世の中は理不尽に溢れている。 そう悟ったのは入社して割とすぐのことだった。 新人らしく普通にまじめに仕事して、自分なりにがんばって円満な人間関係を作ろうと、何を言われてもできるだけ笑顔で頷いて、愛想よくしてただけのつもりなのに、なぜだか上司に目をつけられた。 下っ端とは言え一応バトル担当なハズなのに、やれコーヒー淹れろだの、暇なら肩でも揉めだの、膝枕のひとつでもしろだの。とにかくパワハラがすごい。 しかも淹れたコーヒーには文句つけるし、肩揉みも下手くそって言われるし、膝枕した時なんか徐にお腹に抱きついてきた挙句フッて鼻で笑われた。さすがに殴ってやろうかと思った。 それでも、気のいい先輩方に支えられてこれまでどうにかやってきた。 ――だけどさすがに、今回の一件は本気で腹立たしい。 「ナマエ、手が止まっておりますが?」 「ッ……ちょっと黙っててもらえますか」 理不尽。理不尽だ。 背後から私を監視する嫌味ったらしいボスの声に応える声も自然と刺々しくなる。 今回に限っては、苛立ちの大元がこの傲慢陰険ボスにあるわけじゃない。だけど、イライラする。 なんで。どうして私が。 そんな気持ちばかりが煮えくり返る腹の内に浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。 だってそもそも悪いのは私じゃないのに。 苛立ちを殺し切れず、やり場のない気持ちのまま頬杖突いた手で垂れてきた前髪をグシャッと握り潰す。 そうすると、また背後でボスがわざとらしいため息をつくのが聞こえた。 「お前は、欠片も反省していないようですね」 「〜〜〜っ、だって!」 やれやれと言わんばかりの呆れた様子に、さすがの私もカッとなる。 「痴漢捕まえただけですよ!なんでそれで始末書書かなきゃいけないんですか!!」 「その捕まえ方に問題があるからに決まっているでしょうが」 「うぐっ……!」 た、確かに、多少――いや、やや行き過ぎた感はあった……かも、しれない。 でもあのギトギトのエロ親父!バッチリ現行犯で確保してやったっていうのに往生際悪くやってないなんて言い逃れしようとした挙句、「誰がこんな貧乳に痴漢なんかするかこの自意識過剰のドブス!」なんて言われたらそりゃ股間蹴り上げてやりたくもなるでしょうが!(思い出しただけでムカつく……!!) 「……ボスに、私の気持ちなんてわかんないですよ」 「ええそうでしょうね。ワタクシ、お前のようなおバカではございませんので」 「………」 聞こえない。もう聞こえないふりをしよう。こんな言い合いしても無駄に時間を浪費してしまうだけだ。 さっさと形だけでも始末書を完成させて、今日は家で自棄酒でもしよう。明日休みだし。 ――それに、やっぱり理不尽だとは思うけど、私に全然非がないわけじゃないんだから。 (『会社の一部』である自覚、か……) 公衆の面前であんなことをしたら、地下鉄を利用してくれているお客様の信用を失いかねない。 それは素直に、本当に反省しなければいけないことだった。 (……えっと、『今後は、二度とこのようなことが起こらないよう、自らの言動に細心の注意を払い――』) 始末書なんて書いたことないから殆どテンプレ通りだけど、要約すると『私が悪うございました。もう二度としません。心から反省しています。お許しください』という具合だ。 書き終えて、数回読み直して誤字脱字をチェックした後、署名と捺印。 小さく息をついてこんなもんかなと肩を落とすと、後ろから伸びてきた手がひょいとそれを奪っていった(あ、忘れてたボス) 「フム。『私は――』」 椅子を回して振り向いて後ろを見れば、ボスがシゲシゲと私の始末書を見ながら声に出してそれを読み上げる。なかなかの羞恥プレイ。 それでもこれでやっと帰れると気を抜いて、ぼんやりそれを聞いていた私は次の瞬間耳を疑った。 「――やり直し」 ビリッ! 「ッッ?!!なっ、」 なにしやがるこの人!! しかし私の声にならない叫びを無視して、ボスの手にある始末書はビリビリに裂かれてただの小さな紙切れになっていく。 最悪だ。この鬼畜上司。 私のこの数時間を何の躊躇もなく無に帰してくださりやがった。 「〜〜〜ッ何するんですかボス!!!」 「お前が的外れなことを書くからです。全く。こんなことだろうと思ってワタクシが事前にお前の筆跡を真似て書いておいてやりましたので、お前はここに判子だけ押しなさい」 「すごいボス!