金曜日。久しぶりのギアステーション。 長い階段を降りて、右手。 シングルトレイン乗り場の向こう――スーパーシングルトレイン乗り場の手前で、足が止まる。 たくさんの人が行きかう雑踏の中でも、心臓のひとつひとつの鼓動がわかるくらいに緊張していた。 (来ちゃっ、た……) あれから――ノボリさんに会ってから、とにかく『早く』、『早く』って。 気持ちだけが妙に急いて、考えることを放棄したみたいに、ただがむしゃらにポケモンたちを鍛えてきた。 例え今日、運よくノボリさんの元までたどり着いたとして、その時何を言うかなんて、まだ決まってもいないのに。 (ッ……やっぱり、今日は) やめようか。 そう思った瞬間、唐突に背後から肩を叩かれて、思わず情けない悲鳴が飛び出した(『ひょわ!』って私…!どんな悲鳴…!!) 「ご、ごめん!そんなに驚くとは思わなくて」 「っ、クダリさん!」 振り向いたそこにいたのは、少しバツが悪そうな笑みを浮かべたクダリさん。 いや、まぁノボリさんじゃなかった分まだマシかもしれないけど相手が顔見知りだったってだけでやっぱり恥ずかしい。 自分の頬がカッと熱くなるのがわかって、慌ててすみませんと頭を下げると、クダリさんはなぜかクスクスと小さく笑って、徐に私の手を掴んだ(あ、え…?) 「僕、これからちょっと休憩なんだ。一緒にお茶しよう!」 「っは、え?や、あの私…!」 「大丈夫!お菓子もあるよ!」 「いやそういうことじゃなくて!」 「ノボリの手作りクッキー、ナマエちゃんも好きだったよね?」 す、好きですけど!大好物ですけど! 今はちょっとそういう気分じゃないんです――そう言おうと思ったのに、素直すぎる私のお腹がきゅるると鳴って、クダリさんに爆笑されてしまった(うわあああん私のバカ!恥ずかしいにも程がある!) そればかりか断る理由すら無くしてしまった私はまだ肩を小さく震わせながら笑いの名残と戦うクダリさんに引き摺られて、そのまま『関係者以外立ち入り禁止』と札のかけられた駅員室なんてところに連れ込まれてしまった。 ・ ・ ・ 「はい、どーぞ」 ふんわり湯気が昇るマグカップに注がれたのはミルクココアだった。なんだかクダリさんらしい。 ありがとうございますとお礼を言って受け取ると「いやいや」とニッコリ笑ったクダリさんがテーブルを挟んだ向かいに座る。 まだ少し熱そうだから表面に息を吹きかけて冷ましていると、クダリさんがこっちをじっと見ているのに気づいた。 「……あの、?」 「――こないださ、勝手に帰ってごめんね」 「え?」 「ノボリにムリヤリ襲われたんだって?」 「ッッ、ぶ!」 あっ…ぶない! ココアを噴きそうになったのをどうにか堪えてクダリさんを見ると、やっぱりいつもの笑顔――だけど、心なしか目が、笑ってないよう、な…。ううう。ノボリさん、一体何て言ったんだろう。大分歪曲して伝わってる気がする! 「そっ、れは…!あの、そんなことは、全然…!」 「え?でもキスされたんでしょ?」 「!!ゃ、あ……う、そ、そうです、けど……っ」 お、『襲われた』とか、『キズモノ』とか、ノボリさんもクダリさんも、表現の仕方が極端過ぎる気がする。 そういう風に言われてしまうと、まるで私とノボリさんが本当にどうにかなってしまったんだって言われてるみたいで、当事者としては居たたまれないにも程がある。 だ、だって実際…キス、だけ……だし。 いやあの別に私は『キスくらいどうってことない』って思ってるわけじゃなくて!と言うか実を言うとあれが私のいわゆるファーストキスだったわけで!嫌だったかって言われると嫌じゃなかったんだけど、それなりにショックって言うか色々思うところはあって、でも本音を言うとやっぱりその……初めての相手がノボリさんで、よ…よかった、とか…とか……!ああもう何考えてるんだろう私!!!(わけがわからない!) 「ナマエちゃん、すごい百面相」 「っは!いや、あの…っ、えっと……!」 「大丈夫。落ちついて。ナマエちゃんの言いたいこと、何となくだけどわかる」 いつもの白い帽子をテーブルの上に置いて、頬杖をついたクダリさんが優しく目を細めた。 そんな表情が一瞬ノボリさんに重なって――ドキンと、心臓が跳ねる。 「ノボリのこと、好きなんでしょ?」 確信を持った、そんな言い方だった。 誤魔化すことは、できない。