僅かな微睡みの中、僕は懐かしい夢を見た。
子供の頃の僕と、大好きな祖父母。

『じいじ、ばあば』

二人のことをそう呼んで、僕は二人に好き放題甘える。
普段は厳しい人だけれど、孫の僕には甘々な祖父。
茶目っ気が愛らしい優しい祖母。
一人っ子の僕は両親のみならず、彼らの愛情までも独り占めしていた。
子供の頃はそうして誰も彼もが僕を前にすると眉尻を下げるものだから、僕はただただ素直に、邪気なく健やかに育った。
妬んだり羨んだりする相手もいなければ、比較されて競争心を掻き立てられるような何かもなかった。
だから、同世代の子と比べてどうか、ということにとんと疎かった僕は、自我のしっかりしてくる小学校の真ん中辺りでやっと自分が一通り何でも器用にこなせることに気が付いたし、それと同時期に音楽だけはどう足掻いても才能がないということに気が付いてしまった。
がむしゃらな努力なんて僕には似合わない。
もちろん頑張らなかったわけじゃないけれど。
そんなふうに、その時点で僕は音楽を諦めてしまっていた。


「まあ、葵さん。久しぶりね、どうしたの?」

微睡みから目醒めた僕はふと思い立ったように祖父母の家へ向かった。
僕の家から電車で十五分。
祖父は居なかった。

「ご無沙汰してます、おばあさま。突然、すみません」
「いいのよ、来てくれて嬉しいわ。さ、お上がりなさい。頂いたクッキーがあるの」

祖母は僕の唐突な訪問をむしろ喜んで受け入れてくれた。
入り口の門扉から手入れの行き届いた芝生の庭を横切って玄関へ続く石畳を辿る。
迎えてくれたリビングルームの真ん中には祖母の愛器、ベーゼンドルファー。
茶色いレンガ造りの、広い祖父母の家はいつも柔らかな眼差しに溢れている。

「学校はどう?転校したんでしょう」

紅茶の用意をしてくれている祖母がにこにこと訊ねる。
オーストリアの空気に触れて生まれた、黒く艶やかに、そして上品に光るその名作をそっと撫でて僕は答える。

「とても、充実しています。父と母の出会った学校だし、ここからも近い」
「あなたにも景のような素敵な出会いがあるのかしら?」

色素の薄い、丸い祖母の瞳が若々しく煌めく。
女性はいくつになってもこの手の話が大好きなのだなぁ、と僕は思う。
テーブルに二人分のカップが並べられるのを見て、僕は席についた。

「そう、ですね…。両親のようにはいかなかったけれど、素敵な出会いはありました」
「どんな?」
「おばあさまのように素敵な、音楽に愛された人です」

祖母は太陽を見上げるかのごとく瞳を細めて僕を見つめた。
僕は自分を実は父よりも、祖母に似ているんじゃないかと思っている。

大きな窓から陽の光が燦々とリビングを照らす。
その先の短く刈られた青い芝生。
ここは何もかもが安定している。
僕は満たされたこの空間が好きだった。
祖父母が寄り添って生きてきた長い年月の間に導きだされた、達観とも言える答え。

「その人が好きなの?」

祖母は綺麗にお皿に並べられたクッキーに手を伸ばす。
どうぞ、と僕に勧めてから優雅に一口かじる。

「とても。……憧れなんです。彼女の音楽はいつも僕の手には届かない。だからこそ、僕は惹かれるんだと思います」
「片想いなのね」

僕は肩を竦めた。
なんだかおかしいわ、と祖母は口元に指を添えて笑う。
左手の薬指には今でも輝きを忘れないプラチナリング。

「どうしていつも葵さんは、本当に好きなものばかり諦めてしまうのかしらね」

ヴァイオリンも彼女も。
何でも簡単に一定以上できてしまう分、簡単にできないと分かった途端に手を離す。
才能がないと思い込む。
華やかで軽薄な僕の音を僕は認めることができない。
彼女に憧れている。
それはきっと恋なのかもしれない。

「ピアノを、弾いてくれませんか」

僕は言った。

「今日は、おばあさまのピアノを聴きに来たんです」

ひだまりの中に鎮座するベーゼンドルファーを振り返る。
彼は従順な大型犬のようにただ大人しい。
おばあさまは微笑み、頷いた。
シューマンをリクエストしたことにあまり意味はない。
ただ、以前にここで聴いたシューマンがとても素晴らしかったことを覚えている。
確か、中学校に上がる前のことだ。
おばあさまがモノクロの鍵盤の前で僕を見つめる。

「あなたは、完璧主義なのね」

右の人差し指からそっと紡ぎだされる情感豊かな旋律。
子供の情景、第七曲『トロイメライ』
僕はおよそ二分程の短いこの曲に吸い込まれるように聴き入った。
おばあさまのピアノの音は、柔らかで癖のない耳馴染みの良い音。
濁りがなく、大切に守られてこれまでを生きてきた人の音色だ。

「……最初から、格好よくできないことはしないの。小さな頃からそうだったわ」

鍵盤から離した指を膝の上に重ねておばあさまは笑った。

「あなたのお父さまも、おじいさまも、そう。そっくりね」
「そう…でしょうか」
「ええ。男の人のプライドなのかしらね」

僕は人差し指で端の鍵盤を何度か優しく叩く。
木琴のような高く透き通る音がした。

「どんなあなただって、誰よりも格好良くて素敵だということに気付かないの。自信がないのよね、きっと」

鍵盤の上を辿る僕の指先におばあさまの細い手が触れる。
暖かい手だった。

「あなたはとっても素敵な男の子よ、葵さん」


僕はその白く弱々しい指先に親愛を込めてキスを落とした。



















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