ソレーユの猫 | ナノ

入学して約一ヶ月。
大体の新入生が、ようやく新生活に慣れだした頃――

ひなたは、立海大付属高校校内の中を彷徨っていた。
…一言で簡潔に述べると、迷子になっていた。

「萩野、悪いんだけどこの資料、資料室に戻しといてくれ」その一言により、ひなたは放課後に未だ訪れたことのない資料室へ、地球儀を抱えて行くことが決まった。
一ヶ月程の期間を過ごしたとはいえ、立海大の敷地も校舎もとてつもなく広い。中学校から立海で過ごしていたとしてもたまに迷う者が出るほどだ。
当然、高校から入ってきた立海大に不慣れなひなたを気遣い、何人かの友達は共に行こうかと名乗り出てくれた。

それを断ったのは、ひなた。
今現在、自分がどの辺にいるかもわからない状況に眉を下げる。資料室へは何とか辿り着いた。しかし資料室へ辿り着くまでに右往左往したせいか、帰り道が全くわからなくなっていた。
困ったわね…。他者から見れば全く困ったように見えぬが、頬に手を当てため息を吐くひなたは正真正銘困っていた。
だが、他者から見れば困ったように見えぬというのも、あながち間違いではない。

ひなたが元いた学校は、氷帝学園。立海大も確かに広いが氷帝学園も負けず劣らず広かった。
正直に言えば、迷ったことだってある。そして迷った末に、お気に入りの場所を見つけたりもした。さらに言うならその場所で、素敵な友達と出会った。
だからひなたにとっての迷子とは、そこまで嫌なものではなかった。今日は、バイトも入っていない。時間を気にする必要もないことから、呑気に迷子も久し振りだなーと考えるほどだった。

ふらふらと歩いていると、渡り廊下へと出た。
建物と建物を繋ぐそこは、おそらく高校と中学校を繋ぐものではないだろうかと容易に想像できた。
特に中学校へ行く用はない。来た道を戻ろうかとも思うが、ひなたの足は自然と渡り廊下へ下りていた。上靴だけどいいかな、まぁいいかと脳内で勝手に完結させると、中庭を気の向くまま足を動かす。

氷帝学園と立海大では、やはり多少違う。
そんなこと、この一ヶ月で充分にわかっているつもりだったが、こうして歩いていると余計実感した。
例えば、校内に植えられている木。氷帝学園の方が木もたくさん植えられているし、手入れもよくされている。立海大だって裕福層が通う学校であるとは思うが、氷帝学園は規模が違う。植物にしても何にしても、定期的に外部の人がやってきて丁寧に手入れしてくれていた。
けれど、立海はそうではないらしい。乱れているという訳ではないが、氷帝のように手入れされている様子はない。いい意味で、とても自然的にのびのびと育っている。
過ぎて行く光景を目に写しながら、ぼーっと考える。何だか、先程から自分の頭は正常に動いていないような気がする。頭が空っぽ…とでも言えばいいのだろうか。…自分は疲れているのだろうか。

そうして辿り着いたのは、花壇の前。
人目を避けるような位置にある花壇は、おそらくではあるが普段からひと気のない場所なのではないだろうか。中学寄りではあるが、あまり歩いていないことから中学と高校を繋ぐ渡り廊下からそんなに離れていないはず。中学と高校を繋ぐ場所。この年代では用がない限りは自分から近付くような場所ではないだろう。

近くにしゃがみこむ。
少し荒れているところも見受けられるけど、よく手入れされている花壇だった。一年草が多いことから、おそらくこの四月から手入れを始めたのではないだろうか。推測をする。
マーガレット、ペチュニア、パンジーにマリーゴールド。花咲いているものも多い。
色合いやバランスがきちんと考えられているとしか思えない配置は、この花壇の所有者のセンスの良さが垣間見えた。
ぼんやりと視線を動かすと未だ花はついていないが、目に付いたものがあった。

――これは…、…ひまわり?
それにしては、少し小さい気がする。…ということは、ミニひまわりか。

「夏になったらきっときれいに咲くわね」

頭の中で、懐かしい声を聞いた。
それは、ほんの一年前の約束だった。“夏になったら一緒に見に来ようね”、買い物の帰りにひまわり畑の前を通りすぎひなたは約束した。母と。

花の好きな人だった。
穏やかでいつも笑みを浮かべているような人で、ひなたはこんなに魅力的な女性がいるのかと、母としてだけでなく同じ女として憧れていた。優しくてけれど芯がしっかりしていて。琴や華道に茶道、日本舞踊もできるという英才教育を受けていたが、それを子供達に強要することはなかった。本当は琴や日本舞踊なんかよりも格闘技が好きだったのよ、とよくひなたに話してくれた。だから、貴方達は自分の好きなことをしなさいと。
華道も茶道も嫌いで、いいところのお嫁さんになるためだけに自分が存在していて、親にとっての価値もそれだけだと思っていた時期もあった。けれど、そんな私を変えてくれたのは父さんだったのよ、そう続く昔話がひなたは大好きだった。
本当に愛し合っている夫婦だった。
ひなたも母さんのこと大好きだった。結人だって、大好きだった。


何故死んでしまったんですか――

約束を果たさずに、逝ってしまうなんて、どうして、


一度思ってしまえば、思考は止まらない。
込み上げる何かが、口から叫びとなって出てきそうだった。咄嗟に口を手で覆うと、熱いものが頬を伝い指の間を縫った。
涙だと認識する余裕はなく、抑えた口からも嗚咽が漏れる。

