ポケモン | ナノ


ノボリさんはとても忙しい人だ。
なんてったって年中無休のバトルサブウェイのサブウェイマスターなんだから、バトル以外にもお仕事はたくさんあるに決まってる。
まだ学生の私には想像もできないような激務をこなす日々の中で、それでもノボリさんは毎日私のために、少しずつでも時間を割いてくれた。
例えば、毎晩ベッドに入る頃に鳴るライブキャスター。
どんなに忙しくても、夜勤の日でさえも、仕事の合間を見てノボリさんは顔を見せてくれた。
スクールでどんなことがあったか、変わったことはなかったか、体調を崩していないか、必ず私に確認して、それから少しだけお喋りして。
私の他愛無い話に、微かに口元を緩めて相槌を打つノボリさんの顔を見ていると、なんだかくすぐったくて、だけど嬉しかった。
――でもさすがに、忙しさに拍車がかかる年末まではそうもいかないようで。

『申し訳ございませんが、暫くご連絡差し上げることができないやもしれません』

本当に悲しそうな顔で(って言っても表情は殆ど変わらないんだけど、そんな雰囲気で)そう言われたのが五日前。
私だってもう聞き分けのできない子供じゃないんだから、ちゃんと笑顔で『わかりました』って、『身体に気をつけてくださいね』って言えた。
その瞬間ノボリさんは更に悲しげに『ですがッ!もしもナマエ様がお寂しいのでしたら遠慮なく通信でもメールでもしてくださって構いませんので!』なんて食い下がってきたけど、そんなことして迷惑とか負担とかかけたくなかったから、我慢して私からも連絡は取らなかった。

そして今日――久しぶりにノボリさんの番号から通信が入り、嬉しさで心臓が暴れだすのを感じながら画面を覗き込むと、そこに映し出されたのは彼の双子の弟のクダリさんの、珍しく追いつめられたような顔だった。


『ノボリが大変だから、今すぐギアステーションに来て』




くらくら




「クダリさんッ!!ノボリさんは――!!」
「――ナマエちゃん」

駆けつけたギアステーションで、私を待っていてくれたクダリさんの顔色は青白かった。
『来てくれてありがとう』
いつもの明るさが感じられない沈んだ声でそう言って、クダリさんは私の肩をぎゅっと抱き寄せ、関係者以外は立ち入れない『STAFF ONLY』の札が掛かった通路を足早に歩き始める。その手が、少し震えているように感じられて息が止まってしまいそうだった。

「……ごめん。ノボリが無理してるの、わかってたんだけど止められなかった」
「っ…は、い」
「ノボリ、早く君に会うために殆ど飲まず食わずで寝る間も惜しんで仕事してた」
「っっ……!」
「それで――遂に、限界が来ちゃったみたい」

クダリさんの一言一言に後悔の波が胸に押し寄せる。
どうして私、連絡取らなかったんだろう。
顔を見れば、ノボリさんの体調に気づけたかもしれない。ちゃんと休んで、ご飯食べて寝てくださいって、言ってあげられたかもしれないのに。迷惑とか負担とか、そんなこと考えて頑なにならないで、素直に連絡しとけばよかった。
そしたら――そしたら、こんなことには……

「ここだよ」

ひとつのドアの前でクダリさんが足を止める。
振り向いた彼が、今度は私の両肩をしっかりと掌で包んで顔を覗き込んだ。

「ナマエちゃん、この中にいるのは、もう君の知ってるノボリとは別人だって思った方が良い」
「っそんな……!」
「その方が君のためだから――何があっても、気を強く持って」

力なく笑う、そんなクダリさんも既に疲弊し切ってるように見えて、何も言えなかった。
ただ、自分を鼓舞するために掌を強く握り締めて、唇を引き結んで頷く。
クダリさんはそんな私に少しだけ安心したように肩の力を抜いて、それから小さく、小さく呟いた。

『ごめんね』

切なげな微笑にそんな謝罪をのせて、クダリさんは静かにその場を立ち去る。
ノボリさんの穴を埋めるために、今はクダリさんが一人でギアステーションを駆け回らなくてはいけないのだろう。
――私も、頑張らなきゃ。

「……っ」

深呼吸。それから、意を決してドアを三回ノック。
中からの返事はない。
また怖気づきそうになる自分を叱咤してドアノブを握り、ゆっくりと捻って――開いた扉から覗いたその光景に、私は一瞬目を疑った。

「ッッ――??!」

デスクについて一心不乱に何かを書き続けるノボリさんの後姿。
その周囲――と言うか、壁という壁から天井に至るまで部屋中に貼りつけられたのは大小様々なおびただしい数の写真。写っているのはどれもこれも見慣れた顔――つまり、全部私、だ(なに、これ……!!)

