よくよく考えてみれば洗濯は昨日の夜ノボリさんが済ませてしまったし、掃除をするにしたって勝手に二人の部屋の物を触るのもどうかと思われるので、結局はリビングと風呂場を掃除するくらいしか今の俺にはやることがない。洗濯物はまだ干してた方が良いだろうし。 そんなわけで早々に手持ち無沙汰になった俺は暇つぶしにでもと本棚にあった本を適当に手にとってページを捲ってみたのだけど、当然と言うかやはりこの世界の文字は俺の目には意味不明な記号にしか見えないわけで。 (文字が読めない、ってのはなかなか……キツいな) 二人が居ない間に少しでもこちらの世界のことを知っておこうと思ったのに、これではどうにもならない。くそう。 (会話は普通にできるんだけどなぁ……) それだけでも幸運だったと思うべきなのか。 鬱々とした気分で身体を投げ出すようにソファに寝そべり、することもないのでテレビをつけてみる。 適当にチャンネルを回しているとなんか世界一有名なネズミがいるランドに出てきそうなリスっぽいポケモンがお姉さんと一緒にアイテムの解説をしていた。……マジで普通にポケモンいるしなぁ。 「………」 なんとなく、テーブルに置いておいたモンスターボールに手を伸ばしてみた。 クダリさんから預かったバチュルのモンスターボールだ。 ええと、どうやってポケモン出すんだっけか。 (ボタンあるしこれ押すのか?んで…アニメではなんか投げてたような……) 寝そべっていた身体を起こして、おっかなびっくりボールを投げてみる。何も出てこなかった時を考えて主人公みたいな全力投球はしなかった。室内だし。 だけど、俺の心配を他所にボールから赤い光が出たかと思ったら、ポンと小気味の良い音と共にテーブルの上にバチュルが再び姿を現した。 「バチュバチュ!」 「〜〜〜っ!!」 昨日も思ったけど、コイツちっちぇえ。そのくせ目はでっかくて、ウルウルして、じっとこっちを見てきて……なんつーかもう、超守りたい。猫可愛がりしたい。 「お、おいで…?」 「バチュ?」 とりあえず、触らせてもらおうと手を差し出すとバチュルが首を傾げる仕草をした。 うおおおおおくっそ!殺す気かお前超可愛いな!! ――とか思った瞬間、小さな脚でバチュルが一歩俺に近づいた途端に、指先にバチリと衝撃が走った。 「ッ痛……!」 「バチュ?!」 「!や、ご、ごめん!お前のせいじゃないよ!」 昨日と同じ、恐らく静電気だろう。でんきタイプを持ってるようだ。 思わず上げてしまった俺の声に驚き、近づきかけていた身体を後退させてプルプル震えながら俺を見上げるバチュルを安心させようと笑いかけもう一度手を差し出す。 バチュルは少し迷っているように俺と俺の手を交互に窺うと、やがてゆっくり掌の上によじ登ってきた。 (かわ……っ!!) なんだよもうほんとちっさいなお前は!! 落っことさないよう両手で掬い上げて、顔の前に持ってきてまじまじと見つめれば青い目も不思議そうに俺を見つめ返す。マジで可愛い。 クダリさんのポケモンだからか人に慣れてないって感じでもないし――もっと触っても平気だろうか。 試しに指先で頭の辺りをくすぐるように触ってみると、小さく鳴いて目を閉じ、指に摺りよる素振りを見せる。も…もっと撫でろってか…!そうなのか……! (――これが、ポケモン……) 不思議だ。 ちょっとチクチクするバチュルを撫でながら、今更ながら感慨にふける。 ゲームの――画面の中の、データとしての存在が今、目の前に実在している。 小さくて、可愛くて、体温がある。 生きている。 俺と、同じように。 「……夢じゃ、ないんだよな」 「バチュ?」 「――いや、なんでもない」 ズリズリ背中を滑らせて、もう一度ソファに横になる。 こちらも暇を持て余しているのか、俺の身体をよじ登り始めたバチュルをぼんやり眺めて、それから目を閉じた。 少し、眠ろう。 じんわり思考を覆っていく眠気に逆らわず、俺はそのまま緩慢に意識を手離した。 ・ ・ ・