母が死んでから、ひなたが流した久し振りの涙であった。

人は、悲しむにも余裕が必要である。
心の余裕であったり、その人が死んだということを認める“余裕”が。
ひなたは母が死んでとても悲しかったが、そんな自分よりも悲しみに我を失っている父を見て冷静になってしまった。自分よりも悲しんでいる父、そして自分よりも幼いのに母を失ってしまった弟。今このとき、自分はどうすればいいか。――自分がしっかりしなければならない。
無意識にでも、周りが悲しみに浸れるように自分の悲しみを押し込み、気を張り続けた。
そうして、誰にも相談せず気を張り歩き続けたひなたの心にも、限界が近付いていたのだ。疲れていた。心がSOSを出していた。

今日、こうして何も考えずにぼーっと歩いていたのも、心が休息を求めていたのだろう。

家で泣いては父や結人に気遣わせてしまうと、母が死んでから一度しか泣いていない涙を誰に見られる心配のないこの場所で。まるでダムが決壊してしまったかのように流した。






どれくらいの時間が経ったのかわからない。
三十分にも満たないかもしれないし、一時間以上ここにいたかもしれない。
前日降った雨が草に僅かでも残っていたのだろう。座りこんだお尻が濡れて冷たくなっていた。泣きすぎて熱を持った瞳をやや雑に制服の裾で拭う。
ばっと勢いよく顔を上げて空を見上げる。あぁ、もう、いつまでめそめそしてるの!内心で自分を叱咤して暫く雲が空を泳いでいく様を眺める。熱をもった目元を風が撫で、空の青さが自然と涙を引っ込めてくれた。
そして、視線を花壇へと視線を落としたとき、ひなたは驚いた。

花壇に咲く花々が、とても色鮮やかにひなたの瞳に映ったからだ。

赤や黄色、白に紫、そして青々とした葉の緑に湿気の抜けきらない黒い土の色。
さっきも見たはずの花壇だというのに、その見え方は全く違った。さっきはセンスがよいだとかよく手入れされているな、とは思ったがそれだけだった。今は、“きれいだ”と心から思った。

それが何を意味するか…、ひなたは一つの答えを導き、思わず苦笑してしまった。
私は今まで何かをきれいだと思う心の余裕さえなかったのか、と。結人が心配するのもわかる。そんな余裕がない状態、周りの人が気付かない訳ないのだ。
心配掛けたくないと思いながら、私は心配されてもしょうがない状態だったのか。そう思うと自分が情けなくて、けれど何だかおかしくて笑ってしまう。

でも、もう大丈夫。
すくっと立ち上がり、空に向って大きく伸びをする。
私は気付けたから。もう、何かをきれいだと思う心を失くしてしまうほど頑張ったりしないよ。そんなの、本末転倒だもんね。
ね、母さん。
母が自分を泣かせてくれたような気がして、妙にひなたはその花壇に親しみを持った。
まるで母へ語りかけるようにして、花壇を見下ろしたときだった。

大きく成長しすぎてしまったのだろうか、コスモスが斜めに倒れこんでいるのに気が付いた。…この状態って、あんまりよろしくない状態だよね、きっと。
母が庭をいじるときに隣にいたり手伝いをしていたひなたは、母の言われる通りに手を動かすだけだったので正確な知識を持っていなかったが、それでも明らかに斜めに傾いている今の状態はあまりよろしくない状態であろうことは察せれた。おそらく、雨の影響で土が柔らかくなったことから、自分の重さで傾いてしまったのだろう。
キョロキョロと辺りを見回し、手近なものはないかと探す。少し離れたところにある大きな木の下に、充分ではないが妥協点である枝を見つける。拾ってきた枝をコスモスの脇に差す。と、そこまでして、ひなたは気付く。
…あ、添え木するには紐がないや。

再び周辺を見回すが枝と違い、そんな都合よく紐が落ちているはずがない。
どこかに紐を取りに行こうかとも思うが、迷ってこの花壇に辿り着いたのだ。現実的な案とは思えない。
自分の胸元へ視線を落とし、ネクタイを見る。……いやいや、ネクタイはダメだわ。これがないと明日からの学校生活に支障が出る。
ポケットに何かないかと手を入れると、ハンカチが出てきた。

桜を思わせる淡い桃色に、白い雪が舞うかのように白い点が入っているハンカチ。隅には、ススキ色の糸でイニシャルが刺繍されている。
その刺繍はひなたの母が入れてくれたものであり、ハンカチは弟と色違いのものだった。ひなたにとっては、母の形見も同然で、ずっと肌身離さず持っていた。

暫しハンカチを見つめていたが、顔を上げると、ひなたはハンカチを使ってコスモスを支えるように枝へと括りつけた。
ハンカチは紐にするには短くて少し手間取ってしまうが、それでも縛り終えたひなたが満足できるほど紐の代用としてその役目を果たした。

うん、完璧。自分の仕事振りをいろいろな角度から見て、満足行くと一人頷く。
確かに母さんの形見と離れるのは少し寂しいけど……、このままこのコスモスが枯れたり病気にかかったりしたら大変だもんね!
母さんもきっと、納得してくれるだろう。むしろ褒めてくれるはずだ。だって母さんは花が好きだったもの。
いつの間についてしまったのか、制服についた土を軽く叩いて払うと今度こそ帰るために立ち上がる。

今日の迷子も、迷子になってよかった。
結果的にこんなに素敵な花壇を見つけることができたんだから。
また、ここに来よう。定期的に息抜きは必要だよね、そう実感したひなたは充実感を胸にその場を後にした。




――いつだって、何か変化が起きたとき。
そのきっかけの瞬間に、今この瞬間をきっかけに私の未来は変わる。…そう感じる人は稀であろう。
過去を振り返って、“あぁ、あのときあの瞬間がきっかけだったな”
大部分の人がそう思うのだ。

今日のこの瞬間、小さな変化が起こったことをひなたが知るのは、まだまだ先の未来のことである。


120131


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -