていると思う。
鈴を転がすような小鳥が歌うような声だ。
それは嫉妬というか羨望されても仕方ないと思うくらいには。

「いずれは飽きていたでしょうけどね。貴方みたいな野良犬、何が良いのかわからないもの。何か違うかしら」
彼女が私に何を求めているのかはわからない。
何を考えてどうしてそんな事を言うのかがわからないのできっと私が何を言っても間違ってる。
気が済むのなら私が彼女に望む言葉をあげたいものだけれどわからないものは仕方ない。

「ねぇ、言いなさいよ。私が怪我をしてざまをみろを思ったでしょう。いじめられてて愉快だったでしょう。罵りに加わりたかったでしょう」
ここで口を開くのは間違いだろうとわかってたけど開かずにはいられなかった。
決して私は彼女が傷つくのが可哀想だとか同情で動いた訳ではない。
人の事を考える余裕なんて私にはいつだってないんだから。
自分の事で精一杯だ。自分の事もどうにもならないのに。人の事なんて。

「貴方が傷ついたら」
私が口を開くことで彼女はますます顔を歪めたけれど黙っていた。
口を閉じて私を真っ直ぐと見つめて次の言葉を待っているようだった。

「貴方が傷ついたら紅炎様は悲しむでしょう」
それが嫌だったから、と告げればかっと頬を染めた彼女が私を突き飛ばした。
思ったよりも力があってふらついた後に結局転んだ。
嫌いだとそう言ったかと思えば彼女は走り去って行った。
何が彼女を不愉快にさせたのかいまいちよくわからなかったが気を悪くさせてしまったらしい。

走り去る自分より小さな背中を見て少しだけ可哀想かもしれないと思った。
貴方は愛されてるんでしょう。紅炎様に思われてるんでしょう。
それでいいじゃない。ずるい。そこまで考えて自分はなんて浅ましいのかと。
どんな立場であれどんな人間であれ思う事の一つや二つくらいあるだろう。
自分の見解や意見を人に当てはめるなんて愚かしい事だ。

私はきっと別に彼でなくても良かったんだ。

それでも会いに来てくれるのが嬉しかった。
声をかけてくれるのが嬉しかった。気にかけてくれるのが嬉しかった。

彼が私に声をかけてくれたから。私を気にかけてくれたから。会いに来てくれたから。

だから私は彼になら抱かれてもいいと。愛されたいと。
一生側にいたいし、彼の子が欲しいと思ってる。

会いたい、と思う。