トレーナーズスクールに授業終了のベルが鳴り、生徒が思い思いに教室を出て行く。 その中で、ナマエはぼんやりと机の上のものを片付け、ため息をついた。 (……今日は、スタジアムに行ってみようかな) ポケモンバトルをしている間だけは、夢中になれる。 他の何をしていても――夢の中でさえ、頭から離れてくれない『彼』から解放される。 たとえ僅かな時間であっても、今のナマエにはそれが必要だった。 あの日のことを――遊園地での出来事を、思い出すのが辛かった。 『――これで、『そういうふうに』見て頂けますか?』 苦しげに、訴えるように細められた灰色の瞳。 腕を掴んだ大きな手の強さ。 触れ合った唇に感じた、熱。 まるで呪いのように、それは今尚ナマエの胸を苛み続けて、その度に息苦しくなる。 ノボリのことが、嫌なのではない。 口付けられたことが嫌だったわけでもない。 そういうことではなくて、ただ、 (わたしは――) 「――ねぇあれ!!校門にいるのってサブウェイマスターじゃない?!」 「っっ!!?」 不意に耳に飛び込んできた女子生徒の声にナマエの身体は過剰なほどに飛び跳ねた。 まさか。 信じられない気持ちで、それでもバクバクと煩い心臓に弾かれ窓の外の校門へ視線をやると、そこには見慣れたシルエット。 ――だがしかし、纏った色はナマエの予想に反して、『彼』とは正反対の白だった。 ・ ・ ・ 「クダリ、さん…?」 ノボリの双子の弟である彼が、このタイミングでこの場に現れたのなら、目的はおそらく自分だろう。 一体何を言われるのか――そもそも彼はどこまで知っているのか、不安に思いながらも急いで荷物をまとめて校門へ向かい、好奇心につられて彼の周りに寄ってきた生徒達に愛想のいい笑顔を向けてヒラヒラと手を振っていた彼におそるおそる声をかける。 その視線がナマエを捉えた瞬間、彼女は直感的に理解した。 「ッ!!!」 (違う――クダリさんじゃ、ない……!) 身に纏う白いコートも、帽子も、笑顔も、全てがクダリのもの。 だがしかし、ナマエを見るこの瞳は間違いなく『彼』の――ノボリのものだ。 「ぁ、……っ!」 予期せぬ再会に一瞬にして頭の中は混乱してしまった。 それでも、反射的に動いた身体は彼から逃れようと、震えた足で一歩後ろに下がる。 ナマエのそんな反応にノボリもまた自らの正体が彼女に見破られたことに気づき、驚いたように目を見開いた後、貼り付けていた笑顔の仮面を脱ぎ捨てて叫んだ。 「――お待ちくださいまし!!」 ざわめきをかき消すほどの声に、その場の空気が一瞬にして変わる。 何事かと更に好奇の視線を向けられることも意に介さず、ノボリはもう一度、絞り出すような声でナマエを呼びとめ、人波を縫って彼女を捕まえた。 顔を上げることができないナマエの視界では、あの日のように、ノボリの大きな手が彼女の腕をしっかりと掴んでいた。 「……話を、聞いて頂きたいのです。来ていただけますか?」 「っ……」 ノボリの声を聞くだけで、心臓が破裂してしまいそうだった。 何か言おうにも、カラカラに乾いた喉には何一つ言葉が出てくることがなく、ただ無言で俯いたまま掴まれた腕を引き戻そうとするとノボリの手に込められた力がいっそう強くなる。 それだけのことでまた、体中に鼓動が鳴り響いて瞳に涙が浮かび上がった。 「来ていただけないのでしたらわたくし、このままナマエ様のご自宅に伺います。そして先日の非礼を全てご両親に包み隠さず伝えたうえであなた様を『キズモノ』にしてしまったことを謝罪するつもりですが、」 「わぁあああ!!行きます!!一緒に行きますからっ!!」 先程までのシリアスな雰囲気を無視して公衆の面前でとんでもないことを言い出したノボリの口を、ナマエは大慌てで背伸びして塞ぎ、彼の言葉をかき消すように悲鳴をあげた。 だがしかし、この場にいた生徒達には確実に誤解されただろう。 『キズモノ…!』とざわめく周囲にいっそ可哀想なほど顔を赤らめ、ナマエは涙目でノボリを睨んだ。 だと言うのに、ふっと眦を和らげたノボリはどこか嬉しげだ。 「では、参りましょうか」 「、!」 口を塞いでいたナマエの手をやんわりと外して、そのまま極自然に手を繋いだノボリが歩き出す。 周囲の視線をヒシヒシと背中に感じ、更なる誤解を重ねる前に離してもらおうと彼の横顔を見上げたナマエはしかし、言葉を飲み込んだ。 制帽の鍔の影になった眉間に刻まれた深い皺、真っ直ぐに前だけを見る眼差し、強く握られた掌は少し痛いくらいに力んでいて。 彼が、緊張していることに――ナマエからの拒絶を恐れていることに気づいてしまい、喉がグッと絞まるようだった。 彼のそんな姿は、今の自分によく似ていたから。 ・ ・ ・ 人通りの少ない公園のベンチからは、あの観覧車が遠目に眺められる。 彼が意図してこの場所を選んだのかどうかはわからなかったけれど、並んで座ったナマエはとにかく顔を突き合わせずに話ができることに関しては少なからず感謝していた。 「小賢しいマネをすみませんでした」 「……わざわざ、クダリさんに借りてきたんですか」 「ええ。こうでもしなければ、お会いすることすら叶わないと思いましたので」 「………」 コートと帽子を脱ぎ、先に口を開いたノボリが自嘲交じりに言った言葉に閉口するしかない。 実際、もしも顔を合わせる前に彼がノボリだとわかっていたなら、ナマエは気づいた時点で裏門から逃げていただろう。 これみよがしにサブウェイマスターの制服を着て現われた時点で、何かおかしいと気づくべきだった。 過ぎたことを悔やみながら、膝の上で握り締めた掌にきゅっと力を込める。 こうしている今だってナマエは、一秒でも早く逃げ出してしまいたかった。 「――嫌いに、なりましたか」 「 ぇ、」 唐突に、投げかけられた質問に反応が遅れる。 思わず顔を上げてすぐ隣の彼を見れば、視線は真っ直ぐナマエを捉えていた。 「以前ナマエ様は、わたくしを嫌いになることはないと言い切ってくださいました。――その言葉はまだ、有効ですか?」 「っ あ、……え、と」 「あなた様の意思を無視して唇を奪い、姑息な手段を使って引き止めたわたくしに、幻滅しましたか」 「ッ――そんな、こと!」 「そんなことないですッ!私、言ったじゃないですか!!絶対、そんなことないって!!」 (ちがう ちがうの) 言葉にできない気持ちを処理しきれず、ナマエは懸命に頭を振って訴えた。 ノボリから逃げたいのは、彼が嫌いだからではない。 強引にキスされたのだって、嫌悪感は欠片もなかった。 むしろあの瞬間、ナマエは自分の気持ちを決定的に思い知らされたのだ。 彼をそういうふうに――異性として見たことがないなんて、嘘だ。 彼に抱いていた憧れはいつか、自然と恋心に変わっていた。 他の誰にも彼を取られたくないと、心の底で思っていた。 だけど――だからこそ、恐くなった。 彼に隠している『本当の自分』を知られることが恐くて、あの日彼を拒絶した。 (私、ノボリさんが思ってるような女の子じゃ、ない……!『幻滅』、されるのは、) ”わたし” 「――ナマエ様」 「!!」 どこまでも優しく響く低い声がナマエを呼んだ。 ビクリと身体を強張らせた彼女を宥めるように、大きな手が頭を撫でる。 いつの間にか目尻に溜まって今にも零れそうに揺れていた涙の粒も、彼の手がそっと拭ってくれた。 「その様な反応をされますと、諦められるものも諦められなくなります」 「ぇ っ」 「――もとより、諦めるつもりなどございませんが」 ふっと苦笑混じりの微笑みを向けて、灰色の瞳がひたりとナマエの瞳を見据える。 その眼差しから感じる、焦げつきそうなほど熱い感情に当てられて、胸が騒ぎ出すのと同時にナマエの頬が否応なく上気した。 「もう一度、言わせてくださいまし。わたくしは、」 「あなた様を、愛しております」 「っ……!」 「嘘偽りなく、わたくしの正直な気持ちでございます」 『”重い”かもしれませんが』 困ったように指先で頬を掻きながら付け加えた彼が苦笑する。 その言葉に、ナマエは咄嗟に首を振った。 彼の気持ちが、『重い』だなんてそんなことは思わない。 (だけど、わたしは……っ) 「ノボリ、さ、」 「――『ストップ』、でございます」 言いかけたナマエの言葉を唇に触れたノボリの人差し指が押し留める。 そうやって目を白黒させる彼女の声を塞いだまま、ノボリはすぅっと小さく息を吸い込んで、やがて覚悟を決めたように眼差しの色を変えた。 「返事は、スーパーシングルトレインの49戦目の後に聞かせてくださいまし」 「!!そん、ッ」 「それ以外では受け付けませんので、悪しからず。――ですがその時でしたら、今度こそ、ナマエ様の答えがどんなものであれ受け入れることをお約束いたします。……ですから、どうか」 「その時は、ナマエ様の本当の気持ちを聞かせてくださいまし」 「――ッッ!!!」 気づいて、いるのだ。この人は。 自分が、気持ちを偽ったこと。 そのせいで今もまだ――いや、このままだとこの先もずっと、苦しいままだということに。 止めようと努力する間もなく浮かび上がった涙が視界を歪ませる。 零れ落ちそうになったそれを再びノボリの指が受け止めて、ひどく愛しげに、優しく名前を呼ぶものだから、ナマエはただ俯いて、小さく頷くことしかできなかった。 『あなたが、好きです』 そのたった一言が言えない臆病な自分が、どうしようもないくらいに憎かった。 (11.12.16)
|