三日月はツノアリと呼ばれる子どもだった。その名の通り額から突き出た角と、人より小柄な体に見合わないほどの優れた運動能力、強靭な身体。
何十年かに一人、三日月の村では彼のような特徴を持つ子ども、すなわちツノアリが生まれ、彼らは15になる朝に、孤島に佇む城の生贄として捧げられる。
◯
今日は三日月が生贄になる日だった。神官様と呼ばれた三人の屈強な男たちは、夜も明けきらないうちに黒毛の馬を引き連れてやってきた。神官には、神官になるべくして産まれたものしかいない。古く自分の先祖の代から伝わるこの村の因習を執り行おうと三日月を一目見た神官は、三人とも眉をひくりと動かして顔を見合わせた。なぜなら、三日月の体躯はツノアリの中でも特別小さく、また彼の角は生まれつき三本であったからだ。言い伝えの中のツノアリは小柄だが三日月ほどではなかったし、彼らのうちのだれの角も二本だった。それ故に彼はツノアリとしても異常だとされ、また、三日月が生贄としてきちんと働くのか村の民たちはみんな不安がっていた。
無事神官が三日月を引き取ると、村の民はあからさまに安堵した。その様が神官のなかの一人の胸を痛めたが、彼は人である前にこの不可思議な儀を司る神官であったので、そのようなことをおくびにも出すことは許されない。奥歯をガッチリと噛み締め、三人の神官は村に背を向けた。彼らはもう二度とこの地を訪れることはない。そういう決まりなのだった。
神官の一人と同じ馬に乗せられ、三日月はとうとう村を出た。肌に感じる人々の疑念を鬱陶しく思っていた三日月は村への未練はこれっぽちもなく、それどころかむしろ、この馬はもっと早く歩けないものかと鬣のあたりを平手でぺちぺちと叩いてみたりしている。神官は呆れてなにも言わなかった。
村から充分離れると、三日月は神官に尋ねた。
「オレ、ちゃんとツノアリに見える?」
「見えるとはなんだ。生贄の意味を考えれば、角があって村の生まれならば、それは村を救うツノアリで、生贄の子なのだ」
「生贄の子ってのは、なんかヤな呼び方だな」
「事実だ。お前がいかなければ村は滅ぶ」
神官はつらつらと答えた。その後に「お前たちの命と村とを天秤にかけることは、本来ならばできないのだが……」と言って口をつぐんだ。長い睫毛が軽く伏せられるがそれはほんの一瞬のことで、彼はすぐに鋭く前だけを見据えた。対して三日月の方はというと、三日月はあまり村がどうなるなどといったことや、これまでのツノアリたちのことには興味がなかったので、ふうん、と一言気のない相槌を打っただけだった。
「あの城には誰かいるの?」
今度の質問には神官も即答しかねた。振り返る三日月の青い瞳を見つめ、唇を噛む。これから自分が発する言葉を恐れているような仕草である。三日月ははっきりしない言葉を嫌う。誰かいるの。もう一度、今度は強く言いつけた。
「…………魔物が、住んでいる」
「あまり無駄口を叩くものでないわ。情がうつれば城に置いて行けなくなるのよ」
前方の女の神官が後ろを振り返って、三日月と同乗している神官を怒鳴りつけた。情がうつる、という言葉に、三日月はこれから捨てられにいく小動物か何かのことのようだと、すこし不貞腐れた。しかしそれよりも城に住むという魔物の方が気にかかった。
三日月は幼い頃に海が見える小高い丘まで遊びに出た時に一度、生贄が連れて行かれるという城を見たことがあった。それは立ち込める霧をまとい、今にも消えてしまいそうなほど儚げな様子で建っていた。美しいと思った。海の上にぽつんとあるその城が切なくて、きれいだと思うと身体の芯がかっと熱くなった。思えばあれはすっかり見とれていたのだった。それ以来、三日月はそれを霧の城と名付け心の中で呼んでいる。
三日月は霧の城がすきだった。やがて生贄になりにいかなければならない、三日月の墓標であるあの城を愛おしく思っていた。
そこに魔物の影などなかったのだ。記憶の中の霧の城とまだ見ぬ魔物とが結びつかず、三日月は首をひねった。行けばわかるだろうか。馬が歩くのに合わせて揺れる視界の端に小さな船着場を捉える。木製の小舟に乗れば、城がある孤島まではすぐだ。三日月はどくどくと脈打つ心臓をゆっくりとした呼吸で落ち着けた。
◯
久々に見る城は相変わらず美しいままであった。やはり霧で霞んで天辺は見えない。舟を砂浜まで引き上げる神官たちをおいて、三日月は城の周りを歩き、見回した。村にも自生している小さな木の実をつける樹木が茂り、小鳥や野生動物の鳴き声が聞こえる。思ったより寂しくない。さざ波が耳に心地よい。やっぱりここがすきだなあ、と思った。
「本当に魔物なんかいるのかな……」
「おい、ツノアリ。行くぞ」
「三日月って名前があるんだけど」
「そうか、覚えておこう」
さっきの神官だった。つんと軽く上を向いた形のいい唇は、緩やかに微笑んでいる。もちろん、神官は三日月の名前など知っていた。生贄の記録を残しておかなければならないからだ。三本の角を生やした生贄の子は特異であったこともあり、神官たちの記憶には色濃く残っている。神官たちはツノアリを名前で呼ばないこと、ツノアリに名前を教えないことを規則されて、それを遵守しているために、三日月を三日月と知りながら、識別しようとはしなかった。ツノアリに同情しようものなら、それは村と城との関係の崩壊と秩序の乱れにつながるからである。
