ジョーイさんの言葉が、頭の中をただ通り抜けていく。 『初潮』、つまりは、初めての月経。 俺の身体が、女として本格的に機能し始めたらしい。 この身体で俺はもう、子供だって産めてしまうのだと言う。 ――そんな、現実味のない話。 「一緒に来てくれた彼――サブウェイマスターのノボリさんよね?あなたは妹さんか何か?」 「え?……え、っと………あの、親戚、です」 「そうなの。じゃあどうする?言い辛いようだったら私から言っておきましょうか?」 「…………おねがいします」 できることなら言わないでほしい。 訊ねられた瞬間強くそう思ったけど、あれだけ心配をかけておいてまさかそんなことができるはずがない。 だけど、俺の口からなんて言えそうもなかった。 ――だってまだ、自分の頭も追いついていないんだ。この状況に。 「わかりました。じゃああなたは取りあえずこれに着替えて、ちょっと待っててね」 ジョーイさんから渡されたのは患者用の着替えと、代えの下着と、学校で保健の時間に一度だけ目にした生理用品だった。 その使い方を簡単に説明して、『そっちのお手洗いを使ってもいいから』と言い残したジョーイさんが診察室を出て行く。 俺は数秒、呆然としたままその後姿を見送って、のろのろと立ち上がった。 (なんだよ、これ……) 診察室に備え付けられていた簡易トイレの中でパジャマのズボンと下着を脱いで、眩暈がした。 形容するのも躊躇われるほどひどい状態だ。 女の子っていつもこんなの見てるのか。だから時々妙に肝が据わってんのか。 ていうかこんなに血が出たら俺やっぱそのうち死ぬんじゃないの。うわ、恐い。 回らない頭でそんなことを考えながらトロトロと着替える。 とりあえず、目も当てられないそこをティッシュでできるだけきれいに拭って、ジョーイさんがお手本として生理用品をつけてくれた下着に脚を通す。 ……なんか、すごいゴワゴワして違和感が半端ない。ちょっと動くだけで眉を潜めてしまう。 それでも我慢するしかないんだと自分に言い聞かせて、ため息をつきながらトイレを出ると、そこにはもうジョーイさんが戻ってきていた。 「大丈夫?ちゃんと着替えられた?」 「……多分。でもこれ、ものすごい違和感があって…」 「最初はみんなそうなのよ。そのうち慣れるわ」 ニッコリ笑う、その顔が少し恨めしかった。 こんなのに慣れたくなんてない。慣れてしまったらそれこそ、『男』の俺はお終いな気がした。 「彼には私からきちんと説明しておいたから大丈夫よ。照れくさいかもしれないけど、そこは仕方がないわね」 「……ありがとうございました」 「いいえ。それは彼に言ってあげてちょうだい。あんなにあなたのこと心配して――きっと、ナマエさんのことがとても大切なのね」 「――……」 意味深にクスクスと笑われて、思わず視線を床に落とした。 どうしよう。 ノボリさんと、顔を合わせづらい。 何て言われるだろう。 何を、言えば良いんだろう。 悩んでいる間に、ジョーイさんは俺に生理痛の薬だとか、汚してしまった服の洗い方だとかを一通り説明してくれた。 ジョーイさんから見ても今の俺は結構顔色が悪いらしくて、その場で薬を飲まされたところでようやくジョーイさんからの『大切なお話』が終わる。 汚してしまった服とブランケットを大きな紙袋に入れてもらって、ジョーイさんに付き添われながら診察室を出ると、待合室の長椅子に座っていた人影が弾かれたように立ち上がった。 見なくてもわかる。ノボリさんだ。 「――ナマエ様……」 「……ご心配、おかけしました…」 ノボリさんが、こっちを見てる。 だけど俺はどうしてもその目を見つめ返すことができない。 胸がモヤモヤして、自分でも対処の仕様がなくて、顔を伏せて床を見ていると視界にノボリさんの靴が入り込んだ。 「ジョーイ様、大変お世話になりました」 「いえ、良いんですよ。