Mum's the word...! | ナノ


「あのさぁ…幸村…」

「なんだい?」



幸村はにっこりと笑う。
不二は疲れたように『なんでもない』と言って視線を下にやった。

その先には、プカプカと水面に浮かぶ真っ赤なリンゴ。
しかも一個や二個ではなく、数十個。

よってその規模も、



「あのさ、いろいろと突っ込みたいところはあるんだけどさ、」

「うん?」

「こんなに用意する必要あったの?」

「不満?」

「そういうワケじゃないけど…」



そういう“意味”じゃないけど。と言いたいのをグッと堪える。

目の前に置かれているのは一般家庭で夏場によく見られるあれだ、子供用ビニールプール。
そこにリンゴが浮かんでいる。

やっぱり、と思って口を開いたは良いものの、幸村には全く伝わりそうにない。
いや、聞く耳がないのか。
むしろ後者しかない気さえする。
とにかく、その場合幸村は何を言っても取り合わないだろう。

その証拠と言っては何だが、ビニールプールの前に膝を付いた不二を、
椅子に座った幸村はニコニコと見下ろすばかりだ。



「ほら、早くやりなよ。」

「………」



なに、この拷問。

楽しくて仕方ないように笑う幸村から目を逸らして、不二は仕方なしに横髪を耳に掛けた。
とりあえずやっておけば良い。
内心でだけ溜め息を吐いた。不二もバカではない。

そして、そっと水面に顔を近づけた。



解説しておくと、現在“ダック・アップル”の真っ最中である。
なんだそれ。と言いたくなるだろう。
事実、不二も幸村が言いはじめ時にそう思った。

日本であまり馴染みのないそれは、
水面に浮かんだリンゴを口で咥えてとる、というハロウィンのゲームのようなものらしい。

幸村がその情報をどこで仕入れてきたのかは知れないが、
どこかしらで『ふぅん。リンゴ。それなら不二が喜ぶだろうね』と、何やら悪質な笑みを浮かべていたのは想像するに難くない。

それで、現在不二はビニールプールの前に跪いているのである。



「早く早く」



ふつうならキレイな笑みを湛えるその顔面に
拳でも何でも叩き込んでやりたいところだが、なんというか。



これが惚れた弱み、か―――…



こんな屈辱的な状況さえ、ついうっかり受け入れてしまえる程に。
何故だか、この悪質極まりない人物に惚れ込んでしまっている自身に呆れるばかりだ。

白い前歯がリンゴの茎にかかる。
案外カンタンだ。

不二はもう少し、と首を伸ばしかける。



「Happy Halloween―――…」



上の方から涼やかで凛とした声が降ってきた。
途端、頭にグワァンッと力が加わる。



「んぐっ…!!?」



直後に自分の顔が水に沈んでいくのが分かって、
咄嗟に目を瞑ったのは間違いではなかった。と不二は嫌でも悟る。
ゴボゴボと息を吐き出しながら、更に更に沈められていく。

やばい。

幸村の気まぐれが長引けば、このままお陀仏だ。



「っぷ…はぁあっ…」



が、その心配は要らなかった。
不二を水に沈めた身勝手な手の平は満足したのか、その鼻先がビニールプールの底に着く前に離れていった。

すぐさま顔をあげて、明らかに欠乏した空気を吸い込もうと口を開くけれど、
不二の意志に反して咳ばかりが出て止まらない。



「大丈夫かい?」

「ちょ、…げほっ…大丈、夫…な、…はっ…っ」



ケロリとそんなことを聞いてくる幸村が恨めしいったら!
本当は、大丈夫なもんか!と叫びたかった。
咽喉のおかしなところに絡んでしまった水に阻まれて叶わなかったけれど。



「しょうがない子だな。不二は」



いつの間にか隣にやってきた幸村が何てことないような顔をして不二の背中をさする。
誰のせいだと思ってるんだ。も言えないまま、
不二はただ咳き込みながら幸村の介抱を享受する他なかった。



「あー…びしょびしょだな。」



能天気に言ってのけるのは、不二のことではなく、床。
水はこぼれるわ、リンゴは散乱するわの大惨事だ。
体重をかければあっという間に決壊するビニールプール。当然の結果である。
つまり、それも分かってやっていたのだろう。
幸村は水浸しになったフローリングの床を嬉しそうに見つめている。



「どうせ掃除するなら一緒だな。」



未だに苦しげに咽喉を傷めつけている不二の身体を水浸しの床に押し付けて、
外すのも煩わしいとばかりに、シャツの前ボタンをすべて弾けさせて不二の素肌を暴く。

それで、幸村はこんなことを言う。



「不二はリンゴの中に沈んで十分楽しんだだろ?」



全く以て意味不明だ。
意味不明だが、どうやら先程の加虐行為は幸村なりの親切心と愛の表れらしい。



「次は俺を楽しませてよね。」



幸村はひどくご満悦のようだ。

どうやら理不尽な親切心と愛、いや、回りくどい言い方は止そう。
不二の頭をビニールプールに沈めることによって、不二はリンゴに囲まれてシアワセ。
イコール、俺からのハロウィーンの餞別。ということらしい。

もうなにもかもが滅茶苦茶の無茶苦茶だ。



「ほら、Trick or Treat」

「あー…、Happy Halloween?」



疑問形ではあるけれど、そう返事をする。
あんな仕打ちを受けながら、結局応えてしまう自分も相当イカれてる。と、また自覚を刻む。

甘いお菓子も、バイオレンスな思想も、
生憎その場に持ち合わせていなくて、不二は幸村ご所望の自分自身を差し出す他なかった。



END...