神官は頭の中に浮かぶいくつかの規則を破って、笑って三日月の腕を引いた。
三日月と三人の神官が城壁に近づく。入り口はなく、奇妙な彫り物がされた偶像が二体飾られていた。行き止まりか、と三日月が思うよりも先に、神官の一人が腰に携えていた剣を引き抜いた。すると、途端に剣と偶像は白い稲妻のような光を放ち、共鳴し合うように輝いた。ぐらぐらと二体の偶像は左右に分かれ、道を開けた。突如現れた入り口の先には深い闇が続いている。神官二人が先行し、松明を持って行く道を照らす。揺らぐ炎が冷たい霧の城の暗がりを明るくした。まだ見ぬ愛しの城の内部に、三日月の胸は踊っていた。
たどり着いたのは巨大な広間だった。神官の一人が生贄の間だといったそこは、天井が高く円柱型の空間で、全体が静謐な雰囲気に包まれている。
壁一面に石造りの箱が並び、三日月はその中の一つの前に連れてこられた。三人がかりで開かれた箱の中に、目だけで促され三日月はそこへ収まった。小柄な彼でも膝を抱えなければいけないほど狭い。これら全てに自分のような子どもの亡骸が入っているのか、と思った。そして、すぐにこれは棺桶なのだと気がついた。三日月は自分の成れの果てを悲しむでもなく、悔しく思うでもなく、ただの事実として受け止め、自分の小さな棺に触れた。冷たくごつごつとした表面が、三日月の温もりを奪っていく。恐ろしくなかったのは、ここが三日月の霧の城であったからだ。
蓋が閉められる直前、神官たちは口々に言った。
「村の者たちを恨むな。憎むな。果たしてそれは無理なことだろうな」
石の擦れる音がして、蓋はぴったりと閉じた。一切の光を通さず、頑丈な造りのようだった。遠ざかる足音を聞きながら、三日月は指先で角に触れ、目を閉じる。すぐにでも寝られそうだった。早朝からの短い旅路は、その距離に反して三日月を疲弊させた。焦がれた城で静かに眠れることが、三日月の気持ちを安らげた。
◯
低い地鳴りと、大きな揺れが襲いかかり、三日月は目を覚ました。地震だ。三日月は身体を守るために本能的に膝をきつく抱きしめた。ガタガタと不穏な音を立てる石棺が一層大きく揺れると、気がつけば三日月の身体は地面に叩きつけられていた。頭を打ち付け、身体のあちこちは擦りむけた。
血が滲んだ腕をさすり立ち上がる。足元に転がる石棺の底がひび割れている。どうやら不安定になっていたらしい。先ほどの地震で転げ落ち、またその拍子に重い石の蓋も割れてしまったようだ。三日月の棺桶はもはやその機能を果たしそうもなかった。
どうしたものか。生贄にならないと、村が滅びると言い聞かせられてきた。自分はこの棺にいなければならないのだろうか。
棺に腰掛けて、三日月たちが入ってきたはずの入り口を見る。するとそこには入り口はなかった。まるで最初から壁であったかのように跡形もなく、三日月の頭を再び悩ませた。生贄の間にあるのは火の灯らない鉄製の燭台が三本置いてあるだけだ。
「神官サマを呼び戻せもしないしな」
ため息をついて、天井を仰ぎ見る。ふと、その一角に窓のようなアーチ型の空間を見つけた。そこから光が差し込んできている。
──こんなもの、入って来た時にはみなかった。
不審に思ったが、外につながっているかもしれない、と考えた三日月はすっと立ち上がった。壁のひび割れたところに指を差し込んだり、つま先を引っ掛けたりしながらよじ登る。ぼろぼろの煉瓦はそれでも不思議と崩れ落ちる心配はなさそうだった。
難なく目的の場所にたどり着いて、そこは窓ではないことはすぐにわかった。三日月の身長の倍以上の高さがあるそこは、隣の間とを繋げる役割を果たしている穴で、漏れていた光は隣の広間の大きな窓から見える太陽の反射光だった。
そこに、一人の少年が寝そべっていた。
褐色の肌、艶やかな髪は光を浴び、顔にかかる前髪はその先まで透き通るような銀色である。三日月は目を逸らすことができなくなった。きれいだと口に出しもした。まるで霧の城を人の形にしたように淡い輪郭が三日月の胸を締め付けた。
三日月はためらいなく声をかけた。彼の閉じられた瞳を見たいと思ったのだ。
「ねえ、あんた」
褐色の麗人はその一声だけで薄いまぶたを開いて見せた。
銀色のまつげがふるりと震え、ゆっくりと開かれた眼の中には、おおきな琥珀が溶けていた。 黄金の瞳はとろんとしていて、切れ長の形にその甘い眼差しの矛盾が危うげだと三日月は思った。
三日月は彼を起こしたあとに何を言うか決めていなかったから、もう一言なにか発しようと考えたが、それをすぐにやめた。少年のとろけた瞳が見開かれ、驚きと怯えに染まったからである。
「おまえ、誰だ?どっから入ってきた?」
「どっからって、ならわし通りに来たはずだけど。あんたも生贄なんじゃないの?」
「習わし?イケニエ……?」
「違うの?じゃあ、あんたはこの城に住んでるの」
「……まあ」
曖昧に頷く少年に、三日月は口をへの字に曲げた。神官サマは嘘をついた。ここに住む彼は魔物なんかではなかったじゃないか。三日月がぶつぶつと文句を言っていると褐色の少年がはっとして、三日月の手を取った。
「とにかくここにいたらダメだ」
「入って来たと思った場所が消えてたんだ。さっきの地震で入れられてた棺桶から投げ出されて、どうしようかなって思ってた」