(なっ…え?!これもしかして全部バトルの時の……!!)

ど、どういうこと、なんだろう。私が案内されたのは確か、ノボリさんの執務室のはず、だけど……異様な雰囲気をかもし出すここは最早ホラーの一種と化している。正直言って今すぐ逃げたいくらい恐い。
――でも、ダメ。逃げちゃダメだ。クダリさんに、ノボリさんのこと頼まれたんだから――!

「のっ ノボリ、さん……!」
「――!!!」

私の声に大きく肩を跳ねさせたノボリさんがギュルッと勢い良く振り向く(ひっ!)
見開かれた灰色の瞳が私を凝視して、思わず足が後ろへ逃げそうになったけど、気力で踏みとどまった。
信じられないものを見るように、穴が開きそうなほど私の顔を見つめる視線に耐えながらどうにかへらりと笑顔を作った――瞬間。

「ッ、ナマエ様ぁぁああああ!!!!」
「えっ、うゃあああ?!!」

物凄い衝撃が身体を襲って、私の身体は床に打ちつけられていた(ぃ、た…!)

「ちょっ、の、ノボリさ…!」
「ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ああああああ」
「やっあの!落ちついて!落ちついてください一回離してっ」
「あああナマエ様ナマエ様の匂いはぁはぁ」
「っ?!かっ嗅がないでくださいやだぁあ!!」

仰向けに倒れた私に突進した勢いのまま覆い被さったノボリさんがぎゅうぎゅう抱きついてきて、体格差とか力の差とかでろくな身じろぎさえできない私の肩口に顔を埋めてスンスン鼻を鳴らされて、羞恥心と一緒に背中をぞわぞわしたものが駆け上がった。
なるほどクダリさんの言うとおり、今のノボリさんはいつもの彼とは全然違う。……いや時々そんな片鱗はあったような気もするけど、ここまでじゃなかった。と言うかもう、本当にどうしてこうなった…!

「ナマエ様、お会いしとうございました…!わたくしの気持ちがようやく届いたのですね……!」
「え、いえあの……」
「大変嬉しゅうございます、ナマエ様…ナマエ様、はぁ、もう離しません……」

ぎゅううううと腕の拘束力が強くなって、ちょっと苦しい。
それに、ノボリさんの吐息がいちいち首筋をくすぐるから心臓がバクバク言って気が気じゃない。
どうにか一回離してもらおうと肩に手を置いてノボリさんを引き剥がそうとするけど、やっぱりノボリさんの力の方が強くてびくともしなかった。

(なんだ、言動はかなりおかしなことになってるけど元気はあるみた――ん?)

ちらり。
視線を床に落とすと、今更ながら一面に書類が散乱していることに気がつく。
そしてその文面に書き散らかされた文字の羅列が私を更なる恐怖に追い込んだ。


『 ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様ナマエ様 』


だ め だ 


「――ッノボリさん!!休みましょう!!休まなきゃダメです!!!」

おかしいおかしいおかしいこわいどうしようノボリさんがおかしくなっちゃった!
今なら私に助けを求めてきたクダリさんの気持ちがよくわかる(と言うかむしろ私も助けてほしい!)

