あの日、カミツレさんと会った日から、一週間が経った。 ライブキャスターは相変らず鳴らない。 「――……はぁ」 「?」 ベッドに寝転がってため息をついた私の顔をイーブイが心配そうに覗き込んできた。 その頭を「心配しないで」と撫でてやれば、イーブイはそれでもまだ心配そうに耳を伏せて、小さな舌でチロリと私の頬を舐める。 くすぐったいよ。でも、可愛いから止めさせることはしない。 「おいで」 片腕を浮かせてイーブイの入るスペースを作れば、尻尾を振りながら私の腕の中に飛び込んできたイーブイがまたチロチロと頬をくすぐる。可愛いなぁと、小さな身体を抱き潰してしまわないように気をつけながら胸の中にぎゅっと抱きしめて目を閉じた。 ――思い浮かぶのは、黒いコートを着たあの人のこと。 (連絡…くれるって言ったのに……) あの後、どうなったんだろう。 どうしてもそんな気持ちになれなくて、次の日は一日部屋に引きこもってテレビも何も見なかった。 だからあの夜、カミツレさんが本当にノボリさんとクダリさんに勝ったのか――一緒に食事に行ったのか、私は知らない。 知りたく、なかった。 (――でも、連絡なかった…ってことは、きっと…つまり……) その先を考えて、胸がつかえた。 無意識のうちに強く抱きしめすぎてしまったのか、イーブイが少し驚いたように顔を上げて私を見つめる。 『大丈夫だよ』、とは、言えなかった。 だって、私、 (……バカみたいに、傷ついてる) ノボリさんに、選んでもらえなかった。 ノボリさんが選んだのはカミツレさんだった。 その事実が、自分でも信じられないくらいに、ひたすらに辛い。泣き、たい。 いや、私だってノボリさんの判断が当然なんだってことは、ちゃんとわかってる。 私とカミツレさんなら、誰だってカミツレさんを選ぶだろう。 そもそも私はノボリさんにとって、バトルサブウェイの挑戦者の一人に過ぎないわけであって。 彼からしてみれば私は『お客様』なんだから、優しくしてくれるのはきっと、それも彼のお仕事だから。 ミュージカルに誘ってくれたのは、偶然私がそこにいたからで――私じゃなくても、よかったわけで。 (『妹』みたいに――なんて、私の思い上がり、だったんだ) だってほら、現に今だって、私はもう一週間もノボリさんに会ってないし、声も聞いてない。 私から会いに行かなければ――バトルサブウェイに行かなければ、こんなにも簡単に私とノボリさんの繋がりは途絶えてしまう。 その程度のものだったんだ、所詮。 (……それって、なんだか) 「すごく、かなしい……っ」 モヤモヤズキズキする気持ちを胸の内に留めておくことができなくて、声にして外に出した瞬間、ポロリと涙が頬を転がり落ちた。 それを見たイーブイがビクリと全身を強張らせて、途端にオロオロと落ち着きをなくす。 ごめんね、心配かけて。 だけど、ちょっとだけ、ちょっとだけ泣かせて。 でないと私、このよくわからない切ない気持ちに押し潰されてしまいそうだ。 「う、ぅ…っイーブイ、ごめん、ね…っ」 ペロペロと健気に私の頬を伝う涙を舐め取ろうとするイーブイをギュッと抱きしめて身体を丸めた時、ふと玄関のチャイムが鳴る音が聞こえた。 こんな時間に誰だろう。 そう思いながら、どうにか涙を引っ込めようとグスグス鼻を鳴らし目元を擦っていると、下の玄関で何か話してる声がする。 母さんと――相手は誰だろう。 母さんの知り合いかなとぼんやり考えていると階段を上ってくる足音が聞こえた。 だけど、二階にあるのは私の部屋と両親の寝室だけ。 あれ?と思っているうちに、その足音は私の部屋の前で止まって、控えめなノックの音がドアの向こうから響いた。 「はい…?」 母さん、かな? 腕の中からイーブイを降ろして起き上がりながら返事をする。 そうすると、まるで戸惑っているかのように、妙にゆっくりと開かれたドアから現われたその人は、あの黒いコート、の、 「え、…ッな…?!!」 (なんで、ノボリさん――!!?) うそ、え、嘘?!なんで、意味、わかんない! ていうか私、パジャマ、だし!(えええええ?!) ギョッとして、思わず目を見開いてノボリさんを凝視したまま固まる私に、ノボリさんは申し訳なさそうな顔をしてペコリと頭を下げ、再び顔を上げた瞬間、彼もまたカッと目を見開いて息を呑んだ。 え、なに、どうしたんだろう。 