一歩引いてみれば何も難しい事なんてないのに。
渦中にいる彼らはそこが激流の中だと信じて疑わない。
溺れた振りをして助けてくれと手を伸ばすので。

たまには手を取ってやってもいい、かもしれない。

「ごきげんよう白瑛」
第二皇女である私の主の姫君が鍛錬場へと出向いた。
理由はわからず何故にあのような場所へ彼女が行くのかと思えば。
腕を組んで余裕たっぷりの笑みを浮かべた彼女はそう言った。
丁度体を動かしていたらしい汚れた白瑛を見下ろして。

「…ええ、こんにちは。貴方がこんな場所に珍しいのね」
姫君の態度を特に気にする素振りもなく白瑛はそう言って頭を下げた。
顔を上げるとにっこりと人のよさそうな笑みを浮かべていて少し鼻につく。
それは主も同じようで少しばかり眉を寄せるとちらりと広い鍛錬場を見てから再び口を開いた。

「こんな騒がしくて汚い所、よく長居できるものね。余程する事がなくてさぞお暇なんでしょう」
ねぇお姫様と彼女は言って口元に長い袖の裾を持ってきて愉快そうだった。
白瑛の表情は変わらないものの傍にいた彼女の従者、青舜は納得がいかない様子で。
随分と生意気に、何処かの浅ましい野良犬みたいに。
眉を寄せると不機嫌そうに前へと出て私の主を見つめた。

「この様な場所、貴方の様な方は用事なんてないでしょう。何故ここに?」
暗にさっさと帰れと言われているようで私は眉を寄せる。
馴れ馴れしく話しかけないでほしい。勝手に口を開かないでくれ。
私が不機嫌になるのとは別に姫君は口元に手を近付けたまま笑顔だった。
ちらりと背の低い彼を見てから再び白瑛に視線を戻していた。

「飼い犬がこれでは主人もたかがしれるわ。よくもこんな品のない奴に餌を与えるものね」
続けて彼女が私に同意を求めた。
少しだけ振り返って視線を私にやって。
あまりにも突然だったからぼんやりとしていた私は反応が遅れた。
数秒の間の後にその通りだと頷いて同意する。

彼女は眉を寄せた。不愉快そうに。
しまった。私のせいだ。ぼんやりしていたから。
反応が遅れたから。なんてことだ。こんな事あっちゃいけないのに。

「私に何か用事かしら」
ぴりぴりとした空気を裂くのは白瑛だった。
笑顔のまま姫君に近づくとそう問いかけた。
その様子に益々不愉快そうに表情をしかめてから姫君が言う。
まさか。貴方と話すことなんて何も。近寄らないで、と。
少しばかり落ち込んだ素振りを見せる白瑛に姫君はなんてことないすました顔だった。
青舜がはっとして白瑛に近寄り気遣ってからこちらをきっと睨む。
なんて失礼な態度だ。その首はねられてしまえ。お前如きが彼女を見るだなんて。
その瞳に彼女を映すだなんて。彼女の視界にお前が入るだなんて。いつそんな了承を得たんだ。

「酷い顔よシャハラ。行きましょう」
無意識の内に顔を歪めていたらしい私にそう言うと姫君は歩き出した。私も後を追う。
しかし立ち止った彼女が振り返り、思わず私も足を止めた。そして何事かと後ろを向く。
そこにはまだ青舜と白瑛が突っ立っている。
再び姫君へと視線を戻すと彼女は私ではなくもっと向こう側の、奥にいる二人を見ていた。

「ところでそこの犬、私のシャハラがお前に惚れて使い物にならないけれどどうするつもり?」
笑顔のまま彼女はそう言って再び歩き始めた。
茫然と、突っ立っている私は小さくなる彼女の背中をしばらく見つめていた。
沈黙の中、最初に声を出したのが誰かは知らない。私じゃない。

「っちが、います!今のは姫君のお戯れで…ただのおふざけです!」
さっと振り返って声を張り上げる。
二人の顔を見る事なんて出来なかった。

「わ、私が…貴方を、貴方なんかを好きになる訳ないじゃないばかぁっ」
半ば叫ぶような声を上げてから私は姫君の元へと走った。
青舜がどんな表情をしていたかはしらない。知りたくなんてない。