「ッ、ん……う」 寝返りを打とうとした腕が柔らかい壁にぶつかる。 ああ、そうか、ソファで寝てるんだ。 まだ覚醒には遠い頭でそれを理解して、もぞもぞ身を捩りながら目を開けた。 (いま、なんじ……) 部屋の中が薄暗い。もう陽が落ちてる。 ってことは夜か――――って、え゛! 「!!!」 一気に目が覚めた。ヤバイ。寝すぎだ。確か寝たのは昼前だったのにどんだけ寝てんだ自分。 慌てながらふとソファを見れば端のほうでバチュルもスヤスヤと寝ていた。……コイツはこのまま寝かせといてやろう。 モンスターボールを向けてボタンを押せば再びあの赤い光が出てバチュルが姿を消す。よし、多分これで良いだろう。 (ああそうだ、洗濯物…!) 取り込まないと。 リモコンで部屋の明かりをつけて、広いベランダに出るともう完全に日が暮れて空気が冷たかった。 最悪だ。今日俺ほんとに何もしてない。 ――きっと、やるべきことはたくさんあるはずなのに。 (あ――俺の、服) よかった。もう乾いてるからこっちに着替えよう。やっぱシャツ一枚じゃ落ち着かないし。 取り込んだ洗濯物をとりあえずソファに置いて、先に元の制服に着替えると昨日は気づかなかった変化に直面した。 なんか……全体的に一回りくらい服がデカい。つまり俺が一回り縮んでる。 ズボンの裾が床を引き摺りそうだったから仕方なく折って短くした。……なんだこれ切ない。 (もう19時か……) 我ながら相当寝たな。 時計を確認して乾いた笑いを浮かべつつ、洗濯物を畳んでいく。 仕事着っぽいワイシャツとスラックスにはアイロン当てた方が良いんだろうけど、さすがにどこにあるかまだ知らないから、これは一応畳んでおいて、後でノボリさんにアイロンの場所聞いとこう。 (………仕事、まだ終わんないのかな) そう言えば何時に帰ってくるのか聞いてなかった。 昨日会った駅員さんには『ボス』って呼ばれてたし、こんな高そうなマンションに住んでるし、実はあの双子相当偉い人なのかもしれない。 だったら、帰りってやっぱ遅くなるのかな……。 カチ カチ カチ 俺だけの静かな部屋に時計の音が妙に響いていた。 洗濯物も畳み終わって、もうすることがない。 考えてみればノボリさんが用意してくれてた昼食にも手をつけてないからかなり腹は減ってる。 ……だけど、一人で何かを食べる気分には到底なれなかった。 (俺、なんで……) どうして、こんなとこにいるんだろう。 どうしてこんなことになったんだろう。 部屋の中が急に寒く感じられて、思わず膝を抱え、自分を守るように身体を丸める。 考えたくない。 でも、考えてしまう。 『あっち』の世界は今、どうなっているんだろう。 俺はやっぱり、失踪したことになってるのだろうか。 家族はどうしてるだろう。 友達は? 学校の先生は? 皆いい奴だから、きっと心配してくれてる。 母さんなんか泣いてんじゃないかな。昔から涙もろいとこあるし。 父さんも、無関心なふりして実は心配性だし。 中学上がった頃からケンカばっかしてたけど、それでも両親の愛情を疑ったことなんて一度もなかった。 俺は間違いなく、愛されていた。 愛していた。 それなのに、こんなことになって。 この世界には俺のことを知ってる奴なんて一人もいなくて。 もちろん俺が知ってる奴もいない。 帰るべき家もない。 それってつまり、『居場所』がないって、ことだろ。 「ッ……!!」 いやだ。 こわい。 帰りたい。 戻りたい。あの場所に。 俺の『居場所』に。 だけど、どうすればいいのかわからない。 なんでこうなったのかもわからない。 帰れるかどうかなんて、もっとわからない。 もう二度と――あの人達に、会えないかもしれない。 「っ、ひ…っ」 そう思うと、堪らなく悲しくて、寂しくて、胸が、苦しくて。 吸い込んだ息が震えて、喉が引き攣る。鼻の奥が痛んで、ぎゅっと閉じた目尻に濡れた感触。 ――そんな時、玄関の方から物音が聞こえた。 「ナマエーーー!!ナマエっ!ちゃんといる??!」 クダリさんの声だ。 