ナマエが見世物小屋を訪れたあの日から、季節は音もなく移り変わろうとしていた。
「話って、なんですか……?」
珍しく呼び出されたエメットの部屋で、促された椅子に座りもせずに問いかける。 そんなナマエに小さく肩を竦め、苦笑したエメットがゆったりと足を組みかえた。
「別に、大したことじゃないヨ。ただ、キミと甘いものでも食べながらオシャベリしたかったダケ」 「………」 「……――最近、インゴとうまくいってるみたいだネ」
『インゴ』。 その名前が出た途端、不安を押し隠していたナマエの表情が強張る。 砂糖漬けにされた薔薇の花弁をひとつ摘まみあげ、エメットは唇だけで笑った。
「喜ばしいコトだヨ。前みたいに毎回ボロボロにされるキミを見るのは、さすがのボクも胸が痛むし」 「ッ……」 「ついさっきもサ、様子を見に行ったら足音でキミじゃないってわかってたみたいで、顔を合わせるなり散々イヤミ言われちゃった。インゴってばホント、キミが『お気に入り』なんだから……」
「――正直、ボクも予想外」
呟くエメットの声色がひとつ、低くなった。 摘まんだ花弁を指先でくるりと弄び、未だ笑みを絶やさない口元へ運ぶ。 その光景から目を逸らすことができず、息を飲んで見つけるナマエの視線の先で、淡い花弁は三日月形に姿を変えた。
「………なに、が…言いたいんですか」
咀嚼を終え、ティーカップを傾けたエメットが目を眇めた。 感情を感じさせない無色の眼差しに怯える自身を鼓舞するため握りしめた掌に爪が刺さる。 それでも負けじと挑むように、視線だけはエメットを捉えたままのナマエに、彼はまた形だけの微笑を浮かべた。
「前に、言ったことがあったよネ?『インゴの子供がほしい』って」 「ッ……!」 「“ソッチ”はどうなってる?」
「最後にインゴに抱かれたのは、いつ?」
そう言ってカップを置いたエメットの眼差しは全てを見透かしていた。
「 そ、れは……っ」
応える言葉が、喉の奥で空回りした。
このひと月――正確には、インゴと“約束”を交わしたあの日を境に、インゴがナマエを抱くことはなかった。 ただ他愛ない言葉を交わし、気まぐれに寄り添い、互いのぬくもりに微睡む。その繰り返し。 時折インゴによって悪戯に熱を灯されることはあれども、決して交わることまではしない。
いつかそれをエメットに勘付かれる日が来るのを――まさに今、この瞬間を、ナマエはずっと心のどこかで恐れていた。
「キミがさせてあげナイの?――それとも、インゴにその気がナイのかな?」 「ッ!!」
ビクリと跳ねた肩を見たエメットの瞳が何かを確信したように伏せられた。 紅色の波に浮かべた花弁の輪郭がふわりとほどけていく様を見つめながら、けだるげに頬杖をつく。 エメットはほんの少し、インゴに同情した。
「……まぁ、理由はどうあれ、ボクとしても“このまま”ってワケにはいかないかな」 「!!どういう、っ」 「だってそれじゃ、キミをインゴの傍に置いておく意味がナイ」 「――!!!」
ナマエの顔色がサッと蒼褪めていく。 今にも震えだしそうなほど蒼白になって唇を噛みしめる姿に、足を組みかえたエメットは小さな子供にするように首を傾げて微笑みかけた。
「――なぁんて、ネ」
『ジョーダンジョーダン!』 軽薄ぶった調子で続けたエメットがクスクス笑い、徐に腰を上げる。 それでも、最早そんな彼が目に入っていないかのように凍りついて固まっているナマエに、彼は薄い笑みを浮かべて背を屈め、内緒話をするように囁いた。
「だぁいじょうぶ。キミはもう、十分優秀な“猛獣使い”だ。ボクはそう思ってる」 「ッ !」
