ポケモン | ナノ


小さな獣の夢を見た。

全身真っ黒で、切っ先のような双眸だけがギラギラと光っている。
獣は手負いで、酷く弱っている様子だった。

助けてやろうと差し出した手を、鋭利な爪が引き裂く。
相手を傷つけるためだけに尖らせた牙が貫く。
体中が瞬く間に傷だらけになって、滴り落ちた血が純白の雪を汚した。

獣は人の手など必要としていなかった。

『お前に助けられるくらいなら、このまま朽ち果ててやる』

獣は底の見えない憎悪に淀んだ声で唸り、深い穴の奥に逃げ込んだ。
光の届かないそこは、寒くて、静かで、とても寂しい場所だった。

行く手を阻む茨に足を取られながら、その中を必死に走って、探して、追いかけて、
いつのまにか獣と同じくらいボロボロになった頃
漸く見つけ出した小さな獣は、穴の一番深くでもがき苦しんでいた。

『消えろ 消えろ 消えろ!!!』

凍えそうな息を吐きながら、獣が歯をむき出して叫びだす。
伸ばした手が鋭い痛みを伴って弾かれる。

その瞬間に、涙が溢れた。

間近に見た獣の身体には、数えきれないほどの古い傷跡が残っていた。
もうどうにもならないそれが、今も獣を苦しめている。
心を縛りつけている。
それが、どうしようもなく悲しかった。


『    』


獣の名前を呼ぶ。
ビクリと震えた瞳を見つめたままもう一度手を伸ばし、傷ついた身体に触れる。
冷え切った獣を胸に抱き上げると、脅すように深く爪を立てられた。
それでもかまわず抱きしめて、何度も何度も名前を呼ぶ。

腕の中の獣は徐々に力を抜き、やがて静かに目を閉じた。


( ああ、よかった )


静かな眠りについた獣を抱いて、冷たく暗い穴を出る。
不思議とあたたかい気持ちが胸に満ちて、世界は優しく輝いていた。
獣にも同じ景色を見せてやりたいと思った。

――けれど、眩しい朝日に包まれたその刹那


獣はまるで雪のように 跡形もなく消えてしまった。







「――ッ!!!」


引き付けを起こしたように身体が跳ねた感覚に、ナマエは息を飲んで目を覚ました。

(ぁ、え……なに……ッ?)

身体の中心、心臓が狂ったように悲鳴を上げている。
何かとてつもなく恐ろしい夢を見た気がするのに、思い出すことができない。
引きつる呼吸を逃がすたび、暗闇の中へ夢の残骸が霧散してしまう。

「っ………?」

くらりと眩暈のする頭を抱え、柔らかな寝台の上で体を起こす。
そもそも横になった覚えはない。どこだろうか、ここは。
薄暗い周囲を見回して、眠ってしまう前の記憶を手繰り寄せる。
彷徨う視線が無機質に並ぶ黒い鉄格子を捉えた時、ナマエはハッとして背後を振り向いた。


(いな い……!!)


インゴの姿がない。

主を失った広い寝台は不気味なほどに静まり返り、掌に感じるシーツは既に熱を失っている。
瞬間、治まり始めていた動悸が破裂しそうな程に胸を打った。

「ぁ、ッ…ゃ……イン、ゴ さ…ッ?」

どうして
なんで

混乱する意識の彼方、どこか見覚えのある黒い獣が目を閉じる。
白い慟哭が頭の中を駆け抜け、喉の奥が締めつけられたように息が苦しい。
滲んだ視界が震えてぶれる。

「っぃ……ご…さ――!!」



「――ああ、目が覚めましたか」



「ッ!!?」

静寂の中、振り絞る声で彼の名前を呼んだ声に、拍子抜けするほどあっさりと応える声があった。
驚きに目を見開いてその出所を振り向けば、寝台の更に奥、カーテンの割れ目を潜ったインゴが何食わぬ顔で格子の扉を開け、檻の中に入って来る。
まるで幽霊でも見るように声を失ったままその光景を目で追うナマエの視線に気が付くと、寝台の反対側に腰を下ろしたインゴは皮肉を込めた眼差しで片頬を上げた。

