「 あ、」
赤。 目覚めと共に感じた違和感に寝間着を捲れば、案の定。 胸がささやかに膨らみ始めた頃から毎月訪れるそれに、今更驚きはしない。 驚きはしない。けれど。 ツキンと痛んだのは下腹部ではなくて、もっと、
胸の 奥が、
* * *
「おはようございます、インゴさん」
オーナーから預かった鍵で重い鉄格子の扉を開ける。それもすっかり習慣になってしまった。 手は、もう震えることはない。 暗闇の向こうからこちらをじっと窺うあの瞳は、やっぱりマジマジと見つめれば威圧感はあるものの、そこに以前のような敵意や憎悪の感情は見受けられない。
――あれからインゴさんは、少しだけ変わった。
「やっと雨が上がりましたね。お洗濯ものも溜まってるし、今日は忙しくなりそうです」
持ってきた朝食のトレーを、寝台から少し離れたテーブルの上に置く。 それはオーナーに用意してもらって檻の中に運び入れた物の一つで、脇には簡素なイスが二つ。 そしてカンテラが一つ。 日の光を招くことを嫌うインゴさんが譲歩してくれたそれに灯を燈すと辺りが柔らかな橙色に染まった。
「それにポケモン達もとっても嬉しそうで――っ、え?」
話の途中、背後から伸びてきた手が腰に回わされ、予告なく地面から離れた足が不安定に揺れた。 がくりとバランスを崩した上半身が倒れて、だけどギリギリ、テーブルの上の食器諸々に被害はないことに的外れに安堵する。その時には、持ち上げられた身体が背中から寝台に沈んでいた。
「ッ、!?」
そんなことをする犯人なんて、もちろんインゴさん以外にはありえないわけで。 何が起こったのかわからず、目を丸くしてインゴさんを凝視することしかできない私の、頭のてっぺんからつま先まで、インゴさんの妙にギラついた視線が油断なく行き交った。
「――誰に」 「……へ?」 「誰に、やられましたか。正直に言いなさい」
ズイと鼻先まで顔を近づけてきたインゴさんの仄暗い光が揺れる瞳が私を覗き込む。 出会ったばかりの頃の彼を彷彿とさせる獰猛で禍々しいそれは、だけど目の前の私ではなく、私を通した“誰か”へ向けられているような気がした。 その迫力に思わず口を噤み、喉を鳴らせば憎々しげな舌打ちがひとつ。 正直に言えばかなり、純粋に恐い。 けれどそれ以前に、私はインゴさんが何を言っているのか理解ができなかった。
「 ぁ、の」
固まっている私に痺れを切らしたのか、スッと眼光を絞ったインゴさんがおもむろに顔を伏せた。 ――かと思うと、すん、すん、と鼻を鳴らす音。 首筋から胸元へ、鳩尾へ。何かを探しているかのようにインゴさんの頭が徐々に下がっていく。
「イ ンゴ、さん……?」 「……どこを」 「え?」
「……血の、匂いが」
(――あ、)
あ。
「〜〜〜っっ!!!ち、 がっ!」
ばか ばか ばか やっとわかった。 ばか。私のバカ。 だけどインゴさんはもっとバカ!!
「違うっ!違い、ます!これは、そうじゃ なくてッ!!」
顔がヤケドしちゃいそうなほど熱い。恥ずかしい。すごく。すごく恥ずかしい。 だけどそんなことに構ってられなくて、下腹部まで降りてスカートに手を掛けていたインゴさんの頭を力いっぱい思い切り引きはがす。と、不意の反撃を受けたインゴさんが小さく呻き声を上げてギロリと私を睨んだ。 でも、でも、それどころじゃなくて!