私のこの数時間が一瞬で無駄に!」 色々釈然としないけど用意してあるなら初めからそれ出してくださいよ! 差し出された書類を受け取って、捺印する前にとりあえず目を通す。と言うかほんとに私の筆跡そっくりだ。なんなのこの人マジ恐い。 「えっと、『私は、サブウェイボスインゴの所有物であるにも関わらず、無断で囮捜査員となり不届きな痴漢に無防備なその身体を晒し、』……ってなんですかこれ!!」 ツッコミどころが多すぎる!! まず冒頭からして既におかしいじゃないですか何ですか『所有物』って! 「始末書に決まっているでしょう」 「いやいやいや!何に対しての謝罪なんですかこれは!」 「お前は自覚が足りないのです」 「――自分が、誰の『もの』であるかという自覚が」 トン、とボスが私を挟んでデスクに両手をつく。 あ、マズい。 逃げられない――近、い。 ゆっくりと目を細めたボスの視線に絡め取られて、息を呑んだ私が座っている椅子がキシッと小さく音を立てた。 背を屈めたボスの顔が、いたぶる様にじわじわ近づいてきて、鼓動が早くなっていく。 ダメだ。見た目に騙されるな。 この上司は、見た目だけなら物凄い男前ではあるけれど、内面を加味すればプラマイゼロどころかマイナスだ。 とんでもないサディストで、まさしく黒い悪魔。ボスがもっとも輝くのは誰かを――主に私を虐げている時だ。例えば、今みたいに。 「やってくれましたね、ナマエ。ワタクシの留守を狙って無断で囮捜査員とは」 「ッ……べ、別にそういうわけじゃ、」 「嘘はよしなさい。それとも、『お仕置き』をご所望ですか?」 するり。 ボスの片手が太股に落ちて、そのままじりじり上へ昇るものだから、反射的に身体が跳ねた。 ああ、もう、最悪。全部バレてる。 わざわざボスの出張狙ってやったのはこうなるのを回避するためだったのに、飛行機飛ばなくてボスが帰ってくるなんて本気で運が悪すぎる。私カワイソウ。 「……悪いこと、してないです。そりゃ、金的はやり過ぎたかもですけど、でもほんとに、最近女の子達からの被害届多くて、」 「だからと言って、なぜお前が囮になる必要がありますか」 ボスの目が眇められて、ちょっと――いや、かなり恐い。 地雷を踏んでしまったのか、さっきまでそれはもう愉しそうだったボスの顔が不機嫌そうに歪められた。 太股に触れる手がタイトスカートの中に入り込んで、ヤバイと思ったのと同時に、曲げられた指の爪が柔らかい内股にギリッと突きたてられた。手袋越しだけど、痛い。そして更に、ボスの顔が近づいてもう気が気じゃない。 「素直に答えなさい。どこを、どんな風に触られたのです」 「っ、そ…!そんなの聞いて、どうするんです、か」 飲まれるな、この空気に。 必死に自分に言い聞かせるけど、ダメだ。声が、震える。 だってもう、ボスの吐息が唇にかかって――下手に動けば、キスして、しまう。 ふわりと香ったボスの香りに嘘みたいにクラクラする。身動きの取れないまま、それでも目を閉じてしまうのはなんだか負けた気がして、じっと目をそらさずにボスを睨み返すと、ボスが短く笑った(あ、うそ今ちょっと、カッコよかっ、) 「じっくりと反省して頂きます。その身体を、ワタクシ以外に触らせた罪を」 歪んだ弧を描いた唇に呼吸を奪われる。 また一段と強く香ったボスの香水の匂いに、易々と割られた唇へ潜り込んできた濡れた舌の熱に、スカートを捲り上げながら太股の更に奥へにじり寄る掌の感触に、痴漢男に触られた時とは全く違う感覚と感情が沸き上がる。 認めたくないから、絶対に言わない。言ってなんてやらない。 ――だけど、本当は、 「やはり、ワタクシでないと嫌でしょう?」 「――ッッ!!!ち、が…ッ!!」 違う!断じて、断じて違う!!そんなこと、お、お、思ってない!!絶対! そう訴えるのに、ボスは私の身体をまさぐる手を休めないまま小さく肩を揺らして愉しそうに笑った。 それがまたえらく様になるんだからイケメンという生き物はズルいんだ。全くもって世の中は理不尽で、おまけに不公平に溢れているのだと実感する瞬間。 くそぅ。私は、私は絶対、騙されないぞ……! 「……全くお前は、片時も目の離せない、可愛い玩具ですよ」 「!!!」 キュンとして、なんか――ないんですからね! (12.01.20)
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