椎名君のお楽しみ1


本編のネタバレが含まれるので未読の方はご注意ください。
※志賀君がちょっとかわいそうになるようなド変態シーンが出てきます!








椎名柾臣は、順風満帆な人生を歩んできた。少なくとも周囲からはそう見えている。
資産家の親のもとに生まれ、恵まれた容姿と資質を持ち、穏やかな性格は誰を敵に回すこともない。
年が離れた彼の弟は、そんな兄を心から尊敬し誇りに思っている。『理想のお兄さん』と、柾臣を知る者は皆、口をそろえて言う。

しかしそんな柾臣も人並みに欠点があり、同時に悩みも抱えていた。
悩みのひとつは知識欲旺盛であること。
それは、未だ解き明かされていない事柄を探究するといったものではなく、人の為すこととその結果もたらされる複雑な絡まりに興味がある。

生家が大きな事業を営んでいるがゆえに人との関わりは避けられない。そして柾臣はそれを好んでいた。
柾臣は幼少の頃から、見知らぬ大人同士が雑談しているのを傍らでよく聞いていた。
「子供だから大人の話している内容など理解できないだろう」との油断から無遠慮に話す彼らのことが、柾臣は好きだった。
それは企業の経営不振の噂だったり、脱税の方法だったり、不倫の話だったり、あるいはインサイダー取引の現場だったりした。

そういったスキャンダルを耳にするたび、どんな冒険譚を読むよりも心が躍った。
子供の柾臣にとって、他人が隠そうとしている秘密を暴くことは宝探しも同然だった。

人間の所業の表も裏も雑多に知りたがる癖は治らなかったし、柾臣自身、治そうと思わなかった。
衝動が抑えられず困らされることが多い一方、それは、『満たされないもの』を埋めるための手段でもあったからだ。



「……ふぅ」

柾臣は大きく息を吐いて天井を仰いだ。
シーリングライトが少し眩しく感じたので顔の上に布を被せた。

自室のデスクの前で、彼は椅子に座ったまま日課の『気分転換』に勤しんでいた。
顔全面を覆う肌触りの良い布は、まだぬくもりが感じられる気がする。そしてかぐわしい香りも。
素晴らしい。ゾクゾクする。これが快感というものか――深くゆっくり息を吸い込んで、柾臣は恍惚とした。

この一枚の布に多大なる感謝を捧げてから顔の向きを正面に戻した。
片手は布をマスクのように顔に押さえ、もう片手は下半身へと伸びている。
布で鼻と口を隙間なく覆い、激しく呼吸を繰り返す。
柾臣の性器は硬度を保って上向いている。その手で力強く育った勃起を握り込み、上下に擦った。

「はぁ……はぁ……」

快感の呻きは布に吸い込まれてくぐもる。
体臭か、汗の匂いか、なんともいえない淫猥な匂いを嗅ぎ取った柾臣は、鼻と口からそれらを吸い込んだ。
『彼』の分泌物が染み込んだ布は、柾臣にこの上ない興奮を与えた。

この布は『彼』の股間にぴたりと張り付き、覆っていたのだ。外部の刺激から守るために、または恥辱を隠すために。
創世記、知恵の実を口にして羞恥を覚えたアダムとイブは、まず陰部を隠したという。
この布はいわば『彼』にとってのいちじくの葉だ。罪深い人間を優しく包み込む様は、いっそ神秘的ですらある。柾臣はそんな妄想で法悦に浸った。

ずっとこれがほしかった。『彼』が身に着けていたボクサーパンツ――それを再確認すると、柾臣の手によりいっそう力が入った。
ひょんなことから手に入り、以来こうして様々なことに想像を巡らせながら香りや感触を楽しんでいる。
十代後半という盛んな年頃だ。毎日してもしたりないくらいである。

そう、皇鐘台学園に入学してからの最大の収穫は『彼』と出会えたことだろう。もはや恩恵といっていいかもしれない。
『彼』に改めて感謝を捧げつつ、体内に燻った熱の開放に向けて、柾臣は己の陰茎を激しく扱き続けた。