エメットの言わんとしていることを理解して、ナマエは弾かれたように顔を上げた。 同時に、上質な革の手袋をはめたエメットの掌が、困惑に揺れるナマエの眼差しを慈しむ手つきで輪郭を包み込む。そのヒヤリと冷たい温度に、ナマエの背筋が無意識に戦慄いた。
「――今夜のステージ、立ってくれるネ?ナマエ」
杯に毒を垂らすような彼の言葉に、頷く以外の選択肢など与えられてはいなかった。
* * *
(どうしよう……)
いつものショーで使っているものよりいくらか小さいテントには既に観客が大入満員。 以前一度だけ体感した、あのじっとりと肌に張り付く異様な熱気。おぞましささえ感じるほどの注目が集まる鉄格子に囲まれたステージのすぐ脇で、開演の時間を目前に控えたナマエは落ち着きなく辺りを見回していた。
結局あれから、昼の公演の準備や衣装合わせ、ステージの打ち合わせのためにまともな休憩もなく駆けずり回ったせいで、ナマエには冷静になる時間さえ与えられなかった。 ――もちろん、インゴに会いに行く余裕など一切ない。 まるで意図的にそう仕組まれていたかのように。
(……少しだけでも、話をしておきたかったのに)
“猛獣使い”としてステージに立つこと。 インゴを猛獣として――見世物として扱うことに、ナマエには未だに強い抵抗があった。 今か今かとインゴの登場を待ち望む囁き声と興奮の渦がどうしようもなく汚らわしいものに思えて、そこに彼を晒すのが嫌だった。 なにより、ナマエもまたそんな彼らと同じなのだと――インゴにそう思われることが、嫌だった。
(だけど――こうしないと私は……ッ)
「――ナマエ、時間だヨ」
気がつけば舞台衣装を身にまとったエメットが背後で控えていた。 彼に肩を叩かれ、振り向いたナマエが咄嗟に喉を絞る。けれど結局、そこから言葉は続かない。 俯くナマエの背中に手を添えたエメットは、言い聞かせるように穏やかに、優しく言った。
「今日はインゴを観てもらうダケだから。檻を開けた後は、全部インゴに任せておけばイイ」 「っ……オーナー、やっぱり私……!」 「――さぁ、行ってオイデ!」
背中を強く押され、迷いを断ち切れないまま躍り出た身体がスポットライトに照らしだされる。 途端、待ちわびていた観客からにわかに上がった歓声に、全身に纏わりつく無遠慮な視線の不気味さに、ナマエの心臓はぞくりと縮み、膝が震えだしそうになった。
「 っみ、皆様……今宵はようこそ、おこしくださいました……!」
それでも、上擦る声をどうにか張り上げ、教えられた口上を並べる。 そうしなければ――“猛獣使い”としてこの舞台に立たなければ、インゴから引き離されてしまう。 想像しただけで胸が苦しくて、息ができなくなってしまいそうで、ナマエは今すぐにでもこの場から逃げ出したいのを懸命に堪えて顔を上げた。
「――では、ご覧ください。我らがサーカスの花形、『この世で最も美しく、残酷なフリーク』。猛獣インゴの、呪われた姿を――!!」
運び込まれたインゴの檻に被せられていた覆いを掴み、一息に引き剥がす。
爆発する歓声。悲鳴。伝染する熱狂。 それを一身に受ける檻の中のインゴの姿に、ナマエは一瞬、呼吸が止まりそうになった。
「イ ンゴ、さん――?」
尾をはためかせる真紅の覆いの向こう、冷たい檻の隅、座り込んで鉄格子に凭れかかるインゴは今にも崩れ落ちそうだった。
「ッ――インゴさん……!!!」
頭の中が真っ白になり、気が付けばナマエは舞台の進行も忘れて彼の名を叫び、与えられた鍵を使って檻の中に飛び込んでいた。
「インゴさん…ッ!どうして…なにが……!!」 「ッ…来るな……!早く、ここから……ッ」
(まさか、またあの発作が……!?)
