インゴと二人で流星群を観たあの日から、時間はひどく穏やかに流れて行った。 後から考えれば、ナマエにとってその時間はまるで純白の真綿に包まれたような、幸福な夢の中のような日々に違いなかった。
「――それは?」
いつものようにインゴの檻を訪れたナマエの手に一つのグラス。 灯を燈したカンテラの横に置いたそれには小さな花が活けられていて、寝台に寝転がっていたインゴがゆっくりと上体を起こした。
「さっき、ポケモン達と散歩に行ったときに見つけたんです」
嬉しそうに振り向いたナマエがグラスに活けた花の一輪を抜き取り、インゴの前に差し出す。 白く柔らかな、可憐な花だった。 思わず受け取ったインゴが茎を摘まんだ指先でくるりと花を回し、まじまじと見入る。そんな姿にナマエはまた頬を綻ばせ、彼の傍らに静かに腰を下ろした。
「とっても綺麗だったから、インゴさんにも見てもらいたくて」
その花は夜空の星に似ていた。 白い光のように細く伸びた花弁はけぶるような産毛に包まれ、触れれば溶けてしまいそうに儚い。 そしてその儚さは、ナマエの中に純白に輝く雪の結晶も思わせた。
『……ええ、いつか』
あの夜の約束を、インゴは覚えてくれているだろうか。 他愛ない会話の、何の拘束力もない、ただの口約束。インゴにしてみれば気まぐれに話を合わせただけの、出任せに過ぎないのかもしれない。
それでもナマエは嬉しかった。 インゴが、“これから”の約束をくれたこと。 ただそれだけのことが愛おしくて、思い出すたびに胸が熱くて、ひたすらに嬉しかった。
だからこの花を、彼に届けたいと思った。 あの約束を、彼の傍らに。目に見える形で。手を伸ばせば触れられる距離で。 彼が一人で過ごす時間も、自分の代わりに寄り添っていてほしいから。
(――インゴさん、実は結構寂しがりだからなぁ)
何かにつけては自分を呼びつけ離そうとしないインゴを思い出してひっそりと笑みを噛み殺し、ナマエは未だに花を見つめているインゴの横顔を窺った。 気に入ったのだろうか。その熱心なまでにひたむきな視線に嫉妬してしまいそうな自分に気が付き、今度は苦笑を押しこめる。
「……そのお花、好きなんですか?私は初めて見たんですけど、なんて名前なんでしょう?」
「――『ナマエ』」
「……………え、?」
不意に名前を呼ばれ、ナマエは一瞬、息を飲んで固まった。 彼に――インゴに名前を呼ばれるのは、これが初めてのことだった。
「っ……ぁ、の…?」 「何を呆けた顔をしているのです。お前がこの花の名前を訊いたのでしょう」 「……え?っぇえ?で、で もそれ…私の……!」 「――ええ、そうですね。お前に似て小さく、可憐で、美しい」
「ですからきっと、この花は『ナマエ』というのでしょう」
ふわりと揺れる白い花弁へ思わせぶりに唇を寄せ、インゴが緩慢に目を細めた。 そのまま碧い瞳だけがナマエを捉え、心臓がどくりと大きく脈打つ。 自分でもわかるほどの熱が一斉に頬に拡がっていくのと同時に、インゴの形の良い唇の端がくっと吊り上って綺麗な弧を描いた。
「っっ………!!インゴさんッ!からかってますね!!?」 「、フッ」
( あ、)
勢いインゴの腕を掴んで詰め寄ったナマエから顔を背け、インゴが背を丸めた。 くつくつと笑い声を漏らすその肩が小さく揺れている。眉根を寄せて、おかしくて堪らないと言いたげに。――ひどく、楽しそうに。
(あ、笑って――インゴさん、が、笑ってる)
うれしい。 うれしい。うれしい。
(どうし、よ。すごく、嬉しい……!!)