こうなる前、つまり『彼』と出会う前の柾臣は、からからに渇いた枯れ木も同然だった。
彼のもうひとつの悩み、あるいは欠点――それは、恋愛、もっといえば肉欲への欲求がゼロに近いことだ。
柾臣は、人々の営みが好きだ。けれど恋愛感情というものが実感できない。まして誰かと肉体関係を持ちたいなどと思えなかった。
老若男女ひっくるめて、『個人』に興味が湧かないのだ。

比較的早い段階で精通を迎えた柾臣は、自慰で射精する方法を覚えたものの、そこに性的興奮は伴わなかった。
健康を維持するために、生理現象として溜まった体内のものを排出する――柾臣にとって性欲とはそういうものだった。
性愛の兆しがないことを気にして、「幼少期に何か性的なトラウマがあったのかもしれない」と不安にも思った。
けれど過去に瑕疵など一切なく、生来のものなのだと理解するしかなかった。おそらくそれを埋めるための貪欲な知識欲なのだろうとも。

ゆえに柾臣は年齢にそぐわないほど紳士的だったので、それこそ老若男女の関心を引いた。
だから、進路として全寮制の中高一貫男子校への進学を選んだ。偏差値や待遇を鑑みたほか、同性のなかにいるほうが気が楽だと思ったのが最大の理由だ。
皇鐘台学園が同性愛蔓延る風潮なのは入学前から知っていた。
しかし相手のほうが、柾臣が異性愛者なのだと勝手に納得して諦めてくれるのでやりやすかった。

恋愛は、他人の愛憎劇を眺めるほうが複雑怪奇で面白い。柾臣はそう思っていた。
ところが、『彼』と出会ったことで世界を一変させられたのだった。

「――椎名」

軽いノックとともにドアを隔てた向こうから呼びかける声がして、柾臣は顔を上げた。
自身が放ったものはすでにティッシュに吸い取られ、ごみ箱の中で丸められている。
声をかけてきたのは同室の大友龍哉だ。高等部からの同居人で同じ部活に所属している、友人のひとりである。恋愛はできない柾臣だが、そのぶん友情には厚かった。
彼が食堂に夕食をとりに行っている間に『日課』に励んでいたのだが、いいタイミングで帰ってきてくれた。
もしも自慰を中断させられていたら、たとえ友人相手でも平静でいられる自信がない。

「ああ、いるよ。どうかした?」
「アイス買ってきたんだけど食べる?」

ドア越しだと失礼だと思い、柾臣は戸を開けた。そこには人の良さそうな笑顔とともに箱入りのミニカップアイスを携えた大友がいた。

「もらおうかな。ちょうど冷たいものがほしいと思ってたんだ」
「じゃあ好きな味取って」
「ありがとう」

大友が箱の中を見せる。開封して真っ先に自分が選ぶのではなく、相手にその権利を譲ってしまえる彼は、いわゆるお人好しだ。
それでも彼がストロベリー味を好んでいるのを知っているので、柾臣はバニラを選んだ。
残りのアイスを箱ごと冷凍庫にしまった大友は、思ったとおりストロベリー味を持ってきた。
リビングのテーブルの上にカップの蓋を放り出して冷菓を口に含む。アイスクリームが喉を下れば、自慰の熱をいい塩梅に鎮めてくれた。

大友が買ってきたこのアイスは、自分が食べるためというよりも、この部屋をよく訪れる彼の友人のためにストックしているものだということも知っている。
そんな大友を知ったのも、さかのぼれば中等部に行き着く。
スプーンを口に運ぶ彼を見ながら、柾臣はしみじみと当時のことに思いを馳せた。





中等部――この全寮制男子校に入学して早々、柾臣はしくじった。

良家の子息が集うこの学園は知識欲をおおいに刺激してくれるだろうと、柾臣は期待で胸を膨らませていた。
実際、少しほじれば出るわ出るわのお宝過多状態で心から満足していた。
入学から二週間経つ頃には、高等部にあるという情報屋組織に連なる、いわばプレ活動団体の存在も知った。
翌月には高等部本部の元締めからメンバー入りを勧める打診があった。
柾臣が行っていたのは個人的な蒐集趣味だったので売買に興味はなく、そのときは情報屋に属する気はなかった。

しかし個人の趣味というのはしばしば抑制が効かなくなる。柾臣はそのことを失念していたのだ。
趣味に没頭するあまり裏社会に繋がる情報を知ってしまい、初めて危機感を覚えた。
人の業は果てなく深く昏く、『知った』というだけで自らの身を危険にさらすことになるからだ。