「棺桶?」
「オレ、ツノアリだから、生贄なんだって」
少年は首をかしげたが、ツノアリという単語を聞いてやっと、三日月の額を認識し、理解した。
「角、有り……?」
「そう。ところでさ、あんたは出口知らない?オレもどうしたらいいかわかんなくて」
「……正門から入ってきたんじゃないんだな」
「そんなのあるのか。どこ?」
少年は困ったように頬を人差し指でかいた。
「案内してやりたい気持ちはあるんだが、おれはここから動けない」
「なんで」
少年は視線を自分の足首にやった。すらりと伸びた長い足の先には黒い枷がはめられていた。鎖が壁にくくりつけられている。三日月はすっと目を眇めた。
「あんた、いつからこんなところにいるわけ」
「いつからだろうな」
「ねえ、あんたもここから出たい?」
少年は答えなかった。しかし、錆びついた鎖についた無数の傷が彼の必死の抵抗を物語っている。足首はよく見ると擦れて傷になってしまっていた。
三日月はふうっと息を吐き、少年の手を優しく解いた。そして、彼が何かを言う間を与えずにその場から今のぼってきた壁を飛び降りた。
「あ!」
少年が焦って身を乗り出しても、三日月はけろりとして生贄の間の床に足をつけていた。そこから一番近くにある燭台を押し倒し、その足を一本もぎ取ると鉄の棒と化したそれを口に咥え、先ほどと同じように壁をよじ登り、目を見張る少年の前に再び立った。三日月は口にくわえた鉄の棒を右手に持ち直す。
「すげぇ……」
軽い身のこなしに感嘆の息をもらす。三日月は嬉しくなった。
「なんともないのか?」
「ツノアリだから」
「そのツノアリってのは一体……」
少年が言い切る前に三日月は跪き、足枷から一番近い鎖の結合部分を手に持った棒で叩き始めた。
鉄と鉄がぶつかる音が反響する。手のひらを伝って骨まで痺れるようだったが、三日月はそれすらも分からないかのように、何度も、何度も。三日月の表情は強張っていた。美しいものを捕らえておく存在が許せなかった。やがてパキリと音を立てて、鉄のつぶてが散るようになった。一つが頬を掠め小さな痛みが走る。三日月はそこでやっと手を止めた。
鎖は潰れ、今にも崩れ落ちそうだった。三日月が振るっていた鉄の棒もぼろぼろになっている。肺の中に溜まっていた息を押し出す。少年が足をひっぱると、小さな音を立ててあっけなく鎖は割れた。
「……悪かったな、わざわざ」
「いいよ。オレのためだし」
「ああ、そうだった。案内してやるよ、正門に。礼代わりだ」
「そうじゃなくて……。まあ、でも、それでもいいか。ねえ、あんたも来るんでしょ」
「オルガ」
「え?」
少年は立ち上がった。三日月が彼を見上げると、背後で陽の光が強さを増した。三日月はまた目が離せなくなる。
「俺の名前。オルガってんだ」
「……三日月」
差し伸べられた手に、ためらうことなく自分の手を重ねる。細い身体からあまり想像がつかないしっかりとした力で引き上げられて、三日月はオルガの正面に向かった。金色の瞳がこちらを見ている。息をするのも忘れて、三日月は自分の目に焼き付けようと目を凝らした。
沈黙を破ったのは三日月の腹の虫だった。
ぎゅるるる、と、その場の雰囲気に似合わない間抜けな鳴き声が三日月の腹から聞こえると、オルガは声を上げて笑った。初めてみたオルガの笑顔は無邪気で快活で、三日月は彼がこんなところにいていいわけがないと思う気持ちを強めた。
「腹減ってんのか」
「しばらく何も食べてないんだ」
三日月がすこし口を尖らせて言うと、オルガは懐から一掴みの木の実を取り出した。
「ほら、やるよ。中のタネとって干してあるやつだから、腐ってはねえ」
「どうしたの、これ」
「鳥とか野ネズミとかがな、外に生えてる木から取ってきて置いてってくれるんだよ。俺をなんだと勘違いしてるんだかな」
「いいの?」
「俺は食えねえからなあ」
どういう意味かよくわからなかったが、さっきから主張する空腹に耐えきれず、オルガの手から木の実を貰い受けると、一つずつ大切に食べた。貰ったぶんをすべて食べ終えると、満腹とまではいかなかったが、しばらくは持ちそうだと感じた。
「ありがと」
「いいよ。で、こっからどうやって降りるんだ?とりあえず、お前が来た方と反対の広間に出なけりゃなんねえんだが」
「普通に降りるよ」
「そりゃ、お前は大丈夫でもな」
「オルガ一人抱えたぐらいじゃ負荷にならないよ」
「俺、お前より随分背が高いけど」
「平気。ツノアリの中でも特に丈夫にできてるみたい」
三日月はそう言ってオルガを肩に担いだ。慌てるオルガを押さえつけて、軽く力を込めて飛び出した。質量が増えた分の着地時の衝撃はあったが、それでも耐え難いほどではなかったし、怪我もない。オルガは耳元で低く唸ったけれど、下ろしてやればピンピンしていた。
「ごめん、痛かった?」
「……いや、大丈夫だ。それでよ、そのツノアリってのは一体なんなんだ?」
「あー、オレもあんまり詳しくはないんだけど」
三日月はそう前置きした上で、だだっ広い広間の壁際をふらふらと歩いた。三日月は人伝てにきいた話をひとつひとつ思い出すことをじっとしたままではできない。足を動かし、体を動かし、少しずつ言葉にしていく。青銅の燭台の前で足を止める。こちらのものは炎が灯り、その周りはすこし暖かい。隣の生贄の間とはやはり大違いであった。