直感で悟る。 マグカップを持つ手に思わず力が入って、掌が、ジンと熱い。 「っ、……」 言葉が詰まって、思わずクダリさんから目を逸らした私に、クダリさんは優しい声で続けた。 「ノボリには言わないから、平気だよ」 「……ッ」 「――ねぇ、ナマエちゃんはさ……何をそんなに、恐がってるの?」 この人は一体、どこまでわかってるんだろう。 目を逸らしていてもクダリさんが真っ直ぐ私を見てるのがわかる。 その眼差しに全てが見透かされてしまいそうで、私はもう、許しを乞うように首を振ることしかできなかった。 「わ、たしは…ッ、私、じゃ……ダメ、なんです」 「――なにが?どうして君じゃ、ダメなの?」 「だって、私……!」 鼻の奥が、ツンと痛んだ。 泣いちゃダメ。最近の私は、涙もろすぎる。 わかってるのに、泣きたくないのに、涙が浮かび上がる。 そうすると、こないだそれを優しく拭ってくれたノボリさんのことを思い出して、余計に泣きそうになった。 もう、ただひたすらに、胸が苦しい。 言えなくて、必死に抑え込んでた気持ちが胸の中で行き場を失って、今にも決壊してしまう。 「わたし、は…っノボリさんの、思ってるような子じゃ、ないんです…!」 いつだっただろう。 まだ、スーパーシングルのチケットも貰えず、シングルトレインでノボリさんに負け続けてた頃。 電車が次の駅に着くまでの時間、隣に座ったノボリさんがポツリと漏らした言葉。 『スーパーシングルトレインでは、わたくしのもとまで辿りつくことがあまりに困難で、諦めてしまうお客様も多いのです。わたくしはそれが、残念でなりません』 胸に突き刺さったそれはきっと、私の転機だった。 その言葉がなかったら、私はおそらく、今とは違う運命をたどっていた。 ――ノボリさんに、好意を寄せられることなんて、なかった。 だから 「ほんとのこと、知ったらノボリさん…っ私に、幻滅する……!」 きっと――ううん、『絶対』。 本当の私なんて、好きになってくれるはずが、 「こら!」 「ッ?!!」 むぎゅっと、唐突に両側からほっぺを潰されて、強制的に俯いてた顔を上げさせられた。 な、に。いつも笑顔のクダリさんが、笑って、ない。 灰色の瞳でキッと強く私を捉えて、ノボリさんみたいに口角を下げて――これは、怒ってる、の? 「ノボリの気持ち、勝手に決めつけちゃダメ」 「 ぇ、」 「『ほんとの君』を知って、その時ノボリがどう思うかなんて、ノボリにしかわからない」 「っでも……むぐ!」 食い下がろうとした私の口に、クダリさんは「えい」と可愛いかけ声でクッキーを押し込んだ(おい、しい……) 思わずむぐむぐ口を動かしてそれを堪能してしまうと、クダリさんにまた笑顔が戻ってくる。 今度のはちょっと悪戯っぽい、いつもの笑顔だった。 「ノボリはさ、頑固で、融通利かなくて、根っからの生真面目で、おまけに恋愛経験値低すぎな変態だけど、」 「(!!なんだか今サラリと凄いことを言われたよう、な)」 「それでも、誰よりナマエちゃんを想ってる。例えば君が、君のことを好きじゃなくても」 「――…君のことが、大好きだよ」 「――……」 今、一瞬、すごく切なくて、泣きたくなったのは、クダリさんがあまりに綺麗に微笑ったから、だろうか。 「……ノボリさんの気持ちは、ノボリさんにしかわからないんじゃなかったんですか…?」 「あは、そうだね。でも、きっとそうだよ」 「わかるんだ。僕たち、双子だから」 少し意地の悪い言い方だったけど、クダリさんはまたあっけらかんとして笑う。 そんな姿に、不思議と胸の重みが減ったように、呼吸が楽になった気がした。 「……クダリさん、私、スーパーシングルに挑戦してきます」 「うん、がんばって!」 「ココアとクッキー、ごちそう様でした…!」 ヒラヒラと手を振ってくれたクダリさんを残して、駅員室を飛び出す。 胸が、高鳴ってた。 まるで初めてノボリさんに挑戦した、あの日みたいに。 私にはクダリさんみたいな確信なんてない。 今だってまだ、振り返ればすぐそこに恐がりな自分の影が足元に縋りついてる。 だけど――だから、前だけ見て、ひたすら走ろうと思った。 私を待ってくれている、大好きなあの人を目指して。 (11.12.18)
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