バタバタとリビングに走ってくる足音が聞こえて、慌てて腕で目尻をぐいと拭う。 それとほぼ同時にリビングのドアがけたたましい音を立てて開かれて、クダリさんとバッチリ目が合った。 「ナマエっっ!!」 「!お、おかえりなさ、い……!」 「〜〜〜っ!!ただいまーー!!」 捨て身タックルと見間違うような勢いで、クダリさんが飛びついてくる。 すぐ後ろにソファがあったから倒れなかったけど、正直衝撃が半端なくて痛ぇ。 ――だけど、怒る気にはなれなかった。 俺を見つけた瞬間のクダリさんが、本当に嬉しそうに笑ったから。 「クダリ!ナマエ様が潰れてしまいます、離れなさい!」 クダリさんの締めつけに無言で堪えていると、遅れてリビングに現れたノボリさんがこの状況を見るや否や開口一番にそう怒鳴った。 その手にはなんだか大量のデカい紙袋が提げられている(なんだアレ) 「やだっ!僕本当に心配したんだから!」 「し…心配……?」 「そうだよ!ナマエ、休憩時間にライブキャスター鳴らしたのに全然出ないから!」 「へ?――あ、」 あ。俺超寝てた。 言われてみればテーブルのライブキャスターがチカチカ光ってる。 そうか。それで―― (心配、してくれたのか……) 未だにぎゅうぎゅう抱きついてくるクダリさんの背中に、おずおずと腕を回す。 「ご――ごめんな、さい。その……心配、かけて」 さすがに寝てて気づかなかったという事実は伏せて素直に謝罪すれば、一瞬だけクダリさんの身体が強張って、それからまた俺の名前を呼んだクダリさんの腕の力が一段と強くなる。 すげぇ苦しい。マジで潰されるんじゃないかこれ。細いくせに力強いな。 でもなんか――嫌じゃ、ない。 クダリさんの腕の中は、あったかい。 そう思って、ゆっくり目を閉じた瞬間、身を委ねていたぬくもりが急に離れた。 「いい加減になさい!」 「ぐえ!」 ノボリさんが、クダリさんのシャツの襟を後から引っ掴んでいた(うわこれは苦しいぞ) 「――ナマエ様、帰りが遅くなってしまい誠に申し訳ございませんでした」 「!いえっ全然平気です!!俺殆ど寝てただけだし!」 「……左様でございますか」 「!!」 ノボリさんの視線は、俺の目元にじっと注がれていた。 慌てて擦ったから目元が赤くなってたのかもしれない。 泣きそうになったのが、バレたのかも。 だけど、結局ノボリさんは何も言わず、ただポンポンと俺の頭を優しく撫でるだけに留まった。 「すぐに夕食の用意を致します。お腹が減っているでしょう?」 「ッ――は、ぃ」 多分きっと、ノボリさんは気づいてたんだろう。 それでも何も言わないでいてくれる優しさに、また泣きたくなったなんてことは秘密だ。 ――胸が鳴ったなんてことは、尚更。 「お、俺も手伝います!」 「ダーメ!おみやげ買ってきたんだから、まずはそっち!」 「……『おみやげ』?」 え、なんか嫌な予感。 クダリさんがニコニコ笑って、さっきまでノボリさんが持ってた紙袋をジャーンと掲げて見せる。 まさか。 「帰る途中にね!まだ開いてるお店あったから、思わず買っちゃった!」 「きっとよくお似合いですよ。さっそく着て見せてくださいまし」 「え?いや…え?だってそれ、女物……」 おいちょっと待て。 次から次へと紙袋から出てくるのはどれもこれも女物の洋服ばかり。しかもどれもがヒラッヒラの可愛い系だ。 マジか。何考えてやがるこの双子。 「まずはコレー!僕が選んだの!ほらほらそんな制服なんか脱いで脱いで!」 「ナマエ様、その次はわたくしが選んだものを着てくださいまし」 「〜〜〜ちょっ、ま…!待ってください二人とも!!」 やたらキラキラした目で洋服を押し付けてくる二人に全力で引きつつ、心の中で叫ばざるを得ない。 『そんなもん買ってる暇があるなら一秒でも早く帰ってきてほしかった!!!』 ――なんて、寂しかったって言うようなもんだから絶対言えないけどな! (12.01.31)
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