「え、ノボリさんもう出掛けちゃったんですか?」 「うん。今日はちょっと用事があるみたい」
朝、ノボリさんでなくクダリさんに起こされた俺は、用意されていたトーストをかじりながらなんとも言い表しづらい胸のモヤモヤを感じていた。
なんだよ。あの恒例の『行ってきますのキス』、なくてもいいんじゃんか――い、いや誤解しないでほしいんだけど別に俺は期待してたわけでもがっかりしたわけでもない!それより昨日はクダリさんの部屋で寝たはずなのに起きたらなぜかノボリさんの部屋だし!!どういうことなのか聞こうと思ったのに!
「そう言えば昨日さ、ナマエったらお風呂あがったらもう部屋にいなかったんだけど、やっぱりノボリが恋しくなっちゃった?」 「!??なんっ…!え、は…!?」 「あは!ナマエ真っ赤!寝ぼけてノボリのとこ帰っちゃったんだ」 「〜〜〜っちが、そんなわけ……!!」
バカな。そんな。だって俺、夢遊病なんて今まで一度も……!――い、や……でもなんか、言われてみれば夜中にノボリさんを見た、ような……?えっ?でもまさか……嘘だろ!?
「ノボリのこと、結構まんざらでもなかったりして」 「――ッ……クダリさん!!」 「そうやってすぐムキになるの、『そうです』って言ってるのと同じに見えるね」 「……!!!」
頬杖をついたクダリさんがニヤニヤと目を細めて笑う。 クダリさんの、そういうところは未だに苦手だ。時々底知れない、って言うか。何もかも見透かされてそうな、そんな気がしてなんか、落ちつかない。
何も言えなくなって口をつぐみ、だけど悔しくてクダリさんを睨んだまま乱暴に目玉焼きへフォークを突き立てれば、クダリさんはまた楽しそうにニッコリ笑って優雅にカップを傾けた。
* * *
「えー……しゅ、しゅぞ…『種族値』に、『個体値』…それから『努力値』……?」
朝食の後片付けも掃除も洗濯も終わって、適当に昼ごはんを食べたらいつもの勉強時間。 だけど今日のテキストは今までのと一味違う。 クダリさんが貸してくれた、ポケモンの育成に関する本だ。 トレーナーになるならないはともかく、ポケモンのことを知っておくのはいい事だからと、出社前のクダリさんがリビングのテーブルに立派な本の山を築いていった。 その中から比較的簡単そうな――薄くて字が大きめのを選んだつもりなんだけど、さっそく頭がこんがらがりそうだ。
「ポケモンってこんなに複雑だったのか……」 「バチュ!」
ため息まじりの俺の言葉に、頭の上に乗っかったバチュルが『当たり前だ!』と言わんばかりに一声上げる。 でもまぁ……考えてみればそうだよなぁ。 あっちの世界でポケモンをやってた時は、あくまで“ゲームに出てくるモンスター”としての――言うなればデータとしての認識してなかったから、種類が同じならどれも大差ないなんて、漠然とそんなことを思ってたけど。
(こいつらにもそれぞれ、“命”があって、)
だから、性格や個性だってあるし、育ち方次第で未来も変わっていく。 俺と――人間と、変わらないんだ。
「バチュ!バチュ!!」 「……ん?ああ。で、これがお前のステータスなんだな?」 「バチュ!」
頭からピョイと飛び降りてテーブルに着地したバチュルが小さな前脚でテシテシと叩いたのはクダリさんが書き置いてくれたメモだった。 え、と……なになに?
