たった2つの年の差なんてほとんどの場合あってないようなものだと思っていた。
勉強も考え方も、音楽も恋愛も。
年齢が盾になるのは『年功序列』なんてくだらない制度が罷り通る日本だけで、広い範囲で見ればほとんどが実力主義。
できる奴だけが上っていく。
生まれた順番が少し違うだけだ。
衛藤はそうして、確かに実力で勝ち上がってきたし、『適わない』なんて努力してない奴が言う台詞だと思ってきた。
これからだってそうだし、今後この考え方が改まることなんてないだろうとさえ。

「……何ニヤニヤしてんの」

星奏学院音楽科棟、通称桜館。
一階奥にある練習室のピアノの椅子に腰掛けて衛藤は自分に背を向けてヴァイオリンを弾く、ふたつ年上の女生徒を眺めていた。
彼女を形容しようと思うと、衛藤はいつも少し迷う。
子供っぽいわりに少女と呼ぶにはもう彼女は大人過ぎたし、女性と呼ぶにはまだまだあどけない。
女の子、と呼ぶのもなんだかしっくりこなかった。
だから彼女は衛藤の中では、少女でも女性でもただの女の子でもなく、『日野香穂子』というひとつの分類だった。

「え?」

弓を下ろして振り向いた香穂子の口元がいつもより綻んでいるのに気付いて衛藤は頬杖をつきながらからかい気味に訊いた。
奏でる音が今日は浮き足立つように時々跳ねていた。
普段から何度も注意している、高音の弦を押さえるときに中指が反り返ってしまう癖も不思議と気にならない程に。
それとも、そこは意識していたのだろうか。

「思い出し笑いする奴は変態なんだって」
「へ、変態って…」

まあ、そんな話はどうでもいいんだけど。
そう言って顔をしかめた香穂子に続きを促すと、香穂子はぱっと瞳を輝かせた。

「衛藤くん、知ってた?来月、月森くんが日本に一時帰国するんだって!」

―――月森蓮。
衛藤が今まで生きてきた十五年の中で初めて『適わない』と思った相手。
たったふたつの年の差。
そんなものはどうということはないと思っていた。
経験はただ積めばいいものではない。
意識の問題だ。
一つの経験で十のことを覚える奴もいれば十の経験で一つしか身につけられない奴もいる。
衛藤は前者だ。
だからこそこれまで年齢なんて関係ないと豪語できてきた。
そして月森もまた前者だった。
それはつまり、その二年の差が永遠に縮まることはないということだった。

「ああ。随分噂になってるからな」

月森に対して過度に反応してしまう自分を気取られないよう衛藤は慎重に言葉を選んで答えた。

「楽しみだなぁ…この前はカルテットだったけど、今回は一人でだもん。すごいなぁ」
「ただの身内贔屓な音大のイベントじゃん。あんたが楽しみなのは月森蓮が『帰ってくる』とこだろ」

衛藤がそう言うと香穂子は驚いたように瞳をまん丸にして、次いで頬を丸く色付かせた。
衛藤にとってはなんとも面白くない反応だ。
衛藤はふと表情を消した。
普段大人びていると言われるけれど、本当はそうじゃないことを衛藤は自覚している。
どうして自分は彼らよりふたつも年下なのだろう。
せめてひとつだったなら。
どうして彼女の前にいるのが月森なのだろう。
せめて他の男だったなら。
どうして、香穂子が月森と出会う前に出会うことができなかったのだろう。


最初から付け入る隙がないなら、出会わなくてよかったのに。

そんな子供じみた脳内を曝け出すことができないだけだ。

「べ、別に、そんなことっ…!月森くんの演奏だってすごく楽しみでっ…」
「分かってるって。香穂子があの人の演奏好きなこと」

香穂子が慌てたように壁から背中を離す。
それを制するように立ち上がって、衛藤から香穂子に近付く。
手を伸ばせばすぐに触れられる距離になっても立ち止まらない衛藤に、香穂子は後退った。

「え、衛藤くん、近いんだけど、」
「あのさ」

とうとう壁際まで追い詰めると、逃げ場を探して横に走らせる視線を遮るように香穂子の目線の高さに壁に手をついた。

「前にさ、俺とあの人とどっちが上手い?って訊いたじゃん」
「う、うん」
「今の俺じゃ、あの人には適わないってことは分かったよ。ひとつ聞かせてほしい。あんたはなんであの人だったの?ヴァイオリンが上手かったから、好きになったわけ?」

香穂子はうろうろと彷徨わせていた視線を衛藤に当てる。
高校生になって半年以上経った今、身長はさらに伸びていた。
香穂子は長い腕に囲まれて息苦しいらしく、小さく何度も唇で息をしながら衛藤を見上げる。

「俺があんたと同じ歳で、あの人よりも早く、いや、同じタイミングでもいいけど、あんたと出会ってたら―――あの人よりヴァイオリンが上手かったら、あんたは俺を好きになった?」

もしもの話など空しいだけだと分かっていた。
けれど訊かなければ気が済まなかった。
その辺りが子供なのだと思う。
大人なら、彼女の想いを尊重して困らせるような質問はしないだろうか。
あの人なら、香穂子が選んだなら仕方ないと、簡単に想いを捨てるだろうか。
だとしたら、そんな大人になりたくないと思うのは自分だけだろうか。


『そうじゃない』と、聞きたくなかったのに。
訊ねてしまう自分は駄々をこねる子供と一緒だ。


「…違うよ、衛藤くん」

香穂子は真っ直ぐに衛藤を見つめた。
照れもしないで、この近い距離で。

「月森くんを好き、なのは…もちろんヴァイオリンがきっかけだったけど」

好き、のところで少し声のボリュームが落ちる。

「ヴァイオリンが上手いからじゃなくて…月森くんのヴァイオリンに対する思いに、憧れたからだよ」

真っ直ぐに見つめてくるのに、どこか不安に揺れる瞳がとても健気だった。
その台詞はまるで香穂子自身が自分に言い聞かせているみたいで。

「あんなふうに正直に私もヴァイオリンと向き合いたいって、そんな気持ちを私にも向けてほしいって、そう思ったんだよ」

だから、違うんだよ。

「衛藤くんを好きになるかは分からないけど…だけどきっと、わたしは何度でも月森くんに惹かれると思う」

息が止まる思いだった。
彼女の、彼女らの切実な恋愛感情を思い知らされたような。
どこにも入り込む余地がないのなら、最初から知りたくなどなかったのに。
この拙いヴァイオリニストが奏でるどんな音楽よりも胸を打つ音色を。
優しい笑顔を。
真っ直ぐで疑うことを知らない想いを。


「……衛藤くん」

俯いた衛藤の顔を下から覗き込む香穂子に衛藤は苦笑する。
こんなに無防備なくせに。

「…分かったよ」

ぱっと両手を外してやれば、香穂子はほっとした表情を浮かべて衛藤から距離を取った。
それが少し面白くなく、そしてそんなところが衛藤にまた改めて火を点ける。

「あんたがなんて言おうとさ、所詮あの人は一年に何度か戻ってくる程度だろ?俺は取り敢えずしばらく日本にいるし、その間ずっとあんたといられるってわけだ。つまり」

そうだ。
感傷的になるなんてらしくない。
簡単に諦めるなんて柄じゃない。

「あの人からあんたを奪うチャンスはいくらでもあるってことだろ」


ニッと笑って見せると、香穂子はきょとんと衛藤を見つめた。
あまりにも間の抜けたその表情に衛藤は思わず噴き出す。

「え…えぇ?!」

距離を取った香穂子の手を、衛藤はぐっと引き寄せた。







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