「ツノアリっていうのは、この城に捧げられる生贄でツノが生えてる」
「生贄って、さっきも言ってたよな。棺桶がどうとか」
「そう。何十年かに一度生まれるんだ。ツノアリが15歳になる朝に生贄に出さないと、村が滅びるんだって。ツノアリは石の棺桶に収められて、そこで静かに死んでいくんだ。そういえば、オルガはずっとあそこにいてさ、誰か入って来たりするところ見なかった?オレ、神官サマと四人で入ってきたんだけど」
振り返ると、オルガは後頭部に手を当て、目を逸らしていた。
「この城はちょっと変なんだよ。その、仕掛けが、たくさんあって……」
「オレたちが通ってきた入り口が消えたのも、そのせい?」
「たぶんな。で、俺がいたあそこにも仕掛けが」
そう言ってオルガは上を見上げた。三日月がオルガを担いで飛び降りてきた、ついさっきまでいた場所を見ているのだ。そして、そのあとはすぐに広間の半分を占める巨大な窓から見える太陽を指差した。
「太陽が沈んでいると、お前が登ってきた方の壁が迫り上がる。塞がるんだ。太陽が一番高く昇っているときだけ開く。光を通すために。だから、実はさっきまであそこの壁は閉じてた。開くときと閉じるときすげえ揺れるから、最初の時はめちゃくちゃ大変だったな。もう今じゃ寝てられるけど」
オルガは笑って、三日月の方を見た。
「じゃあ、さっきの地震って壁が開く振動だったってこと?」
「そういうことだな。なんだ、さっきのが初めてなら、お前が来てからそう時間は経ってないんだな」
「そうみたい。じゃあ、この部屋にもなんか仕掛けがある?」
「ええっと、このままだと正門までの道は閉じてる。開くためには地下にある重りを動かすんだ。ただ、身体が小さくねえといけない。入り口が狭いんだ」
「オレならいけるでしょ。地下ってどこ?」
「お前が乗ってる石畳をひっくり返してみな」
三日月は足元を見る。ちょうど指が入りそうな穴が二個空いてあったので、右手の親指と中指をその穴に差し込み、力を込めて引っ張り上げた。現れたのは苔むした階段。大きな螺旋を描きながら下へ下へと降りていく。
「すごい」
「これも仕掛けの一つかな。隠し階段」
「かっこいいね。……オルガはこの城のことなんでも知ってるんだ」
「昔はあっちこっち歩き回ってたからな」
照れたように頬をかくオルガを見て、三日月は微笑んだ。
三日月は燭台から火がついた木の棒を一本拝借して右手に持ち、じゃあ行ってくるね、と声をかけると、オルガはここで待ってる、と階段の一段目に腰を下ろした。長い脚を抱え、だだっ広いこの空間の中で縮こまるオルガを見るとなんだか面白かった。
「階段を降りたらすぐに扉がある。お前でも、たぶん這っていかないと通れないぐらい小さい。でもそこを抜けるとひらけた部屋に出るから、左から二番目にあるレバーを引くんだ」
「左から二番目。わかった」
「滑るから気をつけろよ」
◯
オルガの声が反響する。何度も振り返り、オルガの姿を確認しながら冷たい石畳をゆっくりと下っていく。揺らめく炎が仄かに頬をあたためた。オルガを置いてこなければならなかったという心残りが、薄暗い地下への道のりをより長く感じさせた。
三日月は、苔で滑る階段を、それでも足早に降りた。振り返っても、もうオルガの姿は見えなかった。
オルガのいうとおり、階段を降りると小さな鉄製の扉があり、三日月は少し考えてから松明を振って炎を払い消した。這って歩くのに火のついた棒切れは邪魔でしかない。扉を引き、開いて腹を地面につける。腕をついてぐいぐいと進んだ。
やがてひらけた空間に出た。豪奢な作りのレバーが五つあり、その先に何があるのかはわからない。耳をすますと遠くに水の流れる音が聞こえる。壁の、奥、だろうか。三日月は不必要に頭を使うことを億劫に思う性格だったので、すぐにその推測はやめた。オルガに聞けばわかるだろう。
かぶりを振り、すぐにレバーを引くと、壁の奥でがこん、となにか硬くて重いものが動いた音がした。
これでいいはずだ。三日月はまた這いつくばって、小さな通り道を抜けた。オルガが待ちくたびれている。
なぜだか三日月の頭にはあの、美しい瞳が凪ぐ姿ばかりがちらついている。一度も見たことがないはずなのに、オルガのその表情は妙にしっくり来て、それが三日月を苛つかせた。何者がオルガにそんな顔をさせるのか。三日月はズルズルと足を滑らせながらも、螺旋階段を駆け上った。
しかし何段階段を上がっても、オルガの姿が見えなかった。一段目に座っていたはずの彼の長い脚が視界にうつらない。三日月は声を張った。
「オルガ?」
反響する声に返ってくる言葉はない。三日月は階段を踏み外し、膝の皿を打ちつけた。擦りむけた膝を一瞥し、しかしそれはさして気にしない様子で、今度はもっと腹に力をいれて呼んだ。
「オルガ!」
「──…!」
今度は悲鳴のような、叫びのような声が、遠くに聞こえた。三日月は先の焦げた火がついてない棒切れを握りしめ、階段をのぼる速度をはやめた。
「オルガ?いるの?」
「みかっ……!!」
階段を登りきり、ひらけた視界が捉えたのは、オルガを闇に引きずり込もうとしている影の姿だった。
「オルガ?!」