「か、仮眠室ありますよね!そこ行きましょう?ね、ちょっとだけでもベッドで寝ましょう?!」
「ナマエ様…!いけませんそんな大胆なっ!共にベッドに入るのは時期尚早と言いますか、いえわたくしとしては勿論いつでも大歓迎なわけですがやはりナマエ様はまだお若いわけですしきちんと段階を踏んでお付き合いさせて頂くべきかと思いましてまずは年明けにでもご両親にご挨拶に伺おうとわたくしこうして婚姻届けの用意を」
「言ってることが支離滅裂ですノボリさん!」

ああこれはもう本当にマズいところまできてしまっているのかもしれない。忙殺って恐ろしい。
とにかく、不眠不休がノボリさんをここまで追い込んだのだからと全てを忙しさのせいにして私はもう半泣き状態で必死にノボリさんに訴えかけた。

「ベッドがダメならソファでも良いですから!お願いですから私の言うこと聞いてくださいっ!!」

クダリさんや地下鉄で働く皆さんのために!そして何より私のために!!
そんな想いを込めた渾身の懇願に、ノボリさんの身体がピクリと反応して、私を抱きしめる腕の力がスッと緩くなる。
もしかして、正気に戻ってくれた……?
淡い期待を込めて見上げたノボリさんの顔は、間近で見るとクマがひどいし血色は悪いしで、本当に疲労困憊しきっているのがよくわかる。――そうなると、やっぱり胸がぎゅっと締めつけられたみたいに苦しい。
好きな人が辛いのは、私も辛い。

「ノボリさん、今休まないと倒れちゃいます。私、ノボリさんが起きるまで傍にいますから」
「――ナマエ様……っ」

いつもの艶を失くしたノボリさんの髪を優しく撫でながら、もう一度、今度はノボリさんのためにお願いする。
そうすると、私の気持ちが通じたのかノボリさんは感極まったようにプルプルと小さく身体を震わせて、私を見つめる瞳を愛しげに細めながら恍惚の表情でため息をついた。

「心優しいナマエ様、でしたらわたくしのお願いを一つ聞いて頂けませんか?」
「それを聞いたら、ちゃんと休んでくれますか?」
「ええ。約束いたします」

言って、ノボリさんは徐に私の片手を取ると誓いの証とばかりに小指の付け根にちゅっと音を立てて唇を押し付けた。
そんな仕草に頭の中が真っ白になりかけて、それでもどうにか首を縦に振る。
ノボリさんは常識のある大人なんだから、無茶なことは言い出さないだろう――そんな前提が今の壊れかけたノボリさんの前では通用しないということに気づかず、私はこの甘い空気に呑まれて油断していたのかもしれない。
私の返事に一層うっとりとした夢見ごこちな微笑を浮かべて、ノボリさんは「では、」と妙に熱の篭った視線で私を射抜いた。


「キスを、させてくださいまし」


「 ぅ、え――ッ??!」


『キス』
その言葉の意味が脳に届いた瞬間、顔がカッと燃え上がったように熱くなる。
それに拍車をかけるようにノボリさんの指が私の唇を撫でて、息が、震えた。

思い出すのは初めてのキス。
自分に嘘をついてノボリさんを拒んだ私に強引に与えられた、ただ唇を押し付けるだけのそれ。
自分の感情を上手くコントロールできなくて、嫌じゃなかったのに、泣いてしまった。
――その時の、ノボリさんの傷ついた顔が鮮明に蘇る。

「……やはり、嫌ですか?」
「っ……!」

悲しそうなノボリさんの声に胸を衝かれた。
やっぱり、あの時泣いちゃったりしたからノボリさんに気を遣わせてしまってた、のかな。
今まで私を抱きしめることまではしても、絶対にそれ以上のことはしなかったノボリさんの心情を垣間見た気がして、私は咄嗟に首を振ってノボリさんの言葉を否定した。

「ち、が…っ嫌じゃ、な、っふ…!」

(あ、ぇ…あ…!)