幸いこのころ組織活動にも情報売買にも手を染めていなかったので、向こう側から経路を辿られる前に遮断することに成功した。
しかし柾臣は、念のため国を離れることにしたのだった。すぐさま一年間の休学と、アメリカ西海岸にある姉妹校への留学を申し出た。
優秀で向学心のある生徒と見なされ、親からも学園からも留学は難なく受理された。

そうして留学を終える頃には柾臣の身の安全も確固たるものになっていたので、大手を振って帰ってきた。
一年の休学を経て学年がひとつ下がったが、そんなものはささいなことだった。

若気の至りで失敗し『知りすぎてはいけない』ということを教訓として覚えた柾臣は、自身の抑制をする意味でも情報屋組織に組することに決めた。商売としてやる限り、否応なく取捨選択を迫られるからだ。
そしてまもなく、名もない情報屋組織のトップに君臨したのだった。
しかしながらその活動内容はお粗末で、「好きな子のプロフィールを教えてほしい」だの「いじめっ子にしかえしする方法は?」だの「今度のテストに出る問題が知りたい」だのといった退屈なものばかりであった。


三年に進級し、夏休みも過ぎて肌寒い日が増えてきた十月頃のことだった。ひとりの生徒が柾臣に接触してきた。
それは、学園中を艶聞で賑わせていた生徒だった。多人数と関係を結び精力的に性交を好むという、ある意味柾臣とは対極にいるような男だ。

「ハァイ、元気ぃ?」

彼は間延びした挨拶と軽薄な笑みで声をかけてきた。柾臣は、購買部付近の廊下にある自動販売機で飲み物を買っていたところだった。
あきらかに初対面だが、男は昔ながらの友人のような気楽さで隣に並び、わざわざ同じ自販機に硬貨を二枚投入した。そしてドリンクを選ぶそぶりを見せながら言葉を続けた。

「え〜っと、ちょっとお願いがあるんだけどぉ」
「俺にできることなら、喜んで協力するよ」

柾臣はいつもどおりに人当たりよく返事をした。何がおかしいのか、男がくすくすと楽しそうに笑う。

「んふふ、ありがと。あのねぇ、調べてほしい人がいるんだよね〜」

いたずらっぽく目を細めて、男は――同学年の有名人、仁科天佑は世間話と変わらない口調で言った。
それは間違いなく、柾臣を情報屋の構成員だと知ったうえで依頼している。前置きもとぼけることも不要だといわんばかりのストレートさで。

「報酬は先に口座に入れておいたよ。やってくれるでしょ?リーダー」
「……内容によるね」

頭のネジも貞操観念も緩い(と思っていた)この男に出し抜かれたことが少し悔しくて、柾臣は一応渋ってみせた。
構成員どころかトップだということまで知られている。正体を明かさないよう細心の注意を払っていたのに。
柾臣の動揺など気にする様子もなく、仁科の指先が迷うようにドリンクボタンの前でゆらゆらと揺れる。

「ぜんぜん難しいことじゃないよぉ。うちの生徒でね、どんな子なのか知りたいだけ」
「そう。誰かな?」
「――志賀理仁」

ボタンを押すと同時に、仁科は静かに名だけ告げた。
ペットボトルが落ちるガコンという衝突音にあやうくかき消されるところだったが、たしかに『シガリヒト』と言った。
それから彼はペットボトルを拾い上げ、空いた手をポケットに入れつつ何事もなかったように去って行った。それは、ほんの一分程度の接触であった。

彼は名乗りもしなかった。自分の顔が広く知られていることを前提にしたような、あるいは柾臣の手腕を試すような傲慢さだ。
それにしても、あれほどの男が情報屋を使ってまでいち個人を指名したことに柾臣は驚かされた。
大っぴらに会うことを憚れるような相手なのか。それとも、絶えず浮名を流すような男でも、自分が恋する生徒のことを人知れず把握したい、といったような可愛げがあるのだろうか。

しかし柾臣にとって個人の動機など関心の埒外であるので、それ以上考えることをやめた。
ただ、いま聞かされたばかりの名を忘れぬよう、頭の中で繰り返し刻み込んだ。


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