「っ怪我、とかじゃなくて……!し、自然なこと、なの で………っ」 「……――」
すん。 最後にもう一度鼻を鳴らしたインゴさんが、はたと何かに思い当たったように動きを止めた。 その顔を、見ていられない。耐え切れずに思い切り顔を逸らして目を閉じても視線が痛くて頬はずっと火照ったまま、息をすることさえ苦しい。 そんな沈黙が流れた後、今度は物理的に苦しくなった。 インゴさんが、そのまま私の胸元に倒れこんできたからだった。
「っ……ぃ、インゴ、さん……?」 「………」
無言のまま、インゴさんは居心地のいい場所を探してもぞもぞ動いて、そしてまた静かになる。 腰から回った腕がぎゅっと掬い上げるように私を抱きしめて、苦しいくらいなのに、シャツの合間から覗く素肌に触れるインゴさんの髪が不思議とくすぐったい気持ちにさせてしまう。
「もしかしてインゴさん、心配してくれたんですか……?」 「――……お前が、ワタクシ以外の者に傷をつけられるのが、気に入らないだけです」 「……その言い方だと、インゴさんになら怪我させられても良いみたいに聞こえますけど」 「当然でしょう」
不満をめいっぱいつめこんだ私の言葉を、小さく鼻を鳴らしたインゴさんが一笑に付す。
「お前は、ワタクシの『花嫁』なのですから」
「――……」
無意識のうちにインゴさんの背中を撫でていた手が、止まった。
忘れていた――いや、『忘れようとしていた』その言葉。 『花嫁』。 インゴさんの口からそれが出るだけで簡単に胸がざわついて、落ち着かなくなってしまう。 気付けばいつだってすぐそこにある不安の影に、足を取られそうに なる。
「………インゴさん、は、」 「……ん?」 「――インゴさん、も……オーナーと、同じ考え…ですか。つまり……その、」
「子供、が……――」
言葉が喉の奥に詰まったように、その先を言えなかった。 それでも言わんとしていることを的確に汲み取ったのか、今にも眠ってしまいそうに胸元でまどろんでいたインゴさんが埋めていた顔を上げる。 その視線を受け止められずに慌てて目を逸らすと、唇の端が小さく震えてしまった。 そんな私をじっと見つめ、インゴさんはやがてゆっくりとため息をついたかと思うと、もう一度私の上に沈みこんできた。
「……別に、興味はありませんね」 「っ…え?」 「ワタクシには関係ない。血の繋がりがあると言っても所詮は他人でしょう。取り立てて『ほしい』とも思いませんし、できたからと言って口を出すつもりもありません」 「そ んな、っそれじゃ……!」
あまりにも寂しい言い方だと咄嗟に反論しようとして――だけど、できなかった。
インゴさんにとっての、『親子』。 その姿を、在り方を、私は漠然と想像することしかできない。 けれどきっとそれは、私の思い描くそれとはまったく違うのだろう。 ――彼の、幼い日々の記憶がそうさせるのだろう。 そう思うと、何も言えなかった。
「――……そもそも、あれはワタクシと同じフリークの子を求めているようですが、いくらワタクシの血を引くと言ってもそうそう同じような子供が生れるとも限らない」 「、そう なんですか……?」 「血筋に関係はありません。フリークの子は、ごく普通の“人間の”夫婦の間に突如生まれてきます。 まぁ、だからと言って他の者の子を生むよりはさすがに確実性も高いのかもしれませんが……大体にしてワタクシと同じ境遇の者が子を残したという話自体、聞いたことがない。つまり、前例がありません」 「!ッ……ひとりも、ですか?」 「ええ。なぜなら――………」
そこでふと、インゴさんの言葉が不自然に途切れた。 何かを言いかけて、だけど寸前で思いとどまったかのように、視線が僅かに逸らされる。 いつもの高慢ぶった彼らしくない仕草。 些細なことではあったけど妙に違和感が煙って――どうしてだろう。
一瞬、込み上げた不安に胸が詰まった。
「――あの村で暮らす限り、異形の者がまともに伴侶を得られたとは思えません」
束の間の沈黙もまるでなかったかのようにそう続けて、皮肉交じりの笑みを浮かべたインゴさんの手が左腕に触れた。 傷跡の残る肌の上を慈しむように撫で降りた大きな手にそのまま掌を掬われる。 未だ言葉を紡げない私に見せつけるように、緩慢に目を細めたインゴさんは殊更ゆっくりとした動作で、薬指の付け根にやわらかく唇を押しつけた。
「……最も、お前がその先例になりたいと言うのなら協力は惜しみませんが」
「 ――ッッ!!?」
ゆらり、インゴさんの背後で長い尾が揺れる影が見えた。 その薄い笑みと言葉の意味を理解するのと同時に全身がカッと熱を持って、身体が強張る。 からかわれてる。遊ばれてる。 それはわかってるのに。 咄嗟には隠しきれない、自分でも嫌になるほどわかりやすい反応をインゴさんはいたくお気に召したようで。 クツクツと低く喉を鳴らした彼がもう一度、胸元に顔を沈める体勢で無遠慮に伸し掛かってきた。
「〜〜〜っも、からかうの、も、いい加減にしてくださいっ!!」 「おや。では本気ならば良いと?」 「ちが…ッ!!」 「申し訳ありませんが、あいにく今はそのような気分ではありませんので」 「だっ、だから違うって言ってるじゃないですか!!」
ぎゃんぎゃん喚く私をはいはいと適当にあしらって、私を腕に抱えたままごろりと横になったインゴさんが目を閉じる。 これはもうこのまま惰眠コースにはいるつもりだろう。 私を抱く腕は苦しさを感じる一歩手前の絶妙な力加減で、だけど絶対に抜け出せそうにない。
「っ……あの、インゴさん私今日はたくさん仕事が、」 「お前の役目はワタクシの『花嫁』の筈ですが?」 「……いや、でもですね。そうは言っても、」 「青白い顔で動き回られては他の者もやり辛いでしょう。今日は大人しくワタクシの傍にいなさい」 「 ぇ」
目を丸くしてインゴさんを見る私を置き去りにして、小さく鼻を鳴らしたインゴさんは早々に寝る体勢に入ってしまった。 揺れていた尾もぽすんとシーツに落ちる音。 静かになった空間にインゴさんの息遣いの微かな音だけが聴こえる。
(………ずるい、なぁ)
体調のこと、気づいてたなんて。そんなそぶり見せなかったくせに。 ほんとに、この人は。
「――……変わりました、ね」
ただひとつの約束をしたあの日から、インゴさんはますます意地悪で、我儘で、気まぐれで。
少しだけ 優しくなった。
(13.08.08)
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