困ったときはお互い様ですから」 ジョーイさんといくつか言葉を交わしたノボリさんが、不意にもう一度俺の名前を呼ぶ。 それと同時に、ふわりと身体が宙に浮いた。 「ッ、ノボリさ…!」 「帰りましょう。ナマエ様」 「い、いいよ!自分で歩くから!!」 「ですが、急いでおりましたのでナマエ様の靴がございません」 言って、後頭部を包んだノボリさんの手が俺の顔をノボリさんのシャツに押し付けた。 多分――俺が、ノボリさんの顔を見なくても良いように。 誰にも顔を見られずに済むように。 優しく、だけど有無を言わせない動作で俺が持っていた紙袋を自分の腕に通し、ノボリさんは来た時と同じ様に俺を抱えてマンションに向かって歩き出した。 さすがにこの時間ともなると、静かなカナワタウンとは言え多少の人目がある。 きっと俺達の姿はさぞかし好奇の視線を集めていたことだろう。 だけど、ノボリさんの腕の中にいた俺はそんなこと殆ど感じなかった。 ただ自分のことでいっぱいいっぱいで、何も言わずにノボリさんのシャツに顔を埋めて。 自分がどんなにノボリさんに守られているのか、それさえ気づかないまま、『どうして自分がこんな目に合うのか』と、そんなことばかり考えていた。 ・ ・ ・ 「今日はゆっくりとお休みくださいまし」 部屋に帰って着替えだけ済ませ、ノボリさんに言われるままベッドに入った俺に、ノボリさんは優しい声でそう言った。 どうやら汚れたシーツはクダリさんが張り替えてくれたようだ。 あれを見られたのかと思うと恥ずかしいけど、今は何をするのも億劫で、正直ありがたかった。 「あの……本当に、すみませんでした…大騒ぎしちゃって」 ひたり。 ノボリさんの掌が、俺の言葉を遮るように額を覆う。 そのまま前髪を撫でつけるように頭を撫でられて、ノボリさんが俺を慰めようとしてくれているのがわかった。 多分、言葉が見つからないのはノボリさんも同じなんだろう。 当たり前だ。違う世界からやってきて、あげく性別まで変わってしまった人間なんてそうそういるわけがない。 俺だってもしも逆の立場だったなら、なんて声をかければいいのか検討もつかない。 それでも――ノボリさんは、俺の気持ちをわかろうとしてくれているんだ。 なにもできなくて、その上自分のことしか考えられない、どうしようもないこんなガキの気持ちを、労わって、慰めようとしてくれる。 触れる手の優しさから、それが伝わってきて――嬉しさよりもまず、申し訳なさが先立った。 「お仕事、行ってください。俺は、平気ですから」 「――……では、できるだけ早く戻って参ります。……どうか無理だけはなさらずに」 「……うん。ありがとう」 その言葉は、自分でも少し驚くくらいするりと出てきた。 ぐちゃぐちゃになった内面の中でも、誰かの思いやり感謝する気持ちはまだ機能しているらしい。 そのことに僅かながら安堵して、小さく息を吐いた俺の頭をもう一度撫でたノボリさんがゆっくりと腰を上げた。 薬が効いてきたのか、腰の痛みと吐き気が遠退いた代わりに眠気がきたようだ。 物音も、脳に送られる映像も、薄い膜の向こう側みたいに遠く感じる。 重くなった瞼を持ち上げてぼんやり見上げたノボリさんは、どこか辛そうな――思いつめたような顔を、していた。 「 」 あれ、いま ノボリさん、なんて言ったんだろう。 うまく聞き取れなくて、首を傾げて見せれば返されたのは苦い微笑だけ。 何でもないと言うようにゆるく首を振ったノボリさんが俺の布団をかけなおして、静かに背を向ける。 一体何だったんだろう。 気になるのに、もうそれを呼び止めるだけの気力はなくて。 ノボリさんの後姿がドアに遮られたのと同時に落ちてきた瞼に逆らわず、緩やかに意識を手離した。 (12.03.25)
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