女主用短編 | ナノ

「名字、」

名前を呼ばれて振り向く。そこには、忍足さんの姿。
忍足謙也さん――私の直属の上司だ。この部署に配属されたばかりの不慣れな私に、愛想を尽かさずにずっと仕事を教えてくれた先輩。
仕事が上手く行かなくて泣いていたときも、私が泣き止むまで頭を撫でて慰めてくれた優しい人。

…私の想い人。

「この資料のここのとこなんだけど…」

忍足さんから資料を受け取り、相槌を打ちながら資料に目を通す。
次のページを見ようとしたとき、目線が下だったからか丁度忍足さんの手が見えた。
薬指の銀色がきらりと光った気がした。

忍足さんは、今月末に結婚する、らしい。
学生時代から付き合っていた彼女と、十年?の交際期間を経て。
直接聞いた訳ではない。給湯室で噂話をしているのをたまたま聞いてしまった。

忍足さんの学生時代から、…か。
打ち合わせ中だというのに思考は別の方向へと進んでいく。
忍足さん、学生時代は茶髪だったって言ってた。テニスをしてて、“浪速のスピードスター”って呼ばれてたって。
すごく無邪気に喋ってる忍足さんは、いつもの仕事中の真剣な表情と違って少年のようだった。過去を振り返っての表情であって、私に向けられた表情ではないってわかってるのに、胸が高鳴るのを抑えることができなかった。
それに、仕事中は標準語で話しているけど、元は関西弁だったとも言ってた。関西弁で話してみて下さいってお願いしたけど、恥ずかしいから嫌だって断られたんだよね。…聞いてみたかったなー、忍足さんの関西弁。きっと…、ううん、絶対カッコいいだろうに。

…彼女さんは、そんな忍足さんの一面とか知ってるのかなー。
いいなー。

一般的には、彼女さんにこんな思いは抱かないもんだと思う。嫉妬とか妬みとか…、そういうドロドロして汚い感情を抱くのが普通なんだと思う。
でも、私にとっては忍足さんに彼女さんが居ようと、忍足さんが今月末に結婚すると言われ様と、どうにも現実として捉えることができなかった。
だって、彼女さんなんて、見たことない。会ったこともない。私は“知らない”。
忍足さんはみんなに優しくて…、私だけじゃないっていうのがときどき無性に寂しくなったりするけど、でもそれでも平等に優しくしてもらえるだけで安心できた。みんな“平等”。忍足さんの“特別”を感じない。

私の中では、忍足さんと忍足さんの彼女を繋ぐものは薬指の指輪しかない。
薬指の指輪の存在だけが、忍足さんに彼女がいるという現実を結びつけるものだった。

指輪なんて小さなもの、無視しようと思えば無視できた。
見て見ぬ振りをしようと思えば、目を逸らせば何とか忘れることができた。
…存在を否定しようとすればするほど、忍足さんの指輪の輝きは増していった気がしたけれど…、…それはきっと私の気のせいなんだ。

「名字?」

話を聞いていなかったのがバレたんだろう。忍足さんが顔を覗きこみながら、私の顔の前で手をひらひら振っていた。

「あ、ごめんなさい。ちょっとボーっとしてました」

取り繕うように笑顔を浮かべれば、「そうか?無理はすんなよ」と言ってくれた。
本当に優しい。
忍足さんの優しさに触れる度、心が温かくなって、ふんわりする。

「忍足ー」

再び打ち合わせに戻ろうとしたとき、忍足さんを呼ぶ声が部屋に響いた。
その声音には、からかいの色が含まれてるような気がした。

「婚約者さんが忘れ物届けにきてくれたぞー!」
「え!?」

ひゅーひゅーとあちこちから囃し立てる声が聞えてくる。忍足さんがすごい速さで忍足さんを呼んだ人の元へ走っていく。
この恋を離したくないのなら、社内で走るのは危ないとか何でもいいから言うべきだったのかもしれない。けど、私の周りの時間が遅くなってしまったかのように全てのことが目に焼きついて、私はまともに物を考えられなかった。

忍足さんを呼んだ人の元へ駆けていく忍足さん、忍足さんを呼んだ人が忍足さんの肩を叩いてその場を後にする。去ったその人の影にいたんだろう、小柄な女の人が私の目にも映って…。

「謙也、これ今日の会議で必要な書類だって言ってなかった?」
「え?…あぁぁあ!ほんまや!」
「もう、相変わらず抜けてるんだから。しっかりしてよね」
「すまん。…ってわざわざ届けに来てくれたんか?」

くるくる変わる忍足さんの表情。
大袈裟と笑ってしまうほど驚いた表情をしたかと思えば、眉を八の字にして照れくさそうに笑う。かと思えば、彼女さんの返事を聞いて、嬉しそうに…はにかみ笑いを浮かべる忍足さん。

知らない。
私は知らない。
忍足さんのそんな表情。“愛おしい”を絵に描いたような瞳で、誰かを見つめるところなんて。頬に赤みが差したままだらしなく緩んだ、気の抜けた表情なんて知らない。

私が頼んだときには関西弁、喋ってくれなかったのにな。
…私からしたら、忍足さんが抜けてるなんて、有り得ないことなんだけどな。


あーあ

あーあ…、

……あーあ…


「…っ最悪…、」



恋心が割れる音が聴こえた。





120215
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