今のこれが一体どういう状況なのか、残念ながらまったくわからなかった。
「………ノボリさん?」 「はい」
いやいやいや。「はい」じゃなくて。そうじゃなくて。
イスに縛られてたはずなのに、どうしてソファに移動してるんですか。 なんでシャツのボタンが半分も開いちゃってんですか。 下着丸見えであろう俺の胸元に顔埋めて、あんた何しちゃってんですか。
「仕事を片付けて戻って参りましたらナマエ様が眠っていらっしゃいましたので。随分お疲れのご様子でしたし、起こすのも忍びなく。イスよりはマシだろうとソファにお運びしたのですが、懐かしい寝顔を見つめているうちにこう……込み上げるものがございまして、つい」
『つい』、なんだ。 つい寝てる人間の服に手をかけたってのかばか。ばか。 おかげでこっちは目が覚めた瞬間本気で息が止まるかと思ったんだぞ。
「……心臓に悪いから、そういうのやめてください」 「その様ですね。こうしていると、よく聴こえます」
ふふ、と小さく笑って、ノボリさんの頭が俺の胸元に深く沈む。 素肌に触れる吐息だとか、髪だとかがくすぐったくて、恥ずかしさに身をよじる。 それでも離してくれないノボリさんに観念して、唯一自由に動かせる腕を持ち上げ、ノボリさんの背中に触れた。
「……ノボリさん、俺、もうどこにも行かないよ」
「――……はい、」
はい。 もう一度、消え入りそうな声で言ったノボリさんが、小さく鼻を鳴らす。 左胸をそっと濡らした水滴の感覚に、『この人を選んで良かった』と、本当にそう思った。
* * *
「俺も手伝います」 「ありがとうございます。ですがナマエ様、長旅でお疲れでしょう。どうぞ座って休んでいてくださいまし」
久しぶりのノボリさんとクダリさんの家。 久しぶりのキッチン。 久しぶりのエプロン姿のノボリさん。
別に何かが変わったわけでもないし、何年も離れてたわけじゃない。それなのに、妙に懐かしくて、それでいてそわそわしてしまう。 座っていろと言われてもどうにも落ち着かず、キッチンで相変わらず手際よく夕食の準備に勤しんでいるノボリさんを横目に窺うと、その後ろ姿に心臓がぎゅっと締めつけられた気がした。
(あー……なんて言うか、)
だめだ、これは。
ふらふらと、吸い寄せられたように立ち上がってノボリさんの背中を目指す。 きっと俺はもう手遅れなんだろう。 だってこんなにも、ノボリさんに触ってたくて仕方ないんだ。
「ノボリ、さん」
ノボリさんが振り向くよりも早く、するりと腕を回して、背中に思い切り抱きついた。
「………すき」
ああ、もう。好きだ。 好きだ好きだ好きだ好きだ。大好きだ。
人のことなんかどうこう言えない。 手を伸ばせば簡単に触れられる、そんな距離にいるのに見てるだけなんてできるわけない。 触りたい。イチャイチャしたい。くっついてたい。 離れたくない。絶対。
(ほんとに……どうしてあの日、この人から離れられたんだろう)
触ることも、声を聴くこともできない時間を、どうしてただやり過ごすことができたんだろう。 こうして子供みたいにひっついてる今だって、泣きたくなるほどなのに。 この人のことが、こんなに好きなのに。
「――……ナマエ様、危ないですよ」 「 っ、へ?あっ!ご、ごめん料理中に!!怪我とかしなかっ、」 「いえ、わたくしではなくて」
「ナマエ様が」
「………――」
不穏なほど落ち着いた声に、熱に浮かされてたピンクな思考が一気に冷やされた。
ノボリさんのエプロンを握りしめていた掌をそーっと開いて、気配を悟らせないように撤退を試みる。 その俺の腕を、ノボリさんの掌が掴んで勢いよく前に引き戻された。
「ぶっ!!ちょっ、ノボリさ、」 「いけません」
目の前にあったノボリさんの背中に顔面から突っ込んでブサイクな声を出してしまった俺の抗議を遮り、ノボリさんが掌に力を込める。 その手の中が、じっとりと、妙に熱い。
「………今、絶対にこちらを見てはいけませんよ」
まるで何かを堪えるように、絞り出すようにそう言ったノボリさんの声は少し震えてて。 視線だけ上げてどうにか捉えたその耳の端が、真っ赤になってて。
「え、ノボリさん可愛い……」
思わず呟いてしまったことを心の底から後悔するのは、僅か数時間後のことだった。
(13.06.01)
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