三日月の名を呼ぼうとする声は人型をした黒い影によって阻まれ、オルガは腕を伸ばしてもがくも、長い指は空を掴むばかりである。三日月は自分の頭にカッと血がのぼるのを感じた。そして、気がついた時にはもう止まることができなかった。
振り上げた木の棒に渾身の力を込めて、オルガを引っ張る影を殴った。その力強さに影はよろめきオルガから手を離した。三日月はその先を目敏くみつけ、闇に身体が半分浸かっているようなオルガの腕をつかみ、床に開いた真っ黒な空間から引きあげた。影はオルガを再び捕らえようとしたが、三日月がそれを何としても許さなかった。オルガを自分の後ろに押しやると、握った木製の武器を構えなおし、体勢を低くとった。
オルガを奪おうと襲いくる影の腕が届ききる前にその腕を避け、がら空きになった腹部に強い突きを入れた。
鈍い音が鼓膜を震わす。確かな手応えを逃さないよう続けて殴り続ける。影への怯えに強張ったオルガの顔を思うたびに、靄のようなわけのわからないこの存在が煩わしく思われ、手には力が入るのだ。
「これは、おまえが触っていいものじゃない」
三日月の声はどこまでも冷たく、低かった。
短い攻防の末、三日月のその一撃が最後となった。抵抗をしなくなった影はすうっと溶けるように消えて、跡形も無くなってしまった。肩の力を抜き、三日月のオルガを振りかえった。
「ケガはない?」
「あ、ああ。また、助けられちまったな」
「あれは何なの」
「わからねえ。もしかしたら……いや、でもそうだとしたらオレは……」
「?」
「何でもない。なあ、ミカ。お前ちゃんとレバー動かしたんだな。おかげで、この先の道が拓けたぜ」
返事をしようとして、三日月はとまった。聞きなれない呼び名が自分に向けられたからだ。
「ミカ?」
「あー、愛称ってやつ。嫌か?」
「ううん。なんかいいね。オルガの声がよく響く」
「そっか。ならよかった。じゃあ、いくか」
「待って」
オルガが先を歩こうとした時、三日月は慌ててその腕をとった。オルガの右手をそのまま自分の指に絡ませて、自分が先行する形になると、三日月は満足げに頷いた。
「行こう」
「おいおい」
「こうしてたら、またあの穴に引きずりこまれたときすぐに引き上げられるでしょ」
「あの時はちょっと油断してただけで」
「どうだろう」
「あのよお、ミカ。オレはお前より歳上だぜ」
「でもオレのほうが強いでしょ」
オルガは片眉をあげると空いている右手で頭を抑えた。威厳もなにもあったものではない。首をすくめておどけてみせた。オルガがこの状態に諦めがついたとわかると、三日月は左手に触れる柔らかな体温を感じながら、歩みを進めた。
◯
「で、次はどこにいくの?」
「とりあえず、まっすぐだ」
そう言ったオルガが指差した方向は壁しかなかった。三日月は眉をひそめて、オルガの様子をうかがう。
「行き止まりだけど」
「まあ見てな」
オルガに言われるがままに目前に迫る壁のそばまで近寄ると、壁にはどこかで見たような彫刻が施されていた。どこで見たのだろうか、三日月は己の記憶を辿った。
「あ、これ」
「知ってんのか?」
「うん。オレが入ってきたところにもおんなじのがあった」
それはほんのすこし前に見たばかりだった。神官が剣をかざすと光り輝いた偶像と同じものであったのだ。しかし手元にはあの神官の持っていた剣はない。三日月はまたオルガを見た。
「どうするの?」
「見てろって」
オルガが目を閉じ、左手で偶像に触れる。指先が触れると、視界は一瞬で光に包まれた。三日月は思わず目を閉じたが、閉じた瞼の裏まで強い光は差し込んだ。
しばらく目が眩んでまわりが見えなくなっていたが、それも落ち着くと、さっきまで壁だと思われたところが拓けて、巨大な橋へと繋がっていた。
「なに?今の」
「気持ち悪いだろ。俺にはそういう力があるみたいなんだ」
「気持ち悪くなんかないよ。オルガはきれいだ」
「なんだそれ。けど、ありがとな」
ゆるく微笑むオルガのおおきな口を見て、三日月も表情を和らげた。そうして、太陽の光が暖かい橋を二人で渡る。傾斜がついているその橋の先は、地上から随分と離れてしまうようだった。
「正門ってこんなに高くにあるの?それともまた何か仕掛けがある?」
「いや、外から正門まで来ようとするにはめちゃくちゃ長い階段を上ってこなくちゃいけないんだ。だから、ミカも帰るときはその長え階段降りなきゃなんねえ」
「オルガもだよ」
「ああ、そうだった」
三日月はオルガの手を強く握った。三日月が睨むようにじっとりと見上げてくるので、オルガは困ったように眉を下げて曖昧に頷いた。
橋を渡りきると、吹き曝しになっている渡り廊下のような場所にたどり着いた。風車が回り、石畳の隙間には小さな草花が芽吹いている。花の蜜を吸いにくる蝶の姿も見えた。
「この風車がな、回ってることが大事なんだ。ミカが仕掛けを動かしてくれたおかげだな」
「あ、そうだ。聞きたかったんだった。あの仕掛けはなに?水の音が聞こえたし、あの辺はなんだか湿っぽかった」
「気づいたか?実はこの下には地下水道が通ってて、この風車と繋がってる箇所があるんだ。風が弱い日は地下にある水車が代わりに回ってくれる。おかげでこの城の仕掛けが作動する」
「オレがやったのは?」
「ミカが引いたレバーはこの風車にされてた重石を取り払った。風車が回って、水車が回って。そしたら、正門を開く鍵が開く」
「今までずっとこの風車は回ってなかったってこと?」