駆け寄るナマエを近づけまいと、座り込んだインゴが力なく腕を振るう。 苦痛を耐えるように短く息を乱して肩を上下させるその姿に、ナマエはまた例の発作でインゴが動けなくなったのではと、助けを求めて背後を振り向いた。 そしてその眼差しの先、檻の入口にいた人物を捉えたナマエの瞳が大きく見開かれる。
「――…オー、ナー……?」
色のない微笑を貼りつけたエメットの手で、寒々しい音を立てた鉄格子の扉が再び閉じられた。
「――さぁ、長らくお待たせ致しました!今宵のショーは当サーカス初の試み!!発情した猛獣の檻に閉じ込められてしまったのは麗しの猛獣使い!!果たして彼女はどうなってしまうのか――!?」
( な に、 ? )
観客に向き直ったエメットが何を言っているのか、すぐには理解できなかった。 ただ、舐めまわすような無数の目の矛先が、今は自分にも向けられているのを肌で感じる。 滲み出た一筋の汗がこめかみを伝い落ちて、空っぽの頭に反響するざわめきの中、ナマエの喉がごくりと音を立てた。
「……それじゃナマエ、『頑張って』 ネ?」
もう一度檻の中を振り向き、観客達には聞こえない声でそう言ったエメットが新たに取り出した南京錠で外側から扉を塞ぐ。 その様子を呆然と眺めて、ナマエは漸く全てを悟った。
エメットは最初から、こうするつもりだった。 ナマエを追い詰めた上で猛獣使いとして舞台に立たせ、衆目の前でインゴと交わらせる。 ただ、彼の目的を果たすために――。
「ッ、出て、行きなさい……!今、すぐに、…っ」
「っ――!!」
苦しげなインゴの声に我に返って彼を振り向けば、それとほぼ同時に鉄格子がひどい音を立てた。 観客席からは悲鳴があがり、ざわめきは一層大きくなる。 インゴの手によって歪められた鉄格子は、ナマエ一人ならどうにか通り抜けられそうな隙間ができていた。
「ぁ……ッ、」
しかし、ナマエはその場に固まったまま、根が張ってしまったように身動きが取れない。
(どうし、よう…インゴさん、苦しそう……!)
きっと何か性質の悪い薬でも使われているのだろう。 インゴは全身に汗をかいて、呼吸さえ苦しそうに苦悶の表情を浮かべ、けれど尚鋭い双眸だけが、危険な光を孕んでギラギラと煌いている。
このまま自分がここから逃げ出してしまったら、彼は一体どうなるのだろう。 誰が彼を救ってやれるのか。 自分でないとしたら、他の誰が。
次は誰が、彼の『花嫁』に――?
『最後にインゴに抱かれたのは、いつ?』
『――それとも、インゴにその気がナイのかな?』
『だってそれじゃ、キミをインゴの傍に置いておく意味がナイ』
「―――……インゴ、さん」
ナマエの声に顔を上げたインゴの瞳が驚愕に染まる。 小さな腕で精いっぱい抱きしめたインゴの体はギシリと軋んで、何かを耐えるように強張っていた。 観客の声も、あの不快な視線も、何もかもが遠い。 ナマエはただ、腕の中のインゴを感じることだけに、その背を撫でることだけに全てを傾けた。
「インゴさん、」 「、な に、を……、」 「インゴさん、大丈夫……大丈夫です。私、恐くなんて、ありません」
「だから――我慢、しないで」
他の誰かなんて、求めないで。 私だけを求めて。
私だけを見て。
「 食べて、ください 」
インゴの眼差しの色が変わる。 まるで飢えたケダモノのように自分へ覆いかぶさったインゴの手によって衣装が引き裂かれる音を最後に、ナマエはそっと目を閉じた。
どこからともなく上がる狂気じみた感嘆の声も、顔も名前も知らない大勢の、興奮に満ちた卑しい視線も、恐くなんてない。 インゴがそれを感じさせなかったから。 大きな体でナマエを隠し、インゴ以外何も見えないように、聞こえないように、守ってくれたから。 ナマエが何も考えられないよう、とめどない快楽を与えてくれたから。
――だから、ナマエは恐かった。
そんなインゴの優しさに、仄暗い悦びを芽吹かせた自分自身が、何よりも恐ろしかった。
(13.12.08)
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