夢を見ていた。
目の前に翳したはずの己の掌さえ溶け込むほどの、果てのない闇の世界。 暑くもなく。寒くもなく。割れるような頭痛も、肺を絞るような苦しさもなく、身体は軽い。 ――そう、『軽い』のだ。 まるでぽっかりと、胸の内から“何か”が抜け落ちてしまったかのように。 そこにあるべきものを置き去りにしてしまったかのように。
はて、その“何か”とは、一体何だったか――
闇の中に漂う獣が己の抱える洞にふと目を向けた時、その声は頭上から優しく響いた。
『 インゴさん 』
――ああ。
獣は、インゴは、深く息を吐いた。 淡い光を纏ったその声に包まれ、暗闇に同化し始めていた意識が形を取り戻していく。 失った“何か”はその声の持ち主だったと、インゴは闇の奥へ目を凝らした。
『 インゴさん 』
呼んでいる。彼女が。 もがくようにその元へ手を伸ばした途端、荒波に飲み込まれたように、今まで遠退いていた苦しみが再びインゴを襲う。息苦しさに喘ぐごとに喉は擦り切れ、見えない重石に潰されたように体が重い。 そして彼女を取り戻した胸は、満ちると共に熱を帯び、焦げつきそうなほどに熱かった。
「インゴさん……っ!」
伸ばした手を包み込まれる。冷えて震えた、小さな掌。 懐かしいその手の持ち主を、インゴはよく知っていた。
手放して、突き放して尚、閉ざした心の底で誰より求めていた。
* * *
『なぜ』とは、思わなかった。 そこに彼女がいるはずはない。 だから目の前のこれは幻なのだと――自らの願望がつくりだした愛しい者の幻影なのだと、インゴは僅かに口の端を吊り上げ、「は、」と小さく笑った。 その姿に、幻影の彼女の瞳に涙が浮かび上がり、瞬き一つで簡単に零れ落ちていく。
(……まったく、)
この小娘ときたら、最後まで思い通りにならない。 これを見たくなかったから――消えゆく自分に涙する彼女を見たくなかったから、何も知らせず遠ざけたと言うのに。
(幻であるなら……最後くらい、微笑ってくれればいいものを……)
憎らしくて、残酷で、誰より優しい。ワタクシの花嫁。 お前が語る真白の未来を、いつか共に、見たいと思った。
お前と共に、生きたいと思った。
「――……ナマエ」
“もしも”、ワタクシがお前と同じ、人間だったなら。 “もしも”、違った出会い方をしていたならば。
もっと、お前を大事にできただろうか。 お前を泣かせずに、傷つけずに済んだだろうか。
(――ですが、その様な ことは、)
今更いくら考えたとしても栓なきこと。
例えワタクシが普通の人間であったなら、きっと、出会うことさえなかった。 お前を知らず、この胸の痛みを知らず。 燃え尽きていく星の祈りを、あの朝焼けの眩しささえ、気づくこともなく。 ただ淡々と生き、そして虚しく死んでいったのでしょう。
けれど、ワタクシが呪われた身であったから。 あんな出会い方をしたからこそ。 お前はワタクシに心を砕き、暗闇に逃げ込んだ生の、燃え尽きる間際を傍らで照らしてくれた。
『それだけで良いのだ』と。 『報われたのだ』と。
わかっていても、夢想せずにいられない。
( もしも、)
“もしも”ワタクシに、未来があったなら
(――……そうであればワタクシは、)
絶対に、お前を手放したりなどしなかった。 ――そんなことばかり、考えてしまう。
「――……ナマエ、」
お前がワタクシを、欲深い“人間”にした。
「 愛して、います 」
霞む幻影の頬を慈しむように掌で包み、秘めてきた想いを吐露する。 最期なのだから、これくらいの身勝手は赦されても良いだろう。 もういい加減、楽になっても良いだろう。
「 お前を、愛していますよ 」
胸のつかえが降りたように、すっと気分が軽くなる。 インゴがその眼を閉じるのと同時に、ナマエの瞳から零れたものがインゴの掌にじわりと溶けた。
『 こうやって掌で受けとめると、溶けて雫になるんです 』
(――そうか、これが。)
閉じた瞼の裏に、夢に見た一面の白い丘。 ふわりふわりと舞い落ちる、儚い雪の華の向こう側。 インゴを振り向き、はにかんだ少女に幾億の想いを馳せる。
( ああ、なんて、 )
あたたか な
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