ソレーユの猫 | ナノ

部活終わり。
着替えている途中でハンカチが落ちて幸村は手を止めた。

ハンカチを拾い埃を払うが、何となく仕舞う気になれなくてそのまま手の中にあるハンカチを見つめる。
淡い桜色に白い水玉の入ったそのハンカチは幸村の物ではなかった。幸村が先生から特別に貸してもらっている花壇に残されたものだった。

花壇に残されたハンカチ。幸村は持ち主のことを知らない。だから返すこともできずこうして持っているのだが、全く知らないという訳ではなかった。
名前は知らない。立海大高校の生徒であることは知っているがクラスは愚か学年でさえ知らない。顔さえ、実はよく知らない。
では何を知っているか。…幸村が知っているのは、自分の花壇で声を殺して泣いていたことだけだ。

あの日、幸村は大きくなってきたコスモスのために添え木をしようと棒やビニールテープなどを持って花壇に向っていた。
自分に好意を寄せてくれる子のせいで満足に趣味の花壇の手入れさえできない。そんな幸村に先生達が普段から人通りの少ない花壇を貸してくれたのだ。その配慮を有り難く思いながらも、自分の好きなように弄れる花壇を持てたことに、その足取りは軽かった。

異変に気付いたときには反射的に物陰に隠れていた。

一人の少女が幸村の花壇の前にしゃがみこんでいる。せっかく先生方が気を遣ってくれた花壇ではあるが、また女子生徒に見つかってしまったのだろうか。
しかし、それにしては少し様子がおかしい。ぼんやりとした瞳で花達を眺めている少女。かと思えば、突然一点に視線を固定させた。幸村の位置からは何を見ているのかはっきりと特定することができなかったが、ゆっくりと少女の腕がミニひまわりに伸びたのがわかった。が、その指はミニひまわりに触れる前に引かれてしまう。

そこで幸村は気付く。

少女が泣いていることに。

口元を手で抑え、必死に声を押し殺そうとしているその身体は、小刻みに震えていた。
ボロボロと大きな涙がスカートを濡らすのが、遠目の幸村からも見えた。
小さな身体を、更に小さく丸め泣いている姿は見ていてとても痛々しかった。

幸村はその光景をただ見つめることしかできなかった。

どれくらい時間が経っただろう。三十分にも満たないかもしれないし、一時間以上経っていたかもしれない。時間間隔が麻痺していた。
少女が泣き止み、乱雑に目元を拭っている。空を眺めている少女を見て、幸村からため息が零れた。知らず知らずの内に幸村は息を詰めていたようだった。
それからの少女の行動は予想外のものであった。キョロキョロ辺りを見回していたかと思えば、棒を拾いそれをコスモスの近くに突き刺す。再びキョロキョロし出したのを見て、幸村はもしかして、と思う。もしかして、彼女は自分が今日しようと思っていたことと同じことをしようとしているのではないか、と。
だとすれば、次に少女に必要なのは紐である。しかし、屋外に紐などそうそうない。自分だってわざわざ今日のために用意してきたのだ。
案の定、少女は動きを止めると何かを考えるように視線を落としていた。どうするつもりなのだろうと様子を伺っていると、少女はポケットから何かを取り出した。
きれいに四角に畳まれた桜色――今、幸村の手の中にあるハンカチだった。

少女は、幸村の予想を裏切ってそのハンカチを使ってコスモスに添え木をした。
てっきり諦めるだろうと思っていたのだが、まさか自分の持ち物を使ってまで添え木をするとは。
少女が去った後、幸村は少女が施した添え木を見つめながら思っていた。
その後、幸村は少女がしてくれた添え木を自分が持ってきた道具での添え木へと変えた。少女がしてくれた添え木を外してしまうのは勿体ないような気もしたが、早く外したお陰で少女のハンカチはほとんど汚れていない状態だった。