「バチュル、レベル1。オス。特性は『ふくがん』。『おくびょう』な性格。覚えてる技は『いとをは」 「バチューッ!」 「っうおあ!?っ〜〜〜わ、わかった!わかったから今はストップ!」 「バチュ!!」
初めて技をお披露目して満足気なのは良いけど、出された俺の腕はなんか白い糸まみれで大変だ。……おぉ、すげぇこれなんかめっちゃ伸びる。 腕に絡まったそれを引きちぎって取りあえずゴミ箱に入れつつ残りの技にも目を通してみた。 『いとをはく』に『クモのす』、『きゅうけつ』、『クロスポイズン』……食らったのが『クロスポイズン』じゃなくて良かったと心の底からそう思った。や、『きゅうけつ』も嫌だけど。
「それから個体値が――『6V』…?」 「バッチュバチュ!!」 「……なんかわからないけど、きっとすごい事なんだよな?」
誇らしげに胸を張った(ような仕草をする)バチュルを見る限り、きっとそうなんだろう。 まず『個体値』というものをきちんと理解してないから、どれだけすごいのかはちゃんと理解できてないけど。
「………これは結構、難しい」
とにかく覚えることが多すぎる。ノートかなんかにメモとってまとめないと覚えきれないな。 そもそもポケモンの種類だって俺が知ってるのは初代の151匹までだ。その記憶だって結構曖昧になってるのに、クダリさんが言うには今はもう600以上の種類が確認されているらしい。 それを考えれば、俺がポケモンに関して知ってることなんて、ほとんど無いに等しいんだろう。 本当に、知らないことだらけだ。
(――だけど……でも、)
それってすっごく、ワクワクする。
「あー……やっぱり、俺」
「『旅に出たい』、ですか?」
「――ッ!!?」
目を閉じてソファの背もたれに寄り掛かった時、いきなり頭上で聞こえた声に悲鳴を飲み込んだ。 バチッと、反射的に開いた目が、ノボリさんのそれとかち合う。 一体いつの間に帰ってきていたのか、俺の心を的確に言い当てたノボリさんはいつも以上に読めない無表情で声を無くした俺をじっと眺めていた。
「ッ……おっ、かえり、なさい…早かったんです、ね」 「………少々私用がございまして、午後から半休を使わせて頂きました」 「そ、なんですか……」 「ええ」 「………」 「………」
なんだ、これ。 物凄く空気が重い、ような。
息の詰まりそうな雰囲気をひしひし感じながら、凭れかかっていた姿勢をぎこちなく戻して、ソファに座りなおす。 心なしかバチュルも居心地が悪そうだ。 や、昨日のことを、早くちゃんと謝らないといけないっていうのはわかってるんだけど……
「――ナマエ様」 「っは、い!」
急に名前を呼ばれてまたしても肩が飛び跳ねた。 そんな俺に、ノボリさんはやっぱり読めない表情で、徐に鞄から取り出したものをテーブルの上に置く。 それは、見覚えのない真っ黒なライブキャスター、で……?
「こちらはナマエ様専用のものですので、外出の際は常に身に着けてくださいまし」 「………へ?」 「トレーナーカードは写真が必要になりますので、後日手続きをしましょう。わたくしとクダリが身内の方の代わりに保証人になれば、ナマエ様でも発行できるはずです」 「あ…え?ま…っ、ノボリさ……!」 「――ポケモンの件でしたら、ご心配なく。そのライブキャスターには発信機がついておりますので、万が一ナマエ様と連絡が取れなくなった場合は、わたくしかクダリ、どちらかが速やかにその場へ向かい、モンスターボールを回収いたします。その後のことは、どうかお任せください」
「ッッ――ノボリさん!!」
淡々と話すノボリさんの言葉に頭が追いつかない。 ただ、心臓は壊れそうなほど早鐘を打っていた。
だって、だってノボリさん、今――『外出の際は』って……!
それって、つまり。
「外に、出て…いいの……?」
「――旅に出ることは、許可できません。しかし、日中わたくし達が留守にしている間でしたら……日が沈むまでに帰って来れる距離であれば、お好きなように」 「!!!ッ、ぁ……!」
「ありがとうっ、ノボリさん!!」
嬉しくて。ほんとに、単純に嬉しくて。 ――ああ、どうしよう俺。クダリさんの癖、うつっちゃったのかな。 勢い余ってノボリさんに抱きついてしまったのは、考えるより先に身体が動いてしまっただけで、別に深い意味なんてなかった。
だけど、一呼吸置いたノボリさんの腕が背中に回って、掬い上げるように抱きしめられて踵が浮いた瞬間、胸の鼓動が、一層激しくなった気が、する。
「ッ…き、昨日は態度悪くて、ごめんなさい!それであのっ俺もあれから色々、考えて、トレーナーになることはその……っまだ、ちゃんと決めてないけど、だけど!やっぱり外に出なきゃ始まらないからっ、だから……!」 「――ええ。わかっております。わたくしこそ、自分の我儘でナマエ様に窮屈な思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした」
治まらない心臓の音を誤魔化すようにとにかく言葉を繋げる俺に、ノボリさんは落ち着いた声でそう言って、それからふっと抱きしめる力が緩くなる。 見上げた顔は微笑っていたけど――でも、どこか苦しげで、苦々しい。 ――見ているこっちまで、伝染してしまいそうな、ほどに。
「……ですがナマエ様、約束してくださいまし。決して危険なことはなさらないと」 「、うん」 「これからも変わらず、わたくしに『おかえり』を言ってくださると」 「…うん」 「……クダリとではなく、毎晩わたくしと一緒に寝てくださると」 「ふっ、は!――うん!約束する!」
つい噴きだしてしまって、笑いながら答えれば、ノボリさんからもやっと安心したような笑みがこぼれる。 その、緩く綺麗な弧を描いた唇はごく自然に俺の頬に落ちて、それからまた、僅かな熱だけを残してゆっくりと離れて行った。
「――さて。そうと決まればさっそく始めましょうか」 「 ぅ、え?なっ、なにをですか?(な、なんだ今のナチュラルな雰囲気!!)」 「特訓でございます。ポケモンバトルの基本、このサブウェイマスターノボリがみっちり叩きこんで差し上げますので、お覚悟くださいまし」 「!!?」
俺の肩をガッチリと掴んで穏やかに微笑んだノボリさんがスパルタコーチに豹変するのは、それから間もなくのことだった。
(12.08.09)
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