凌和/ピオジェ/甘(当社比)

 朝日に照らされて一日を始める宮殿は一日の終わりには闇に沈むように見える。夜の活気に満ちていく下町とは正反対に位置し、いくら宮殿前の広場を明るく灯しても深い色に染まった夜の水鏡は光を吸い込むばかりであったしその後ろは何もない海だから、宮殿の中だけでも明るくしようとメイド達は夕方から忙しく駆け回った。
 そうして夜も煌々と煌めく宮殿から、ピオニーは今夜も抜け出していた。毎日使う秘密の通路を通って来た先は僅かな音素灯の照らす、箱のような部屋である。窓も無く棚と机ばかりの部屋に、でん、と据えられたひと際大きな机にはわざわざ会いに来た幼馴染みが無表情に書面に向かっている。書面の出来の確認に顔を上げた彼の、ちらり、こちらを見る動作にピオニーは気を良くした。何だ、待っていたんじゃないか。
「まだ約束の時間ではないでしょう。待っていられない余裕の無い男性は嫌われますよ」
それきりそっぽを向いて再び書面に向かってしまった。確かに昼間、今夜飲もうと誘った時に約束した時間よりいくらか早かった。
「まあそう言うな。どうも宮殿は眩しくて慣れん」
「いよいよもって年ですね」
「何を言う。俺はまだぴちぴちだ」
「・・・そうやって若いつもりでいる間は良いんですよ。問題はその後です」
「お前最近じーさん達と似たようなこと言うようになったな。年か?」
いつまでも年若い心づもりのままでは、と常日頃口を酸っぱくする重鎮の老人の言に、ジェイドの言ったこととまるきり同じものがあった。
「あれだけ若者と一緒にいれば嫌でも思い知ります。若いっていいですねえ」
ジェイドは取って付けたように肩を竦め、ペンを置いた。
 彼らと旅をしたのは彼に良い影響ばかりを与えたわけではないらしい。年を気にするような――気にしていても表に出すような奴ではなかった。年をとった、と認めてしまう事は簡単だがそれから人は保身を考えてしまって前進を止めてしまう。ジェイドもそうなるだろうか。ピオニーにはそれが、ひどく寂しいことのように感じられた。
「・・・・・・そんなもんか。まあいい、行くぞ」
「見てわからない様ですので言わせてもらいますが、仕事が残っています」
「わかってるから言ってるんだろう」
「わかりました。行きます。行けば満足なんでしょう」
それから何かねちねち言い募るのを聞き流しつつ軍本部を出、宮殿前の広場へ繋がる橋に差し掛かった。
 冷たい海風と絶え間無い波の音とが一体の空気を支配しているようだった。等間隔に配置された灯りはぼんやりと足元を照らす程度の明るさしか持たない。しかし日常ならただ真暗いだけの空間が、今夜に限って薄明るい。見上げれば珍しく、煌々と輝く白銀の満月があった。
「満月か。でかいのは珍しいな」
そうですね、相槌を打ったジェイドのあまりの愛想の無さに振り返り見てみればじっ、と海面を見つめている。
「満月と新月は満潮でしょう、今は干潮の様ですから妙だなと」
潮の満ち引きと月齢が関係するのは星の引力によるものだから、これは大きな変異だといえた。また一つ面倒な問題が増えたか、ぽつり愚痴るとジェイドはわざとらしく肩を竦めた。
「私にも仕事が一つ増えてしまいました。陸艦の進水式の日程を詰めていたのにこれで振り出しです」
だからこの件は他に回せと暗に示唆するのを、ピオニーは笑って相槌を打った。結局原因究明だの何だのでジェイドにこの件が回ってくるのは確実である。
 それにしても、とピオニーはさり気なく、
「問題も増えたことだし、まだこき使ってやるから引退とか考えるなよ」
「そんなことは一言も言っていませんが」
「口に出してないだけだろう。年を気にするような奴は変な理屈をこねる」
「私は、あなたを置いてどこかに行くような薄情者だと言うんですか」
薄情者なのは今に始まったことじゃないだろう。そう返そうとして、気づく。裏を返せば、その気は無いという意味だ。
「・・・いや、それならいい」
また思い過しがすぎたらしい。幼少期に置いていかれた衝撃が強かったのか、彼が目の前から――手の届く距離から遠のいてしまうのではないかと思うと恐ろしかった。
「なら、そう簡単には手放してやらないからな」
 わかっている。小さく小さく、波音に呑まれる小ささで呟かれた声を聞こえなかったことにしてやって、ピオニーは月明かりに白く輝く宮殿へ足を向けた。


fin.

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