あの騒動から数日が経った現在、事態は思いもしなかった方向へ進んでいた。
「ノボリさん、お風呂空いたみたいなんでどうぞ」 「いえ、わたくしは後でかまいませんので、ナマエ様がお先に」 「や、いいですって。明日もお仕事なんですから、ノボリさん早めに入っといた方が、」 「――ではナマエ様」
「ご一緒に、いかがですか?」
「………は!!?」
そう。例えばそんな風に、あからさまに。 ソファに座ってぼんやりしていれば、当然のように膝の上に抱え上げられ、何をどう言えば良いのか言葉に詰まる俺に気づいていながら素知らぬ顔をする。 背中を向けて寝たはずなのに、ふと夜中に目が覚めてみれば正面から抱きしめられている。 あげく昨日なんか、両手いっぱいの花束を抱えて帰ってきた。 曰く、『ナマエ様に似合うと思いまして』。
そして今朝はこれだ。
「行ってらっしゃい、ノボリさん」 「はい。行ってまいります」
玄関先で見送る俺に、ノボリさんはにっこり笑って、それから背を屈める。
(――ほら来た)
ぎゅっと目を閉じて身を固くしている内に、頬に柔らかいものが押しつけられて、離れていく。 未だコレに慣れない心臓がせわしなく弾むのを感じながらそうっと瞼を押し上げれば、また満足そうに微笑むノボリさんが妙に熱っぽい目でこっちを見下ろしていて、居心地の悪さに眉を顰めながら、俺は毎日、どうにかその背中を送り出す。
(何て言うか……じわじわノボリさんのペースに飲まれてる、ような)
俺が、拒めないのを知っていてやっているんだと、思う。 だって、『やめてください』なんて言ったならそれは、ノボリさんの思惑に気づいてるって言ってしまうのと同じだ。
ノボリさんの気持ちに、“気づかない”ことを決めた以上、俺はノボリさんの行動を、単なる好意として受け入れなければならない。それ以上の何かがあることに気づく素振りをすれば、拒んでしまえば、逃げ場を失う。 向き合わなければいけなくなってしまう。
きっと、ノボリさんの目的はそれなんだろう。 ――だけど俺は、
「……あ、」
ぐだぐだ考えているうちに洗濯機が鳴っていた。 ノボリさんとクダリさんのシャツは皺になる前に早く干さないと。 洗い終わった物を移した洗濯籠を抱え、ベランダに出るためにリビングを横切る。 と、今日は遅番で、ソファにゆったり寝そべってテレビのリモコンをいじっていたクダリさんが俺の姿を見て意地悪く笑った。
「ナマエ、そうしてると新婚さんみたい」 「……バカなこと言わないでください」 「元の世界に帰れなかったらさ、ノボリと結婚しちゃいなよ」 「………そんなに怒られたいですか」 「ナマエが“お義姉さん”なら大歓迎!あれ、でも僕の方が年上だから僕が“お義兄さん”?」
それもいいね!なんて言ってニコニコ笑う。 そんなクダリさんからため息をついて目を逸らした。
(全く、どこまで本気なんだか……)
俺が、元の世界に帰ることを諦めていないのを知ってるくせに。 そういう意味でノボリさんを好きにはならないって知ってるくせに。
(……それに俺は)
あの人の――シキミさんの、ことが、
『さぁ、本日はスペシャルなゲストをお迎えしてます!!なんと、イッシュの誇る四天王!!シキミさんでーす!!』
「、っぅえ!??」
今まさに考えていたその人の名前が突然テレビから聞こえてきて、危うく洗濯籠をひっくり返しそうになった。 肩に乗っていた寝ぼけたバチュルが俺の大声に何事かと一鳴きしていつも以上にプルプル震えている、けど、あいにくそれどころじゃない。 釘付けになったテレビ画面の向こうに現れたのは、まさしく俺の思い描いていたシキミさんその人だった。
『みなさんおはようございまーす!今日はお招きくださってありがとうございますっ!』
あの笑顔だ。 あの声だ。 ――あの人だ。
心臓が跳ねて、その度に頭の中が、シキミさんでいっぱいになる。
ふらふらとテレビに近づいて、洗濯籠を抱えたままその場に座り込みながら画面を覗き込んだ。 まさか、こんな形でもう一度彼女を見ることができるとは思わなかった。 だけど、嬉しい。
どうしよう。嬉しい。
「なにナマエ、シキミちゃんのファンなの?」 「……へ?えっ、いやあの…っ」
夢中になり過ぎて、話しかけてきたクダリさんに反応するのが遅れた。 慌ててソファを振り返る俺と視線がかち合った瞬間、僅かに見開かれたクダリさんの目が、思案するように細められる。 『しまった』と、反射的に思った。
「――会ったこと、あるの?」 「っあ、の……それは、」 「……こないだ、ナマエが一人で外に出た時だよね?」 「えっ、と…っ」 「それで、好きになっちゃったんだ?」 「ッッ!!?」
どんだけ鋭いんだこの人!! 内心で悲鳴を上げながら、自分の顔が沸騰しそうなほど熱くなるのと同時に噴きだした冷や汗が背中を伝っていくのを感じた。 混乱で、ただパクパクとまともな言葉もでない口を喘がせる俺を見つめて、クダリさんが徐に肩を落とす。 珍しく苛立っているみたいに、片手で顔を覆ったクダリさんの目は笑ってなかった。
「ナマエ、わかりやす過ぎ。それに…うん、ちょっと面倒なことになったかも」 「う、ぇ…なんで、ですか……」 「……とりあえず、そのことは絶対ノボリに言っちゃダメだから」
『色んな意味で、君のためにね』 意味深にそう付け加えてため息をついたクダリさんがけだるげに寝返りを打つ。 何と言うか、こんなクダリさんは初めてで、戸惑いはあった。 だけど、今の俺の中にはそれよりも勝るものがある。
シキミさんのことを、知りたい。 その欲求を、堪えることなんてできなかった。
「あの…っクダリさんは、シキミさんのこと知ってるんですか……?」
「――……」
横目に俺を見るクダリさんの内心は窺いしれない。 無意識に息を飲んでじっと返答を待っていると、クダリさんはやれやれとばかりに緩く首を振った。
「シキミちゃんは、ポケモンリーグ四天王の一人だよ」 「えっと…確かジムバッチを集めたら挑戦できるっていう……」 「そうそう。よく知ってるね」
うろおぼえの知識を掘り起こして、愕然とした。 四天王って言ったら確かかなりの実力者だ。それに、そこに辿りつくにはその地方の全てのジムバッチを集めなければならなかったはず。 思ってたよりずっと、シキミさんってすごい人だったんだ。
だけど、
(――二度と会えないわけじゃ、ないんだ……!)
『ナマエちゃん、ポケモントレーナーを目指してみませんかっ?』
シキミさんに会いに行くための明確な道は、既に指し示されている。 そう思うともう、居てもたってもいられなくなるくらい、胸の奥がぶるりと震えた。
「――クダリさん」 「……ねぇごめん、嫌な予感しかしない」 「俺、決めました」
「ポケモンマスターに、俺はなる!!」
握りこぶしを作り最高にカッコいい(と自分では思う)ポーズで宣言した俺に、クダリさんは今度こそ笑顔を引きつらせた。
(12.06.19)
|