「――こ、っこんばん、は……」
暗がりの中から煌々と光を放つあの眼が、言葉もなく、ただナマエを捉える。 その威圧感と耳につき刺さるような沈黙に耐え兼ね、漸く発した言葉は上擦って震えていた。 掴んでいたカーテンを無意識の内に握りしめ、僅かに震えながらもじっとインゴの言葉を待つナマエを探るように眼光を絞り、インゴがゆっくりと口を開く。
「……一人で、来たのですか」 「っえ、?あ、はいっ」 「………あの男は?」 「ぉ、オーナーですか……?だったら、あの、明日の公演の準備があるから、って、」
何とも言えない、不思議な感覚だった。 インゴと出会って、酷いことをされて、まだ一日も経っていない。 彼に植え付けられた心の傷も、刻みつけられた身体の傷も、いまだ癒えていない。 それなのに、そんな相手と、こうして普通に会話をしていることが信じられない。
恐怖と緊張が入り混じった心臓がバクバクと騒ぐのを全身に感じながらインゴの返事を待てば、暗闇から返ってきたのは低く喉を鳴らす笑い声だった。
「これはまた、とんだ愚か者がいたものですね」 「な、ッ……!!」
バカにされたのだと思った瞬間、思わず彼のいる檻の鉄格子の一つを掴んで身を乗り出したナマエに、インゴは尚更愉快そうに目を細める。 月明かりに慣れてきた目には、彼が広い檻の一番奥にある大きな寝台に腰掛け、軽く肩を竦めているシルエットが見て取れた。
「あんな目に会って、逃げ出そうとは思わなかったのですか。今こそ千載一遇のチャンスでしょうに」 「そっ、れは……!わ、私だってそう思いました…けど……っ」 「『けど』?」
存分にからかいを含んだ声色で、インゴは促すようにナマエの言葉尻を繰り返す。
事実、目が覚めたナマエは自分の身に起こったことを理解した直後、ここから――インゴから、逃げ出そうと思った。 けれどそれができなかったのは、あの時エメットが現れたからだけではない。 それだけが理由だったなら、エメットの監視もないのに、のこのこと再びこの檻を訪れることはなかっただろう。
では、何が自分をこの場に押し留めたのか。 何が、自分をもう一度インゴへ向かわせたのか。
胸の霧の深くに見え隠れするその答えを、ナマエは未だに掴めなかった。
(……わからない、私は――だけど、)
「ッ――に、げるにしてもっ……あなたを、一発殴らない、と、気がすみません……!!」
明確な答えを見いだせないまま、インゴの視線に追い詰められたナマエが咄嗟に口走ったその言葉は、夜の冷たい空気をキンッと震わせた。
「――……ハッ!」
一瞬の静寂の後、今度はインゴの笑い声がそれを崩す。 ただし、聞いていて気分のいいものではない。 笑い者にされているのがわかり、ナマエの頬が悔しさと羞恥に染まる。
可笑しそうに肩を上下させ、一頻りナマエを嘲笑ったインゴが息を落ち着けると、彼の二つの眼はナマエを捉えたまま弓形に細められた。
「……でしたら、そんな所に突っ立っていないで、“コチラ”に来たらどうです?」 「ッ!!」 「――ワタクシは、わざわざ殴られに行ってやる趣味はありませんよ」
ナマエがこの檻の鍵を持っていることを見透かした言葉だった。 エメットに託されたそれを手の中に握りしめ、小さく喉を鳴らす。
相変わらず身体は震えてしまっていた。 ――けれど、自分でも不思議なほど、迷いはなかった。
「そこでは届かないでしょう」
鍵を開け、檻の中に一歩足を踏み入れたところで動けなくなったナマエに、インゴは愉しそうにそう声をかけた。 思わずビクリと肩を跳ねさせ、それでもナマエは微かに残った自尊心と負けん気からどうにか脚を動かし、一歩、一歩と暗闇の集まる場所へ――インゴのもとへ近づく。
しかし、あと一歩で彼に手が届くというところで、やはり恐怖心がナマエの足を止めてしまう。 それを予期していたかのように、インゴはまた可笑しそうに笑った。
「ワタクシを殴りに来たのでは?」 「……っ」 「――……ああ、それとも、」
手首を強く掴まれた。 そう思った次の瞬間には、背中がやわらかな布の海に沈む。