「……獣が檻を抜け出したかと、恐ろしくな――、」

インゴの言葉が中途半端に途切れる。
そうしたのは、飛びつくようにして彼の腕に縋りついたナマエの存在だった。

「インゴ、さん……ッ」
「――……は、?」
「インゴさ……っ、インゴ、さ、んッ……!」

涙につかえながら懸命に自分を呼ぶナマエがインゴの腕に額を押しつける。そうすると、彼女の頬を伝い落ちてきた雫がインゴの体毛を僅かに濡らした。
どうして彼女がそんな状態になっているのか、それにどう対処すればいいのかわからず、呆気にとられたインゴは思わず息を潜めてナマエを凝視する。

束の間の沈黙。
すんと短く鼻を啜る音に尖った耳の端を跳ねさせ、徐にシーツから浮いたインゴの手が吸い寄せられたようにナマエの肩に向かう――その寸前、バッという音が聞こえそうなほど勢いよく身体を離したナマエが、真っ赤な顔でインゴを見上げた。

「あっ、の……!あのっ、えっと……こ、れは、その……!」
「………」
「だかっ、だから……ちがっ、そ、じゃな……〜〜〜っ!!」

自分でも何を言おうとしているのかわかっていないのだろう。
インゴに縋っていた手をパッと離し、支離滅裂な言葉を弁明に繋げたい様子だが、挙動不審にもほどがある。
行き場のない手を、視線をあちこちに泳がせ、やがてそれにも限界が訪れたのだろうか。
再び黙り込んで俯いたナマエが肩を細かく戦慄かせ、そして唐突に、インゴの顔を見もせず寝台から脱走した。

「食事……!なにか、貰って来ます、から……っ、こ、今度はそこに、いてくださいね!!」

言いながらわたわたと鍵を開け、返事も聞かないままテントを飛び出していく。
その足音を呆然と見送ったところで、インゴはふと自分の手が彼女の肩があった位置に浮いたままだったことに改めて気が付き、眉間を歪めて舌打ちした。



* * *



(なっ、なんで……なんであんなこと……!!)

調理場に行く前に顔を洗い、着替えを済ませたナマエは悶々としながらインゴの食事の用意をした。
空が白み始めた時間帯。まだ他の面々が起きてくる気配はない。
昨日の残りだと思われるスープを温めなおして器に注ぎ、一番柔らかそうなパンを選んでトレーに乗せる。
最後に新しい水差しとグラスを用意してトレーを抱え、ナマエは自分の顔と言わず全身が強張っているのを感じた。

(インゴさんが動けるようになってて安心した……?)
(……ううん、違う。それもあるけど、でも……そっちじゃなくて、)

いなくなったと――消えてしまったと、思ったのだ。
インゴが、自分の目の前から。

だから、あんなにも、

(――でも…だからってあんな……!あれじゃまるで私、インゴさんのこと……!!)



『私、は…っ、……あなたの、傍にいたい』



「!!!」

自分の昨夜の言動を思い出し、ナマエの心臓が勢いよく飛び跳ねた。
同時に、込み上げてきた羞恥心が異常な程の熱となり、頬と言わず首筋まで茹で上がる。
もうすぐそこにあるインゴの檻を前にして、ナマエの脚は根が張ったようにその場から動かなくなった。

(ちょ、っと…待って……!あ、あれってよく考えたら……!!)

必死だった。とにかくあの時は。
あんな状態のインゴをひとりになんてしたくなかった。
拒まれているとわかっていても傍にいさせてほしかった。
その為ならば傷つけられてもいいと、本気でそう思っていたからなりふりなんて構っていられなかったのだ。

けれど、冷静になって自分の行いを振り返ってみるとどうだろう。

あの時も――今朝も、あんな風にインゴに泣きついて、縋りついて。
あれではまるで、


「いつまでそこで突っ立っているつもりですか」


「ッ!!あ、ご、ごめんなさ……っ!」

カーテンの向こう側、檻の奥からインゴの声がして、ナマエは咄嗟にそう返事をしてしまった。
直後、『しまった』とまた一人狼狽えるも、返事をした以上もうこの場に留まり続けることはできない。
気配に敏いインゴを心底恨めしく思いながら、内心の動揺をできるだけ表に出さないようにと気を引き締め、カーテンの切れ目を分ける。
そこにはいつも通り、寝台に腰かけてナマエを見据えるインゴの姿。
――その光景にやはり心のどこかで深く安堵してしまう自分に気づき、ナマエは詰めていた息を短く吐き出して唇を結んだ。