いつもの嫌味や皮肉で浮かべるソレではない、正真正銘のインゴの笑顔。 それを見るのも、ナマエは初めてだった。
鼻の奥がツンとして、目の前に滲みだした熱で視界が歪む。 息をするのも苦しいくらいに胸が締めつけられるようで、ナマエは掴んでいたインゴの腕に縋るように抱きつき、ぐいぐいと額を押しつけた。 それを拗ねていると思ったのか、インゴの手が不器用にナマエの頭を撫でるものだから、余計に泣きたくなってしまう。
彼を失いたくないと、声にならない胸の内で強く強く思った。
「――お取込み中に悪いんだケド、ちょっとイイかな?」
「ッ――オーナー!!」
カーテンの向こう側から聞こえたエメットの声に、頭の芯がサッと冷たくなった。 慌ててインゴの腕から離れ、堪えきれなかった涙で僅かながらも濡れてしまった目元を手の甲で拭う。そうすると、隣のインゴが不機嫌そうに舌打ちするのが聴こえた。
「急にゴメンネ。明日の準備に人手が足りなくてサ。ナマエにも手伝ってもらおうと思って」 「わっ、わかりました!今行きますっ!」 「………」 「っ、ぅあ!」
寝台から立ち上がって檻の入口に向かおうとしたナマエの腕をインゴの手が素早く捕まえる。 身体がつんのめり、バランスを崩してよろめいた彼女を腕の中に受け止めたインゴが、じっとナマエを見下ろした。
「……インゴさん……?」 「………」 「あの……えっと。また、すぐに戻ってきますから」
「――だから、大丈夫ですよ」
まるで母親に置き去りにされた子供のような眼をするインゴに微笑みかけ、彼の少し硬い髪を撫でつける。目を閉じてそれを受け入れたインゴの腕の力が緩まったところで、今度こそナマエは彼の許を離れ、檻の外へ向かった。 そのナマエと入れ違いに、今度はエメットが檻の中へ足を踏み入れる。
「先に行ってテ。そろそろラムセスが目を回すころダ」 「……はい」
最後にインゴを心配そうに振り返ったナマエの足音が遠退いて行く。 それが完全に聴こえなくなった時、寝台がドサリと重い音を立てた。 先ほどまでは平気そうな顔をしていたインゴが、まるで糸が切れたように倒れ込んだ音だった。
「……意地だネェ、インゴ」 「……うる、さい」
エメットは知っていた。 ナマエには頑なに隠しているが、インゴにまた例の発作の症状が現れていること。 そしてその発症間隔が、日を追うごとに短くなってきていることを。
「………あの子には、本当に何も話さナイつもり?」 「……話す、必要など……ありません」 「……――ドウシテ?」
インゴを照らす灯火が揺れる。まるで今にも消えてしまいそうに。 その灯りの中で、インゴは手の中の小さな白い花をただひたすらに見つめていた。
「きっと、あの子は泣くヨ。たくさん、たくさん泣くヨ」 「………バカな、ことを」
短く喉で笑った途端、喉に込み上げた違和感にインゴが背を丸めて咳込んだ。 何かが喉に絡むようなその咳と、ヒューヒュー掠れた呼吸音にエメットが目を見開き、彼の許へ慌てて駆け寄る。 背を撫でようと伸ばされた手を、しかしインゴは冷たく追い払った。
「ッ……暫く、アレを…近づけるな」 「…………わかった」
言って、寂しげな微笑を浮かべたエメットが寝台を離れる。 グラスに活けられた白い花を見たエメットの瞳が一瞬だけ、泣き出しそうに歪んだ。
「――インゴ。ボクは、どんなカタチであれキミの選択を尊重するヨ。ダカラ、さ」
「『後悔するようなことだけはするな』、ですか……」
エメットもいなくなった一人きりの檻の中で、彼の言葉を反芻したインゴが力なく笑う。 意地や矜持などというものではない。 今までナマエを散々痛めつけ、傷つけて、泣かせてきたのは他ならないインゴ自身だった。 それでも、
『きっと、あの子は泣くヨ』
――だからこそ、言う必要なんてない。
「ッ……ゴフッ、!」
再び込み上げてきたものに気管を塞がれ、インゴは激しく咽こんだ。 眩暈と共に断続的に訪れる嘔吐感と喉を焼くような痛みに顔を顰め、咄嗟に口を塞いだ掌に握りしめられた、あの小さな花。 純白の花弁はドロリと淀んだ紅色に染まり、整わない呼吸の中で、インゴはゆっくりとため息をついた。
「………『ナマエ』、」
今日、初めて口にした彼女の名前。 まるでずっと昔から知っていたかのように馴染んだそれを、インゴは唇だけで幾度となく繰り返す。 そうしているだけで少し呼吸が楽になるようなそんな気がして、インゴはまた苦い笑みを浮かべた。
「――ナマエ、」
今のこの姿を彼女に見られるわけにはいかない。 それなのに、なぜだろう。
会いたくて。無性に。傍にいてほしくて。
きっと守れはしない約束を、無邪気に信じたあの微笑みを手離したくないと、軋む心が叫びをあげた。
(14.01.19)
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