「入ってくるやつもいなかったからなあ。いや、その生贄とか神官サマっていうのは、わかんねえけど」
入ってくるやつも、出て行くものもいなかった。オルガは繰り返した。そこでふと、オルガが捕らえられていた、ということを思い出した三日月は疑問に思った。オルガをあんなところに置き去りにしておいた何者かが、まだこの城の中にいる、ということなのか。オルガの足首に痛々しく残る傷痕が、果たしていつできたものなのかはわからないが、オルガはあのアーチ状の空間で過ごすことに慣れているようだった。そのことに気がつくと、三日月はそいつの顔を見てやらないと収まらない苛立ちを覚えた。
「さっきの影といい……」
「ミカ?どうした?」
「……いや、なんでもないよ」
外を見れば日はまだ高く、三日月はすっと目を細めた。
オルガの手を引き、この通路を抜ける。城から出れば、オルガを縛るものはなにもなくなる。早くここから出なくては。自然と早足になり、オルガはつんのめりながらも引っ張られるようにして歩いた。
「み、ミカ?」
「早く出よう。正門はどっち?」
「ここ抜けたら左の扉」
「左ね」
道がわかれば躊躇う必要もない。オルガの手を固く握り締め、言われた通りに進んだが、オルガが示した道の先にあった扉は、扉の形になっていなかった。
「こりゃひでえ」
「塞がってるの?」
「古い城だからなあ」
壁の一部が崩れ落ち、入り口を埋めてしまっていたのだった。オルガはしばし立ち尽くし、片目を閉じて何か思案をめぐらしていた。三日月は、崩れ去った壁の一部を持っていた木の棒で突いてみたり、扉を瓦礫の中から掻き出してみようとしたりした。
「出れるには出れるが……。まあでもミカの身軽さならいけるかもな」
「オルガは?」
「俺はお前みたいに飛んだり跳ねたりできねえから」
「ダメだよ。一緒に行くんだ」
「って言ったって……、あ!」
オルガはくんと顔を上げ、扉のずっと上を確認した。オルガの目線の先はほぼ天井だったが、そこにはちいさな天窓があった。
「むかし、縄ばしごがあの窓の外にあったはずだ。それをこっち側に降ろせれば、俺でも外に出られるかもしれねえ」
「あそこへはどうやっていけばいい?オレがこのぼろぼろの壁登って崩れたら、オルガが危ないよ」
「さっきの分かれ道、右に行くと窓があって、そっから出ると、この塔をぐるっととぐろ巻くように伸びてる細い管があるんだ。それを伝ってくればこっち側まで来られるはずだが。古くなって相当危ねえと思う」
「行くよ。でもオレが離れてる間オルガはどうするの。またあの影が来ないとも限らないでしょ」
「あいつが来る前に、ミカが戻ってくれればいい」
オルガは簡単にそう言った。この短時間でオルガの信頼に足ることができたのだと三日月はそれが誇らしく、また嬉しくもあったので、突飛でむちゃくちゃなこのオルガの案を飲んで、実行してやろうと思った。
「それがオルガの望みなら」
「おし、待ってるぜ。行ってこい!」
あの影が現れるのか、また、現れるとしたら数は同じか。オルガを襲った敵の知識も情報もなにもない状態でオルガを一人残すことは心苦しかったが、オルガが恐怖に耐え一人で待つといった。であれば三日月は、彼がひとりで待つ時間を一秒でも短くすることだけを考えればよかった。来た道を引き返し、土埃が舞う城内を駆け巡る。
「あった」
オルガの言っていた窓だった。白い窓枠に飛びついて、ステンドグラスが施された窓を蹴破った。空気を劈くような音がして、ガラスは割れた。窓枠にぶら下がったまま外側を確認すると、オルガの言う細い管というのを見つけた。
「これは、けっこうきつい命令だな」
管は三日月一人が乗ってもビクともしないぐらい丈夫だったが、その管はむき出しで、地面までの数百メートルに緩衝材になりそうな障害物はなく、万が一足を滑らせでもしたら、いくら三日月でもひとたまりもないだろう。けれど慄いている暇があるなら前に進まなければならない。こうしている間にも、オルガが無事でいると約束されたわけではない。三日月は外壁に片手をつき、ほぼ走るようにしてその細い管の上を渡る。半周すると、今度は地面が近くなり、庭園のような広場が見えた。兵士の姿を模した像が数体立っており、その先には黒く豪奢な門が構えていた。先ほどみたような風車もいくつもあった。
「ここが正門か。窓は、と」
その場から真上をみあげると、ちょうど出張った天窓の下部が見えた。三日月はそこから垂れている縄ばしごにつかまるとよじ登り、天窓に張り付いた。傷だらけのガラスは中の様子をクリアに写してはくれず、三日月は慌ててその窓を上げて開けた。
「オルガ!」
「ミカ!梯子を降ろしてくれ!」
見れば、あの影が部屋の隅に黒くぽっかり穴をつくり、そこから這い出てくるちょうどその時であった。三日月は梯子を引き上げ、オルガのいる内側へと落とした。
「オルガ!はやく!」
「ああ!」
オルガは揺れる梯子をなんとか掴み、近くの瓦礫に刺さっている鉄屑に手早く括り付けると、長い腕を伸ばして、縄ばしごを手繰り寄せるようにのぼった。三日月はオルガの腕を取り、自分の首に巻きつけるとそのまま抱き上げ、そこから庭園に飛び降りた。
「逃げ切れたか?」
「まだだ。まだ追って来る」
