「あれ?ノボリまだ寝てなかったの?」
どうにも落ち着かないベッドを抜け出してグラスに水を注いだ時、丁度脱衣所から出てきたクダリがリビングを覗いて足を止めました。
「……喉が渇いたもので」 「………ふーん?」
目を弓形に細め、意味深長に笑みを深めたクダリが壁に背を預ける。 それを視界の端に認めながらグラスを傾けて喉を鳴らせば、冷たい水が喉を伝いじわりと浸透していく感覚。 ――しかしやはり、漠然とした“渇き”は肺の奥にこびり付いたまま満たされない。 その原因を、自身が何を求めているのかを、知っていながらしかしどうすることもできず、無駄だと知りつつも更に水を注ぎ足したわたくしに、クダリが小さくため息をつきました。
「ナマエがいなくて落ち着かないんでしょ?」 「……不埒なマネをしたら許しませんよ」 「やだな、寝てる子にそんなことしないよ。ノボリじゃないんだから」 「ッな゛…!!?ゲホッ!!」 「……え、なに。カマかけたつもりだったんけど、ノボリほんとに……?」
『うわぁ』と、まるでうじ虫でも見るかのような蔑んだ視線を寄越すクダリに咽ながら首を振る。 違います。断じて違います。今のはただ純粋に不意を突かれて驚いただけで、わたくしは眠っていらっしゃるナマエ様に不埒をはたらいたことなどただの一度も……………………っいえ、今はそういう話ではなくてですね!
「――離れてるのがそんなに不安ならさ、連れて帰っちゃいなよ。僕がお風呂入る前にはうとうとしてたから、きっともう寝ちゃってるよ」 「………ですが、」 「『寝ぼけたナマエがノボリのベッドに潜り込んできた』、これでオッケー!」
なんですかその夢のようなシチュエーションは。 と言うか、普段あれだけナマエ様を構い倒そうとするくせに、今回はやけにわたくしの肩を持ちますねこの子。 さては何か企んで……?
「……んと、多分違う。企んでるわけじゃなくて、」
わたくしの目つきで言いたいことを悟ったか、クダリがフルフルと首を振る。 その子供のような甘える目つきに、嫌な予感がいたしました。
「えへ!ノボリごめんね!僕、一個だけ謝らなきゃいけない」
………なんですって?
* * *
クダリの為か、僅かに灯りの残された部屋の中にナマエ様の小さな寝息が聴こえる。 起こしてしまわないように足音を忍ばせ、たどり着いたベッドの端に静かに腰を下ろして覗き込むと、すやすやと眠るあどけない寝顔。 ……わたくしはもう、隣にナマエ様がいなければ落ち着いて眠ることもできないと言うのに、少しだけ憎らしい。
「――……ッバチュ!?」
ナマエ様の頬に零れた横髪を指先で払った時、その枕元で丸くなって眠っていたバチュルが僅かな物音に目を覚まし、警戒するように鳴きました。
「大丈夫、わたくしです。驚かせてすみませんでした」 「……バチュ」 「お静かに、お願いします」
声を潜めてそう言い聞かせれば、侵入者がわたくしであると納得したバチュルはまだ夢の中のナマエ様を確認し、小さく頷く仕草をする。 ――さすがクダリが厳選したバチュル。生まれて間もなくナマエ様の傍に置きましたので実戦経験はまだありませんが、主人を守ろうとする心意気は長年連れ添ったわたくしたちのパートナーのそれと比べてもなんら遜色はないようです。 成程この子になら、ナマエ様を任せられる。
……ですが、
「やはり、初めてのポケモンは、わたくしが差し上げたかったですね」
『勝手なことを言う』と、きっとナマエ様が起きていたならそう思ったでしょう。 そもそもわたくしはクダリと違い、ナマエ様にポケモンを持たせようともしなかったのですから。 それでもやはり、悔しいものは悔しい。
あなたの喜ぶ顔を、向けられるのはわたくしでありたかった。
「……っん、」 「!」
ゆっくりと頬を包み込んだ時、不意にナマエ様の瞼が震え、思わず息を飲む。 普段ナマエ様は眠りが深い方ですので、一度眠ってしまえば滅多なことでは朝まで目を覚ますことはない。そう完全に油断していたわたくしは触れていた手を引っ込め、咄嗟に片割れの笑みを貼りつけておりました。
「ごめんねナマエ、起こしちゃった?」
パチリと開かれた瞳が、ぼんやりと眠たげにわたくしを捉える。
「………」
無言のまま、とろりと落ちてくる瞼に二、三度抗った末、ナマエ様は諦めたようにまた目を閉じて、布団の中で身をよじる。呆れたようにこちらを見るバチュルの視線が少々痛かったのは余談ですが、再び眠ってしまわれたのかと思ったその時――僅かに掠れた声が、独り言のように呟くのが聞こえてしまいました。
『ノボリさんかと思った』、と。
どこか寂しそうな、そんな、声で。
「――ッ、ナマエ、さ」 「ん……ぅ」
すぅ、と再びあのあどけない顔で、穏やかな寝息を零す。 本当に狡い人ですね、あなたは。
「……ね、ナマエ様?」
けれど、少しだけ ほんの少しだけ、自惚れてもよろしいでしょうか?
わたくしとクダリしかいないと言っても過言ではない、あなたのこの限られた世界で、そこにどれだけの価値があるのかなどわからない。それでも、
今のあなたが求めているのは、わたくしなのだと
「――そう、思っても良いですか?」
籠の鳥を、空に離して わたくしのもとに帰ってくる保証など、どこにもない。 無限に広がるその広さを、美しさを、わたくし自身も知っているから。 知ってほしい反面、恐ろしくもある。
それでも、賭けてみたくなったのです。 欲が出たのです。
「わたくしを、選んでくださいまし」
拡がり続ける世界の中で、わたくしを。 他の何よりも、誰よりも、わたくしを。
そしていつか――かの世界よりも、と。
「……あなたも、おいでなさい」 「バチュッ」
そうっと抱え上げたナマエ様を落としてしまわないようしっかりと抱き寄せ、バチュルがその肩に乗ったのを確認してから踵を返す。 わたくしの胸にこてりと頭を預けるその寝顔に、泣きたくなるような愛おしさが込み上げて、気づけば苦く笑っておりました。
「――“ここ”に、いてくださいまし」
ずっと、わたくしの腕の中に。 元の世界になど帰らないで。 あなたがわたくしを選んでくださるのなら、わたくしは絶対に、あなたを離したりなどしない。
返したりなど、しないから。
( だから、どうか )
(12.07.22)
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