故郷へ帰らなければならないと呟いた彼は名を付けろと言った。
それは彼の首に首輪を嵌めることに等しいのだと私は知っていた。


「名を付ければお前は俺にとってそういう存在になる」

そういう存在って?私は貴方にとって?彼には私が何かを与えなければ待っていられない女だと映っていたのだろうか?それとももう戻っては来ないつもりで?
渦巻く思いは何一つ言葉には出来ないまま飲み込んでそうとだけ言った。
明日旅立つなんてことよりずっと彼が私へ下した評価の方がずっと気になっていた。
彼の名は彼の敬愛する君主が付けたもの。
そう、彼は首輪に鎖に繋がれているのだ。
伯爵という称号もカミュという名も。
それが誇りだと彼は言ったけれど私にはそれが重いしがらみでしか無いように見えた。
だから私は名を付けることを拒んだ。
そしてこう言ったのだ。
貴方の意思で戻ってきてほしい、と。
理由がなくても戻ってきてほしかった。
本当に愛しているというのなら。
ただ一つ、彼を縛り付けない存在になりたかったのだ、私は。
翌朝見送ったのはいつもと同じ真っ直ぐに伸びた背中と小さなキャリーバックだった。



カップにコーヒーを注いで角砂糖を一つ。
液体を吸った塊は茶色く色づきカップの底へ沈んでいく。
きっと底にたどり着くころにはその姿は無いのだろう。
別段観察していても面白いものではないのですぐにスプーンでかき混ぜた。
ミルクは、まあいいか取りに行くのも面倒だ。
何気なく付けたテレビでは彼もこの国にいたならば参加したであろうトーク番組。
だってほら、寿さんも黒崎君も美風君も出てる。
彼は休業ってことになっているみたいで今じゃもう話題に上がらなくなった。
待っているのは彼らも同じ、なのだろうか。
寿さんからはたまにメールが来て近況を話したりしてはいるけれどやっぱり私たちの話題にも彼の名は上がらない。
待っても無駄なのだろうか。
故郷に戻った恋人を同居していた恋人の家で待ってもうすぐ3年になると言うと友人は苦笑していた。
新しい恋をした方がいい、とも言われた。
新居を探しに不動産屋に行ったこともあったけれど人が住まないと家の中は埃がたまるしなあなんて言い訳ばかり思いついてしまって結局ここに住み着いたままだったりする。
帰ってくるんじゃないかって言う1パーセントにも満たない希望はとっくの昔に薄れたはずなのに。
彼の故郷はブリザードが吹き荒れているとかなんとか。
そりゃ電波なんて届かないわね。
結局現代の便利な通信手段も何の役にも立たない。
こんな恋しなきゃよかったなんて言えるような安い恋でもなくて。
むしろ私の人生で一番の恋愛だと思う。
簡単に諦められるなら諦めたいレベル。
いつの間にか暖かな夕日が窓から差し込んでテレビでは何時ぞやに放送されたドラマの再放送が流れている。
コーヒーを飲んだはずなのに重たくなってくる瞼はもはや持ち上げることは不可能に近い。
持ち帰った仕事は午前に終わらせたし夕飯なら何かあとで作ればいいだろうしなんてまた沢山言い訳を並べてソファーに転がった。
寝心地は悪くない。うんいい感じ。
私待つわいつまでもだから絶対帰ってきてなんて台詞がテレビから聞こえてくる。
私もそうやって彼にすがればよかったのだろうか。
年上だから、お姉さんだからっていってらっしゃいって余裕あるふりして手なんて振らなきゃよかったのだろうか。
そうしたら帰ってきてくれたのねぇカミュ。
会いたくて震える時期はもうとっくの昔に過ぎてしまったよ?
寂しさのバロメーターはとっくに振り切ってる。
こんなナーバスな気持ちになるのは生理前だからかななんて思いながら私は夢に落ちた。

夢から這い上がってきた私を覚醒させたのは部屋の明かり。
電気つけたっけと数時間前に記憶を遡る。
夕方だったしなあカーテン開けっ放しじゃなかったっけ?
とりあえず欠伸をして両腕をばんざいさせて伸ばす。
んー晩御飯は何にしよう。
カップラーメンあったっけパスタもあるかなごはん炊いてないな。
再び出た欠伸は噛み殺す。
二回目ってなんか顎外れそうだわと思う私は背後に気配を感じて固まった。
「おい」
これ振り返ったらまずいやつかしらもしかして強盗?お化けって可能性もってか幻聴かしら疲れすぎってやつかも。
なんて冷や汗だらだらの私の名を呼んだのは後ろから降ってくる声。
幻聴じゃないよねと振り返った。
「戻ってきたぞ」
肩で揺れるブロンドも私を見つめるアイスブルーもなんだかじんわりぼやけていく。
欠伸の所為じゃあないね、これは。
「おかえり」
私は年上のお姉さんだからいつもみたく余裕のある微笑みを浮かべるの。
でも背もたれ越しに抱きしめられれば雫はあとからあとから滴った。
いい子いい子してくれるのは年下のカミュで。
私が誰よりも愛してやまないカミュだった。

「結婚しよう。」

どうして今言うのかなあ。
私、YES以外の答えを考えられないじゃない。
ぐしゃぐしゃになった顔をカミュのスーツに埋めたまま私はただただ頷いた。



アトガキという名のいいわけ

無駄に長くなってしまいました。
今回は趣向を変えて会話少な目に。



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