今度の影には翼が生えていた。先ほどオルガを襲っていた影よりも一回り大きく、羽ばたきながらオルガと同じく天窓から飛び出した。三日月はオルガをおろすと、再び手を取り、離すまいと強く握った。
「戦いづらいだろ」
「オルガが離れるよりずっとマシだ」
「おいおい」
空を飛ぶ影は三日月のもつ棒切れでは届かない。攻撃を仕掛けてくるまで距離をとりつつじっと待つ。ぐんっと急降下してきた影を正面にとらえ、右手に握った木の棒を振りおろした。瞬間、影はよろめき、平衡感覚を失い、地に倒れこむ。その隙を逃さず三日月は追撃する。畳み掛けるようにして力を振るう。影もすぐさま立ち上がったが、避けられたのは最初の一撃のみで、三日月の猛攻になすすべなく、また影は霧散した。
「ふう。オルガ、ケガはない?」
「………」
「オルガ?」
オルガは胸に左手をあて、顔を青くして立ち尽くしていた。三日月が握る右手が次第に冷たくなっていく。
何かおかしい。
突如太陽が翳り、吹きすさぶ風の冷たさにも異変として現れた。
『君か。私の可愛いオルガを連れ回しているという輩は』
「は?」
声が降ってきた。三日月はあたりを見回したが人の影などどこにもなく、声の所在もわからない。上から降り注ぐようにした声は厳かで、しかし透き通るような朧げなものでもあった。オルガは悲痛に顔を歪め、城の天辺を睨みつけている。
「マクギリス……」
「誰?」
「……この城の統べる王」
「オルガをあそこに縛り付けてたヤツ?」
「……ああ」
三日月の目の色が変わる。青い目がぎらりと輝いたのを感じ、オルガは慌てて声を張り上げた。
「待ってくれ!こいつは、ミカだけはここから出してやってくれ!」
「ちょっとオルガ」
『それはできない。オルガ、おまえはこの城の次期王だ。ならばそろそろわからねばならないだろう』
「やめろ!」
『おや、その様子ではもう気がついているのだな。やはり聡い子だ。となれば、さっき呼んだのはその子の本当の名前ではないな。さあ、その子の名前を教えなさい。そうして私の影にするんだ』
声が突然近くなる。どこからか黒い霧が集まって、人の形を取り始めた。三日月はまたあの影がやってきたのかと思い身構えたが、目の前に現れたのは美しい容姿の青年だった。金髪に翡翠色の瞳が怪しく輝き、闇を写し取ったように黒いコートに身を包んでいる。オルガは彼を見ると下唇を噛んだ。そして、ふたたび、マクギリス、と声にならない声で呼んだ。三日月は自分の心臓の音が耳のすぐそばで聞こえるような気がした。どくりと脈打つ鼓動を感じる。オルガは目尻に涙をためていた。どくん、どくん。
「やめてくれ……ミカは……」
「影?オルガ?なんの話?」
オルガの手を引っ張ると、マクギリスがすうっと近寄ってきて、二人のちょうど繋ぎめにその大きな手を乗せた。
「なにあんた」
「ああ、ミカ、とオルガに呼ばれていたね。君の本当の名前は?」
「教えるなよ、ミカ」
「まあそれもいいだろう。オルガ、お前がやるんだ」
「だからなんの話」
「教えてあげよう。君が消し去った黒い影たちは」
「ミカに話す必要はねえ!」
叫ぶオルガを見もせずに、マクギリスは三日月に教えた。
「あれは君たち角を持った子の、成れの果てだ」
◯
オルガは幼い頃、まだその足首に枷は付いておらず、城の中を自由に歩いていた。城には昔からマクギリスとオルガの二人しかいなかったが、飢えも寒さも暑さも感じないオルガはそれで別段困ったことはなかった。
ある日、マクギリスに呼び出されたオルガは、いつものように城の抜け道や不思議なカラクリを紐解きながら彼の私室に赴くと、マクギリスは今と変わらない漆黒のコートを纏い、だだっ広く殺風景な部屋に一つだけ置いてあるソファーに一人座っていた。
「今日はお前に見せなければならないものがある」
「もの?」
「お前がこの城を引き継ぐのに必要になることだ」
そういってマクギリスは立ち上がり、コートの裾を翻した。するとそこには人の形をした靄のようなものが現れ、彼らは皆一様に額に角を生やしていた。マクギリスが彼らの名前を一人ずつ呼ぶ。すると、ぼやけていた輪郭が空気に溶け、マクギリスの身体に流れ込むようにして入って行き、今度はマクギリスが手を宙にかざすと、人型の影がどこからともなく現れた。
「彼らの名前は私たちの力の源だ。私たちは物を食べなくても良い代わりに、この者たちの存在を喰らうのだ」
どこか恍惚とした表情のマクギリスをみて、オルガは恐ろしくなった。自分の運命を知り、この城から抜け出そうと画策したが、どれもこれもあっけなく阻止されてしまった。
いつしかオルガは生贄の間と城とを繋ぐ唯一の空間に繋ぎとめられ、城を出ることも、城の中を歩き回ることも許されなくなってしまった。
◯
「ミカ、ここから出て行くんだ」
オルガはふらふらと足元から崩れ落ちた。マクギリスはオルガから離れると、無言でその様を見下ろす。三日月は顔をしかめ、じろりとマクギリスを一瞥すると、オルガと一緒になってその場に屈んだ。真っ青な顔のオルガの唇はわなわなと震えていた。
「オルガはどうするの」
「俺はいいだろ……」
「よくないよ。一緒に行くんだ」
「お前聞いてなかったのかよ!俺たちはお前らツノアリを影にしちまうんだぞ!」
「オルガの影にならなってもいいよ」
オルガは思わず三日月を見た。その目は射抜くように鋭く、固い意思を持っている。オルガはひゅっと息を飲んだ。