それでも一応洗濯しアイロンを掛けたハンカチを、幸村はあれから肌身離さず持ち歩いている。どこかで会えたときにでもすぐに返せるようにと。

金色の糸の刺繍を指でなぞる。これは、あの少女のイニシャルだろうか。

――あの人は、何故泣いていたのだろう

ハンカチを見るたびに考えてしまう。
あんなに苦しそうに、けれど決して声は出さずに。見ているこちらが辛くなるような泣き方を、何故していたのだろう。
あの人をそんなにも追い詰めているのは一体何なのだろうか。自分も、辛くて辛くてしょうがない時期があった。人に隠れて泣いたことだってある。
けれど、自分には仲間達がいた。どんなに辛いときでも支えてくれた仲間達がいた。だから自分は辛い時期を乗り越えることができた。

あの人には、そういう存在はいるだろうか。隠れるように泣いていたあの人が、心を無防備にできる場所はあるだろうか。

今日は笑っているだろうか。
また一人隠れて泣いたりしていないだろうか。

笑ったところも碌に見たことがないのに、そんなことばかり思っていた。気が付けば、ハンカチを見つめながら少女のことを考えている。我ながら腑抜けた状態であるという自覚は幸村にもあった。情けなく思いながら、少女のことを頭から追い出すようにため息混じりに軽く頭を振る。
唯一少女のことが頭を過ぎらないのは部活中とテニスをしているときだけだった。

「お先!」
「お疲れ様でーす!」
「お疲れー」

ブン太、赤也、ジャッカルの騒がしい声に幸村は出口の方へ視線を向けるが、そこにはもう三人の姿はなかった。

「今日は随分早いじゃないか、あの三人」
「どこかに寄り道する確率、78%だな」

今日は休日練習だったために平日の部活よりは早く終わっていた。確かにあの三人ならこの後どこかへ買い食いにでも行くのだろうと、幸村も着替えを再開しようとした。
ふと、柳が自分の手元を見ていることに気付く。その視線の先には、あの少女のハンカチ。

「どうかした?柳」
「…いや、気のせいかもしれんが、そのハンカチに似たものを萩野が持っていたような気がしてな…」
「!本当かい?」

思わぬ発言に幸村は驚くが、ずっとハンカチの持ち主のことを知りたいと思っていた幸村の体は柳の方へと乗り出していた。そんな幸村の様子に怪訝に思うも、表情には出さずに柳は答える。

「あぁ。色は水色だったがデザインや…、その刺繍はそっくりだった」
「…それじゃあ、もしかして…」

萩野とこのハンカチの持ち主は何か関係があるのだろうか。萩野に話を聞くことができればあの少女について知れるかもしれない。
幸村は先程のぼんやりした様子が嘘のようにテキパキと着替え終えると、平部員のロッカールームへと急いだ。


「…で、どうしたというんだ?」

興味を持ったのであろう、幸村の後をついてきた柳が尋ねるが、幸村はそれどころではない。一年生を捕まえて「萩野呼んでくれる?」と頼む。

「萩野ー!」
「んー、何ー?」
「部長がお前のこと呼んでるぞ」
「……部長が?」

着替え途中であった萩野が怪訝な顔をして幸村の方へとやってくる。迷惑だと言わんばかりの態度に幸村も柳も内心驚き微かな違和感を感じる。が、気持ちが急いている幸村はそれには構わずに本題を切り出した。

「萩野、このハンカチ知ってるかい?」
「………これ、姉さんのハンカチですけど、何で持ってるんですか?」

幸村の身体を電流が走ったような気がした。遂に見つけた。あの人に繋がるものを。

「そうか、萩野のお姉さんの物なのか。…お姉さんにハンカチを返したいんだけど、会えないかな」
「…俺から返しておきます」

差し伸べられた手に、幸村は笑みを向ける。萩野の言っていることは至極真っ当であると理解してはいるが、それでは意味がないのだ。自分が直接返さなければ。

「いや、直接返したいんだ。お姉さんに会えないかな」

もう一度同じことを言う。ニッコリと浮かべる笑みは、時と場合によっては威圧感を持つことを幸村は自覚していた。
真田ならば顔を青くしたであろうその笑顔を正面から受け止めた萩野はあからさまに顔を歪めた。