「……そっちに、持って行ってもいいですか?」

返事はない。
ただ、その眼差しに拒絶は感じられなかった。

「っ……」

インゴは依然としてナマエから目を逸らさず、観察するように一つ一つの立ち振る舞いを見逃さない。
そのせいで余計に動作がぎこちなくなってしまい、スープをこぼしてしまわないよう、ナマエはいつもよりもずっと慎重に、時間をかけて漸く寝台に辿りついた。
今度、エメットに言ってテーブルだけでも用意してもらおう。
そんなことを考えて気を逸らしながら空いているスペースにトレーを降ろし、前髪の隙間からチラリとインゴを窺う。
――と、やはり自分を見ていた彼と思っていたよりも近い距離で視線が交わってしまい、ナマエの顔に再び隠しきれない熱が昇った。

「あっ、ぅ…えと……!そ、それじゃ私、一旦失礼します、ね!」

そうだ、インゴは人前では食事をしないはず。
いい口実を見つけた気がして絡んだ視線をあからさますぎるほど大げさに外し、ナマエは再び檻の外へ出ようとした。
しかしそれは、インゴの一言で簡単に防がれてしまう。

「そこで待っていなさい」
「――………え?」

振り向く視線の先で、トレーを自分へ引き寄せたインゴがパンを掴み、躊躇なく口に運ぶ。
よほど空腹だった、ということなのだろうか。
子供の様に食い散らかすことこそないが、大きな口で瞬く間にパンを食べきり、スプーンにたっぷり掬ったスープを飲み込む。
その様子をつい食い入るように見つめていたナマエは一息ついたインゴの視線がふと自分に向けられた時、ドキリとして慌てて水差しを取りグラスに水を注いだ。

「ほ…ほんとに、一晩で回復しちゃったんですか……?」
「……何か不満でも?」
「いえっ!そういうわけじゃ……」

インゴにグラスを手渡し、手持無沙汰になったナマエが床に視線を逃がしながら口籠る。
喉を鳴らしてグラスの中身を飲みほし、横目にナマエを窺うインゴの双眸がゆっくりと細められた。

「――好機を逃したことが、やはり惜しくなりましたか」
「ッッ!!まだ、そんな……!」

ことを言うのか。
そう続くはずだった言葉はしかし、顔を上げた先のインゴの表情に行き場を失う。

ナマエを見つめる彼の瞳には以前のように彼女を傷つけようとする悪意や憎悪の類は見つからない。
その代り、純粋な揶揄が――ナマエの反応を面白がるようなからかいの色が見て取れる。
昔、村のいじめっ子が何か悪巧みを企てている時、それによく似た目つきをしていたのを思い出し、反射的にインゴから距離を取ろうとしたナマエより僅かに早く、インゴの腕が腰に絡みついた。

「イ、ンゴさ……!ぁ、あのっ、離し……っ」
「んん?どうかしましたか?」
「ひっ!?ゃ、あ……ッ、や、め……!!」
「――『傍にいたい』と、そう言ったのはお前のはずですが?」
「ッ、ん…ゃ……ぁっ!」

抱いた腰を自分へ引き寄せ、白々しく言うインゴの大きな手がなだらかな双丘の形を辿り、思わせぶりに撫でる。
それだけで可哀想なほどに震え出し、爪を立ててインゴの肩を押し返すことしかできないナマエに喉の奥で笑いながらスカートの中へ侵入し、瑞々しく滑らかな肌を直に堪能させてもらう。
太腿に沿ってゆっくりと撫で上げるインゴの指が下着の中にまで到達した時、ビクリと一際大きく震えたナマエがスカートの上からインゴの手を必死に押さえ込んだ。

「だ、め…です……!こんなこと……っ、まだ、病み上がりなんだから大人しく……!」
「ワタクシを気遣ってくださるとはお優しいことで。ですが、それには及びませんよ」

片手でナマエの後頭部を掴み、逃げられないようにした上でねっとりと首筋を舐める。
人よりも少しザラついたその舌の感覚にビクビクと腰が震え、このままではまずいと本能が警鐘を鳴らした。
流されてはいけない。
流されてはいけない。
そう思うのに、インゴが触れる度、熱を持った身体が言うことを聞かなくなる。

「〜〜〜っ、ほん、とに……ダメッ!!おっ、おねがい、ですから、安静にっ、」
「おやおや……そんなにワタクシが心配だと言うのなら、尚のこと証明してさしあげたくなる」

零れそうなほど熱く潤んだナマエの瞳を間近に覗き込み、インゴは意地悪く、綺麗に笑った。



「――たっぷりと、その身体で思い知りなさい」








(13.05.26)