『嫌じゃない』と、そう応えようとしたところで、言い切らない内に性急に唇を重ねられた。
ドクンと鼓動が体中に響いて、勝手に全身が強張る。
少しかさついたノボリさんの唇が、私の唇を食むように動いて、濡れた、音。

「ッ!!」

し、舌…!舌、が、ノボリさんの舌が、ぬるりと唇の上を這う、濡れた感触。
その途端に背筋が引き攣って、思わず顔を逸らして逃げようとしたけど、私の顎を捕まえているノボリさんの手が許してくれない。
そうこうしている間にどんどん息苦しくなって、だけど鼻で息をしても良いものなのか、どのタイミングですればいいのかも全然わからなくて、どうしよう、どうしようとぐるぐる考えているうちにやっとノボリさんの唇が離れた。

「はッ、ンむぅ?!」

やっ、やだ、やだこれ…舌…!
ノボリさんの、舌が、私の息継ぎを狙っていたのかスルリと口内に滑り込んで、くちゅくちゅ音を立てて動く。
それがまた鼓膜から脳全体に響き渡るみたいで、どうにかなってしまいそう。
恐くて、ノボリさんの胸を強く押し返すけど、やっぱりびくともしない。

「ゃ、あ、むっん、んっ!」
「ッはぁ…ナマエ様、可愛いらしいです…ッ」
「ふっ!んんーっ!!」

キスの合間に吐息の中で呟いて、また食べられる。
本当に『食べられる』という表現がしっくりくるほど、ノボリさんは容赦なく私を貪った。
逃がした舌を追いかけて、吸い上げられたかと思ったら甘噛みされて、未知の感覚と酸欠で頭がぼんやりする。
痺れた思考は支配されてるみたいに、ただ気持ちいいのしかわからない。

一体どれくらいそうしていたのか――ノボリさんがやっと身体を起こした時には私の意識は朦朧としていて、ただ、お互いの唇を繋いだ透明な橋の意味もわからないままそれを舌で切って舐め取るノボリさんの色っぽい姿を眺めていた。

「ナマエ様、わたくし、幸せでございます……」
「っん」

ちゅっちゅっと可愛いリップノイズを立てて私の額に、頬にとまた唇を落として、ノボリさんが満足そうに微笑む。
――多分、冷静になったら恥ずかしさのあまり消えてしまいたくなるんだろうけど、今はただ、ノボリさんがそんな風に嬉しそうに笑ってくれたことが純粋に嬉しくて、私はなされるがまま、大人しくノボリさんのシャツを握って瞼を伏せた。

「――では、さっそく」
「!!わっ?!」

ふわりといきなり身体が宙に浮いたかと思えば、ノボリさんの腕に抱き上げられている。
ビックリして咄嗟にノボリさんにしがみつくと、ノボリさんはまた機嫌よく「大丈夫ですよ」と私の頭の天辺にキスをして、何をするかと思いきや、大きなソファの上にゴロリと寝転がって約束通り寝る体勢に入った――私をお腹の上に乗せたまま(、え)

「ノっ、ノボリさん!離してください重いですから!!」
「いいえそんなことはございません。それに、ナマエ様を下にするとそれこそ潰れてしまいますので」
「いやいやいや!そもそもソファで一緒に寝るのが無理なんですってば!」
「傍にいてくださると言ってくださったではございませんか」
「う゛……!」

言葉に詰まる私に、にっこり笑うノボリさん。
そんな彼を言い包めるなんて高度な技、私が習得している筈もなく。

「30分経ったら起こしてくださいまし」
「〜〜〜っ!ダメです、せめて1時間……!!」
「おや、今日は本当に大胆でございますね」
「そっ!そういうんじゃないです!!ほんとに、ほんとに違いますから…っ!」
「ハァハァツンデレなナマエ様もおいしゅうございます…!」
「食べないで下さい!」

そして腰の辺りを撫でる手が心なしかやらしい気がしますノボリさん!(ヤブヘビになったら恐いから言わないけど!)

「もうっ、これからは無茶しないで、ちゃんと休んでくださいね!」
「ええ。ナマエ様が添い寝してくださると言うのなら」
「(今度こそ言質取られないぞ…!)お、おやすみなさいっ!」
「――はい。おやすみなさい、ナマエ様」

とくん、とくん。
重なったノボリさんの胸の奥から、少しだけ早い鼓動が伝わってくる。
それが段々緩やかになって、頭上で微かな寝息が聞こえ出した頃、私もゆっくり目を閉じた。


「ノボリ、さん……」


大好きです。
だから、どうか、


内股に触れるノボリさんの股間の膨らみの正体は、私の邪推だと言ってください(うわあああん!)





(12.01.06)