「はぁ?何言ってるんですか?姉さんにあんな失礼なこと言っておいて」

思いもかけなかった返答に幸村と柳は顔を見合わせる。ここで、先程萩野を呼び出したときに微かに感じた違和感の正体がわかった。萩野の言動の端々から怒りを感じるのだ。
萩野は負けん気が強い。けれどそれ以上に礼儀正しく年上に対しては決して無礼な態度を出さない子だった。試合に負け悔しそうにしていても、挨拶のときにはその表情を隠すような後輩だった。それが今はどうだろう。不満に思う気持ちを隠そうともせず、無礼としか言えない態度で幸村と柳に接している。
一体、萩野は何に対してそんなに怒っているのか。幸村にも柳にも心当たりなどなかった。

「柳、萩野の言ってることわかるかい?」
「…いや、残念ながら。萩野、一体何のことを言ってるんだ」
「部長も柳先輩も知らないんですか?」

部長のくせに?参謀とかって呼ばれてるくせに?
萩野の目はそう語っていた。しかし、全く心当たりのない二人は首を横に振るしかない。

「真田副部長と仁王先輩が、姉さんに暴言吐いたんですよ。テニス部のファンと勘違いしてね」

勘違いしたとはいえ、無関係の人に暴言を吐くなんてテニス部としての品格が疑われますよね。と嫌味ったらしく言う萩野は、なかなかに神経が図太いかもしれない。
そう柳は思ったが、幸村の瞳は真剣な“部長”の瞳になっていた。

「その話、詳しく聞かせてもらえるかな」










「スマイル一つ」

丁度同じ頃、ジャッカル、ブン太、赤也はとある店にいた。そこは萩野が彼女を迎えに行った店であり、ブン太の馴染みの店であった。ジャッカルと赤也もブン太に付き合って何回か来たことがあった。
萩野の彼女にどうにか接触できるかもしれないと言ったブン太は、店が空いてきた頃合いを見てレジへと向かった。そして、一言、店員に言い放ったのだ。
後ろで様子を見ていたジャッカルと赤也は、ブン太の発言に仰天する。

「何言ってるんすか、丸井先輩!それはファーストフードで言うことっすよー!」

ジャッカルの首元を掴みぐらぐらと揺すり出す。かっくんかっくんと揺さぶられながらジャッカルも赤也と同じ思いだった。ブン太、何を考えてるんだ…?…その思いは口に出すことはできなかったが。そして、言われた店員も案の定と言うべきか、ぽかんとしていた。

「…ぷ、あはは。どうしたんですか?罰ゲームか何かですか?」
「へへ、まぁそんなもんだよぃ」

ぽかんとしていた店員は、唐突に笑い出す。そしてブン太もそういう反応が返ってくるとわかっていたとでも言わんようにニヤリと笑みを返す。
その後も親しげに交わされる言葉に、ジャッカルと赤也は状況についていくことができなかった。

「実は、今日は用があって来たんだよ」
「…用?私にですか?」
「あぁ」

ジャッカルと赤也が状況に置いてけぼりにされていても二人の会話はどんどん先に進んでいっていた。首を傾げた店員にブン太は本題を切り出した。

「萩野って知ってるか?」
「…え?…え、えぇ、まぁ…知ってるっていうか…」
「実はソイツのことで話があってな。五分でいいから話せないか?」
「…もしかして、結人のことですか?結人がどうかしたんですか?」

逆に聞かれてはブン太も口篭ってしまう。ここはレジである。いつ客が来るかわからない状態で話すのでは気が散って不本意なのだが、何も話さないで五分くれないか、というのもどこか胡散臭い。
頬を指で掻きながら、ブン太はぎこちなく話した。

「いやー、俺達も詳しいことは知らないんだけどな…。萩野がテニス部の先輩と喧嘩したらしくって、それについてちょっと協力してもらえたらなー、なんて…」

返ってこない声に、ブン太は横目で店員の様子を伺った。
ちらりと伺ったはずのその視線は、彼女としっかりとぶつかってしまう。そしてあまりの視線の強さにブン太は目を逸らすことができなくなった。

「その話、詳しく聞かせてもらえませんか?」





小さな変化は、小さなきっかけにより少しだけ動き出して



別個に動いていた変化が、一つになっていく。


120222


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -