冬に移ろうという季節、名前と勘右衛門が出会った季節も三度目が訪れようとしていた。
その間に変わったことは、ずっと上手に育てることができていなかったスイカを育てることができたこと、人参が嫌いな勘右衛門が人参も残さず食べられるようになったこと、そして勘右衛門が名前の背を追い越したことぐらいだ。
上記三つを人に言ったとき、普通の人ならば、勘右衛門の急成長に驚くだろう。
しかし、名前にとっては勘右衛門が人参も食べ残さないようになったことの方が勘右衛門が自分の背を追い越したことよりも重大だと思っていた。
そんな名前も勘右衛門の急成長に驚かなかった訳ではない。しかし、「子供の成長って本当に早いのねー」と、久し振りに会った親戚の子供があっという間に大きくなっているのと同じ感覚で呑気に考えていた。その辺が、誠治に抜けていると言われる所以であり、大体の人に“天然”という印象を与える所以であろう。それに気付かぬは、本人ばかりである。
「勘ちゃん、今日はそろそろ帰ろうか。」
「うん…って、いい加減勘ちゃんって呼ぶのやめてよ。」
汗を拭いながら一段落ついた農作業に、共に作業していた勘右衛門に声を掛ける。
小さい頃は、家の中で勘ちゃんと呼ぶのが普通だったが大きくなるにつれ、勘ちゃんと呼ばれるのを嫌がるようになっていた勘右衛門。ささやかではあるが、反抗期なのだろうか。
反抗期でさえ微笑ましく感じている名前は、勘右衛門にそっけなく返されても気にした様子なく笑みを浮かべていた。
それがいけなかったのだろうか。
歩いていた名前は、急にがくんという感覚に襲われた。“あ、まずいな”、足元がなくなるようなその感覚は何度も経験したことのあるもので、名前は反射的に“あぁ、転ぶなー”と思い、次に訪れるであろう衝撃に備え目を固く閉じた。
しかし、衝撃も痛みも名前には訪れず、代わりに感じたのは自分以外の、人のぬくもり。
薄い布越しに、筋肉のついた胸板を、たくましくしっかりした腕を感じる。
――ト、クン
今まで打ったことのない音を、心臓が奏でた。
一秒が永遠に、止まってしまった名前の時間を再び動かし始めたのは、耳元で紡がれた音。
「もー、何やってるのさ、危なっかしい。ちゃんと前見て歩きなよ。」
はぁー、とため息混じりに紡がれた声は、名前が聞き慣れた子供特有の高い声ではなく、声変わりを終えた青年のものだった。
――ドクンっ
今度は、耳のすぐ近くで心臓が鳴った。顔がどんどん熱を持っていく。全身が心臓になったのではないかというぐらい、心臓が強く強く鼓動を繰り返す。
――え、え…?何なの、一体…?
始めての感覚に戸惑い、混乱する名前は、勘右衛門も顔を見ることもできずに家の中へと駆けて行った。
それから名前は、勘右衛門の目を見て話すことができなくなった。
普通にしていたはずの、手を繋ぐことも、額へのキスも、一切できなくなった。
だって、目が合っただけで、名前を呼ばれただけで、心臓がうるさいくらいに跳ねるのだ。
勘右衛門だって、名前の異変に気づいているであろう。しかし、特に何も言ってこない。ときどき複雑そうな顔をするだけだった。
「じゃあ、ちょっと出てくるね。すぐ戻るからお留守番、お願い。」
今日も今日とてそんな様子な名前は、気分転換を兼ねて木の実を拾いに行くことにした。
心配性の勘右衛門へそう告げてからそそくさと家を出る。
あぁ、また目を合わせられなかった。素っ気ない態度をとってしまった。
そう後悔しながら歩いていた名前の前方から足音が聞こえてきた。顔を上げると、そこには誠治の姿。
「誠治?どうしたの、こんなところで。」
「お前に用があってな。ちょうど良かった。」
「用?」
名前のところで採れている野菜を少し分けて欲しい、その申し出に快く頷いた名前は、誠治と共に今来た道――家へと続く道を歩き出した。
「あれ、あのガキはどうしたんだ?」
「勘右衛門?勘右衛門は今お留守番よ。」
ふと口を開いた誠治。あの町でのできごと以来、今までよりもずっと誠治と関わることが多くなっていた。その中で、誠治の口の悪さも、その口の悪さの裏にある優しさにも気付き始めた名前は、勘右衛門のことをガキと言われても怒らなくなっていた。
そして、誠治も誠治なりに、自分の思いをなるべく素直に伝えようと努力していた。
「お前さ、本当に結婚しなくてもいいのか?」
「…………。」
「あのガキだって、もう一人でも生きていけるくらいにはデカくなっただろう。このままだと、本当に結婚できなくなるぞ。」
「…そういう誠治はだって、まだ結婚していないじゃない。」
この話になると名前が何とか言い返せるのは、いつもその一言だけだった。その度に「俺は男だから女よりは猶予がある」とか「女の行き遅れと一緒にするな」とか説教のように言われてしまうのだが、今日は違った。黙り込んだかと思うと、急に立ち止まる。少し遅れて足を止めた名前は、疑問符を浮かべながら誠治を振り返った。
「名前、」
「?なに?」
「俺が、け「名前、もう帰って来たの?」
何かを言おうと誠治が口を開いたとき、勘右衛門の声がそれを遮った。「あれ、誠治もいるじゃん。」その言葉に、口を開いたまま止まっていた誠治も大きなため息と共に動き出した。
「うっせーぞ、ガキ。年上を呼び捨てにしてんじゃねーよ。」
「ガキじゃないし。俺には勘右衛門って名前があるし。」
「お前なんかガキで十分だよ。…ってか、またデカくなってるじゃねーかよ、気持ち悪りぃ。どんだけ成長はえーんだよ。」
喧嘩しているような、けれどテンポのよい会話を続けながら、勘右衛門と誠治はさっさと野菜の仕分けを始めていた。名前がぽかんとしている内に、二人は作業を終えていた。
「んじゃ、今日は帰るわ。」
「え、あ、うん。気をつけてね。」
「おー、また来る。」
ぽかんと手を振り見送っていれば、あっという間に誠治の背中は小さくなっていった。
そして、残されたのは勘右衛門と名前の二人だけ。
「名前、」
「ん?」
「誠治と…、結婚するの?」
「は?」
予想もしていなかった質問に、思わず勘右衛門を振り返れば、真剣に名前を見つめていた勘右衛門と、目が合った。
ドキリと跳ねた心臓に、反射的に顔を逸らし「そんなことある訳ないじゃない」と答えるが、顔を逸らされた勘右衛門は、胸に走った痛みに顔を歪めた。
「ねぇ、名前。何で俺の顔を見てくれないの?」
「…え?」
――やはり気付いていた。
今まで何も言ってこない勘右衛門の優しさに甘えていた名前は、もしかしたら勘右衛門は気付いていないかもしれないと、心のどこかで逃げ道を作っていた。
けれど、こうしてはっきりとした形にされてしまえば、もう逃げることはできない。
でも、何と答えればいいのだろう。自分でもわかっていない感情。それを説明しても果たして勘右衛門に理解してもらえるだろうか。
黙ることしかできない名前に、勘右衛門は続けた。
「今まで…、名前が急に俺を避け出したのは、俺のことを“異性”として意識し始めてくれたからかもしれないって思ってた。だから…、ちょっと寂しかったけど我慢したんだ。でも…違うの?誰か違う人のことを好きになったから…、…俺が…俺が邪魔になったから避けるの?」
聞いている方が切なくなるような、悲痛に満ちた声に、名前は自然と顔を上げていた。
勘右衛門の言葉はどれも予想外のものばかりだったけれど、それでもある一言だけは名前の胸にストンと落ちた。
“異性として意識し始めた――”
そうだ、あの日。すっかり大人の男の人へと成長した勘右衛門に抱きとめられたあの時。自分は、勘右衛門のことを“異性”として意識したのだ。今までずっと一緒に過ごしてきたけれど…、始めて“男の人”として見たのだ。
おいしいものが大好きで、食いしん坊なところも、見ていると気持ちが温かくなる太陽みたいな笑顔も、拗ねると頬を膨らませる子供のようなところも…。大好きで愛おしくて、それはずっと変わらなかったけど、もしかしたら自分でも気付かぬ内に、“大好き”“愛おしい”の種類が変わっていた――?
泣きそうな声で、顔を俯かせている勘右衛門を、名前は何も考えずに抱きしめていた。
「邪魔なんかじゃないわ。私は、勘右衛門のこと大好きだもの。」
「…本当?」
「本当よ。閻魔様に誓ってもいいわ。」
「…俺も、名前が好きだよ。…名前とは、違う好きだと思うけど…。」
勘右衛門の言葉に大袈裟に反応する心臓。
どうにか落ち着こうとする心を邪魔するように、体が火照りだす。
「どういう…好き、なの…?」
かすれる声。
自分は勘右衛門の答えを聞きたいのだろうか…。それさえも名前はわかっていなかった。けれど、今聞かなければ…、ずっと自分は勘右衛門を避けてしまうような…そんな形にもならない直感だけがあった。
「…こういう好き。」
見つめ合っていた瞳が瞼で遮られ、不意に訪れる額への柔らかなぬくもり。
頬へのぬくもり。耳へのぬくもり。
たくさんのキスが名前に降り注いだ。
そのどれもが優しくて、“愛おしい”という気持ちに満ちていた。
不快感なんてない。
勘右衛門の唇が自分に触れる度、心が満たされていく。
――あぁ、私は勘右衛門のこと…
ふわふわとした感覚から、いつの間にか閉じていた瞳を開けると、悲しそうに眉を下げた勘右衛門がいた。
「…ごめんね、名前。育ててくれた名前に感謝してもいるけど…、でも俺は名前のこと、一人の女性として好きなんだ。名前が俺のことそういう風に思ってないことは知ってるけど…、でも…それでも…っ、」
なぜ勘右衛門は泣きそうになりながら謝っているのだろう。
私だって、こんなにも勘右衛門のこと…
「好きなのに…。」
名前は意識せずに、夢心地そのままに自分の気持ちを呟いた。
その小さな呟きは、距離の近い勘右衛門にも、もちろん聞こえていた。勘右衛門が大きく目を見開き、驚いていたことを、勘右衛門に抱き着き胸元へ顔を埋めた名前は知らなかった。
「それって本当に…?」
驚き顔を覗き込んできた、勘右衛門。名前は引きはがされた僅かな距離でも名残惜しく感じた。しかし、勘右衛門の不安そうな信じられないといった顔を見たとき、場違いにも少しだけ笑ってしまった。
精一杯背伸びをして、ようやく届く勘右衛門の頬。
「私も、こういう好きで勘右衛門のことが好きだわ。」
頬とは呼べないくらいに唇に近いところ――口の端にそっと口付た名前は、ようやくわかった自分の気持ちに晴れ晴れとした笑顔を勘右衛門へ向けた。
真っ赤になった勘右衛門が「反則っ、」と呟き、二人の影が静かに重なったのは、それから少し経ってから。
――名前、大好きだよ。俺とずっと一緒にいてくれませんか?
ままごとのような誓いの言葉は、三年のときを経て、二人の元に再び降り積もった。
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