何が起こったのかわからず、ただ息を飲んで目の前を凝視したナマエの視界の中で、インゴがニヤリと口角を吊り上げる。
「そんなものは口実で、本当はワタクシに喰べられに来た、と?」
ナマエの両手を寝台に押しつけて抵抗を封じ込め、記憶と恐怖を掘り返すように、インゴのざらつくあの舌がナマエの鎖骨から顎の先まで這い上がる。 同時に背中を駆け抜けた電流のような刺激に腰を跳ねさせ、ナマエはインゴから逃れるために身を捩って懸命にもがいた。
「ち、がっ……!違いますっ私……!私、あなたと話を……!」 「――“話”?」
インゴの声が不機嫌に低くなる。 それでも、ナマエはインゴの動きの止まったその機会を逃すまいと彼に向かい直り、必死に言葉を繋げた。
「こっ、こんなこと、して、何になるんですか……っ!あなたは、それで……!」 「――まぁ、少なくとも暇つぶしにはなりますが」 「『暇つぶし』!?」
こともなげに、さらりと告げられたあんまりな答えにナマエが目を丸くして聞き返す。 そうすると、インゴは少し機嫌を直して笑みを浮かべ、からかうようにナマエの頬を舐め上げた。 不意を突かれたナマエから小さな悲鳴が上がれば、インゴの眼に浮かぶ危険な光が増していく。 その光に射抜かれた心臓がゾクリと縮まり、このまま流されてはいけないと、ナマエは恐怖心を押し込めて彼を睨みつけた。
「そん、なの……不毛、です……!そんなこと、してっ、こんなところに閉じ込められた、ままでっ……っそれで、良いんですか……!!」
内心の怯えを悟られまいと声を張り上げたナマエを、インゴはただ、無感情に見つめ返していた。 鼓膜に直接響くような心音を感じながら、唇を硬く噤み、彼の返答をじっと待つ。 いくらかの沈黙の後、返されたのは、ナマエの胸を引き裂くように冷たい、さめた微笑だった。
「――お前は、何か勘違いをしているようですが」
そう前置いて、瞬き一つ。
「……あの男に、どのような嘘を吹き込まれたのかは知りません。ですが、ワタクシはここに閉じ込められていると思ったことなど一度もありませんよ」
ナマエの手首を掴んだままのインゴの掌に、じわりと力が込められた。
「っ、ぃ……!!」
既に痣になっていたその部分がじくりと痛み、締め付けられた骨が軋む音が聞こえ、ナマエの顔が蒼褪める。 その様子を満足げに眺めながらインゴは続けた。
「ワタクシのこの力にかかれば、お前のこの腕も、あの鉄格子も同じこと。壊してしまうことなど造作ない。――けれどこの中に居れば、一切の煩わしいモノがワタクシに近づくことはない」 「ッ!!そ、れじゃ…あなた、は……っ」 「――えぇ。そうです」
「この檻は言わば、ワタクシの“城壁”」
暗がりに慣れた目に、インゴの皮肉げな微笑みが浮かび上がる。
その瞬間、言葉にならない寂しい感情の波が、ナマエの胸を浚った。
(――この人、は……)
まるで、ひとりぼっちの王様だ。 彼が『城壁』と呼んだこんな冷たい檻の中で、いつもたった一人で。
それは確かに、彼の身を守っているのかもしれない。 外の世界に出れば、目に見えない無数の槍が、彼の身を貫くのかもしれない。 それならば、誰の手も、声も届かないこの場所にいた方が、賢い選択なのかもしれない。
それでも
「っそれ、は……あなたの、“幸せ”ですか………?」
暗い檻の中で、ひとりぼっちでいる彼の姿を思い描いた時、ナマエは無性に泣きたくなったのだ。
「――また、随分と生意気な口を利きますね」 「……ッ」
腕を拘束していたインゴの片手が離れ、ナマエの顎を捕えて引き上げる。 そうされると反射的に怯えた肩が飛び跳ねてしまい、目を閉じて震えだしたナマエに、インゴは狂気的な、歪んだ笑みを浮かべた。
「ワタクシに同情しているのなら――ああ、どうか、優しいそのお心で救ってくださいませ」
「――この憐れな獣を、慰めてくださいまし」
(13.01.27)
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