落ち着くことを忘れてしまったかのようにバクバクと煩い心臓をBGMに、動けないまま言葉を失う私を視線で捉えたまま、ノボリさんは瞬きの間に距離を詰めて、気づけば両肩をガッシリと掴まれていた。 手袋をした指の先が肩に食い込みそうで、少し、痛いくらい。 「ナマエ様ッ…!どうされたのですか?!」 「へっ?え…?な、なに、が」 「『何が』ではございません!なぜ泣いていらっしゃるのですか!!」 「あ、……や!こ、これは…!」 あ、あ、もうわけわかんない、けど、最悪だ! よりによってノボリさんに泣き顔を見られてしまった。 恥ずかしくて、慌てて顔を逸らそうと試みたけど、それはすぐにノボリさんによって阻まれる。 肩を掴んでいた手が今度は私の頬を包んで、逸らした顔は正面に戻されてしまった(ち、かい…!) 「どこか苦しいのですか?!でしたらすぐに医者を……!」 「!ちがっ、違いますこれは、あの…そういうのじゃ、なくて…!」 この状況をどうすればいいのかわからず、助けを求めて彷徨わせた視線の先にイーブイ――が、いたけど、イーブイはノボリさんのコートの匂いをフンフンと嗅ぎ終わると興味をなくしたようにモンスターボールに戻ってしまった。 あ、この子絶対またノボリさんのクッキーを期待したな。この食いしん坊め。 モンスターボールを恨みがましく見つめてもそれは僅かに揺れるだけで、それ以上は期待できない。 ううう、と内心で唸りながら、恐る恐る視線を戻すと、そこには相変らず、切羽詰ったような瞳で私を見つめるノボリさんの真剣な顔。 さっきまで苦しくて堪らなかった胸が、途端にきゅうぅと甘く締め付けられたように感じた。 「〜〜〜っこれ、は!本当に、そういうのじゃなくて、単に目に睫毛が入っちゃっただけです!そ、それよりどうして、ノボリさんがここに……?!」 話の流れを変えて、今度は私がノボリさんに訊ねるとノボリさんはハッとして慌てて私から手を離した。 手袋越しのぬくもりが消えてしまって、なんとなく寂しい。 そんな気持ちを顔に出してしまわないように、咄嗟に唇を結んでノボリさんを見上げれば、それは緩やかに逸らされた。 私を真っ直ぐに見つめていた灰色の瞳が、今は戸惑ったように落ち着きなく揺れる。 数秒の沈黙が私には妙に長く感じられて、知らず息を潜めていた自分に気がついたのは、ノボリさんがようやくポツポツと話し始めたときだった。 「こんな時間に、年頃の女性の部屋に上がりこむなど、大変不躾なことであるとは承知しております……ですが、連絡も取れず、バトルサブウェイにもいらっしゃらなかったものですから、こうする他には――」 「え……連絡取れない、って、」 ライブキャスターの番号、知ってるのに? 「――そうです。ナマエ様、なぜわたくしを……拒絶、なさるのですか?」 「 ぇ、?」 『拒絶』 予想もしなかった言葉がノボリさんの口から飛び出して、思考が停止した。 何を、言っているんだろう。どういう意味? ノボリさんの言葉を理解できず、ただぽかんとして彼を見つめる私を、揺れていたノボリさんの視線が再び捉えた。 それはどこか、腹を括ったかのように――開き直ったかのように、若干の苛立ちさえ滲ませながら、私をじっと見据える(え、え?) 「なぜ通信に出ないのですか。なぜバトルサブウェイに来てくださらなかったのですか。――わたくしが、どれほど身を焦がしたか…あなた様の身に何かあったのではないかと、どれだけ心配したか、あなた様は、」 「ちょっ!ちょっと、待ってください!だって連絡くれなかったのはノボリさ、」 堰を切ったように、責めるような口調で、だけど激しい感情を押し殺した低い声で言葉を続けるノボリさんに待ったをかけながら、私はある可能性に気づいて短く息を呑んだ。 机の上に置いた、私のライブキャスター。 あの日――カミツレさんに会った夜に、ぶつかった拍子に落としてしまってから、一度も鳴っていない。 (まさか――) 恐る恐る、ベッドから立ち上がってそれに手を伸ばす。 パカッと開いた液晶画面は真っ黒。電源ボタンを押してもそれは変わらない。 つまりそれが何を示しているのか――理解した瞬間、ノボリさんの視線をヒシヒシと感じる背中を冷たいものが伝い落ちた。 (11.11.25)
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