「やめてくれ……、オレはお前をなくしたくない……」
「なくなんないよ。オルガと一緒に生きるんだ」
「影になっちまったら、お前はお前じゃなくなるんだ!」
「じゃあ一緒に逃げよう」
「どうやって!」
三日月は、オルガの手を引っ張り、共に立ち上がる。一瞬だけオルガと名残惜しそうに手を離し、その場から一番近くにあった像が天に掲げていた石のつるぎをもぎ取ると、またオルガの腕をとった。
「いいね、手に馴染む」
「馬鹿!やり合うってのか!」
「はっはっはっ!!!面白い!君は実に面白いな」
マクギリスが高笑いと共にその場に何体もの影を出現させた。オルガに触れようと四方八方から腕を伸ばすそれらを薙ぎ払い、オルガと共に少しずつ後退していく。後ろに控える城門を越えれば、逃げ切れる。そんな自信がどうしてかあった。
「逃げよう」
「城から出てどこに行くんだよ!」
「どこか、遠くに。二人で」
「オルガ、お前がいなくなればこの城はどうなる?この城が崩れ去る時、海は荒れ狂い、そばにあるその子の村も沈むだろう」
「じゃああんたを殺すのはやめた」
マクギリスからの鋭い言葉に答えたのは三日月だった。空から迫る影をかわし、その脇腹に石の剣を叩き込む。飛び散る影の残骸があちらこちらにわずかに漂う。いつの間にかマクギリスはずっとずっと奥に引いていた。
「思い出したんだ。城の魔物の話」
それは三日月がまだ年端もいかぬ幼子だったころ、村長が語って聞かせた伝承だった。
城には恐ろしい魔物が住んでいる。
「角のある子が帰ってきたと知れば、お前はまたこの城に戻されるだろう」
「その時はまた逃げるだけだ。今度はオルガもいるんだ。黙って古いしきたりや習わしに従うつもりはない。オルガ!門を開けて!」
三日月の声に弾かれるようにして、オルガは門の錠に指をかけた。錠にはいつかみた偶像と同じ彫刻が施されていた。すると、あのまばゆい光が三度三日月を包み込み、黒い影を吹き消した。
三日月は石の剣を投げ捨て、オルガを抱えると、そのまま城門を潜り、長い長い階段を転がるように駆け下りた。雨がぽつぽつと降り出した。波が立っている。三日月はこの海をどうやって渡ってやるか、階段を何段かとばしながら考えていた。神官たちとは小舟に乗ってきた。あれは神官が乗って帰っただろう。階段を降りきる前に、オルガは声を上げた。
「おい!あれ!」
「舟だ」
一隻の小さな舟が、岩陰に隠れるようにして括り付けられていた。カビが生え、板は腐食していたが、浸水は見られず、まだぷかぷかと浮かんでいられるようだった。三日月は舟を繋ぐ縄を解きオルガを乗せると、砂浜を蹴って、勢いを殺さず自分も舟に飛び乗った。
また声が降ってくる。悲哀に満ちた声である。
『その子は外の世界では生きては行けない……。我々と人間とは互いに相容れない存在なのだ……』
オルガは生唾をごくりと飲み込み、膝を抱えた。その手に自分の掌を重ねた三日月は、頬を寄せ、肩を抱いた。ぐらりと舟が揺らぐ。オルガも三日月にすがりついた。
「平気だよ。オルガにはオレがいるし、オレにはオルガがいる。それで充分でしょ。ねえ、オルガ」
オルガは三日月の額の角の一つに優しく触れた。固い角はしっかりとそこにある。三日月たちが異形のものとされる理由である。オルガは慈しむ気持ちで、啄ばむような口づけをひとつ三日月にやった。
「おれたちはふつうの人間じゃない。二人っきりで生きていくんだ。ミカはツノを隠せば普通の生活ができたかもしれないのに、本当にそれでよかったのか?」
「うん。オルガにオレが必要なら、ずっと、どこまでも一緒にいるよ」
三日月は角に触れるオルガの手を、くすぐったいが心地よいと思っていた。拒まれない、ということは二人の心をひどく満たした。触れること、触れられることを許されると胸にはあたたかいものが流れていく。
「これは誓いだ。俺の全部はミカが持ってて、ミカの全部は俺が持ってる。俺の世界の全てがお前だ」
「うん。それがいい」
三日月はオルガからされた口づけが気持ちよかったのを思い出して、自分もオルガにしてやった。柔らかくてあたたかい。唇の薄い皮膚から二人の体温を分かち合う。
どちらからともなく、握っていた手を離し、指を絡める。きつく握って、お互いの存在を確かめ合った。
荒波は舟を攫う。二人は流されるがまま、海にいる。ぐんぐんと遠ざかる城を振り返ると、立ち込める霧はどす黒く、そこに、三日月の焦がれた霧の城はなかった。深い悲しみのみを残した城は、稲光りを伴って、人を寄せ付けることを拒んでいるようだ。
「マクギリスはこれからずっと一人なんだ」
「城と村が終わるまで?」
「そう……。あいつも元は人間だった。この小舟に乗ってやってきたんだと」
「誰から聞いたの?」
「母さん」
「母さん?」
「あの城のこと」
「え?」
「もう死んだ。俺は城の子だったけど、もうその証もないんだ」
オルガの金色の目はわずかに潤んでいる。三日月はオルガに寄り添って、頼りなげな肩を抱きしめた。海岸が近づいている。城が遠ざかると雨は止み、波は穏やかな顔を見せるようになった。小鳥が囀る。太陽の位置はまだ高い。青空が雲の切れ間から顔を覗かせている。二人は、これから当て所なく続く膨大な時を二人で過ごせることを幸せに思い、舟に揺られた。