黄昏の契り


鐘楼からカァンと音が鳴り、教室内が一斉に静まり返った。半鐘の硬質な残響のなか誰もが姿勢を正した。
しかし、静寂を破らんと一人の生徒が声を上げた。俺だ。

「先生ー、またトーマ君が来てませーん」
「トーマ君か……茎折さん、迎えにいってあげてください」

茎折と呼ばれた学級委員長はあからさまに嫌そうな顔をした。
その気持ちはとてもよくわかる。俺も何度か学級委員長をやったことがあるから『お迎え』の面倒くささは骨身に沁みているのだ。
……今、我ながら面白いことを言った。ないものを沁みるって。

「お言葉ですが先生。もうこんな時間ですし、あの場所を通る人はいないと思われます」
「いいから行ってください。ここで登校をやめてしまったら、彼のためになりませんよ」

先生は茎折さんに向けて手を振り――半ば追い出すような仕草で――我らが学級委員長は渋々と席を立った。

「それでは、今日の授業を始めます。『人間の生と死』について」

黒板にチョークで書かれた『人間の』という文字を見た瞬間、俺は居眠りを決めこんだ。



遠い昔に比べ、医療も延命技術も発達し飢えることすら少なくなったこの国の現代。
人口過多だなんだと叫ばれる昨今、それは『死んだあと』でも同じことがいえた。
「嗚呼、良い人生だった。我が生涯に一片の悔いなし」――そう実感して死ぬことは、けっこう稀なことだ。
そうなると、いわゆる幽霊ってやつも極楽だか天国だか黄泉の国だかに行かずにうろうろとその辺をほっつき歩くことになってしまう。
もちろんその行き先は地獄のように当人にとって嬉しくない場所かもしれない。

浮遊霊や地縛霊にも色々とあれど未練を残している場合、そういうものを晴らさないと成仏できないとされている。
未練、心残り、恨みつらみ、なんと呼んでもいい。ならばそれらはどうやって晴らすのか。
死んだ者が勝手に悟る?――それは不可能だ。なぜなら自分が死んだことすら実感できてないやつだっているのだから。

魂が彷徨っているというのなら、導く者もまた必要だ。
要するに「あなたは死にました。ここに留まっていないで次のステージへと進みましょう」と教える『先生』が不可欠になる。それが死神なのか観音様なのか、はたまたもっと違う者かは知らない。
さて、『先生』はどのような方法で死者にそれを説くのか。簡単な話、生前の習慣に則って『学校』という体裁をとるのだった。
かくいう俺もその『生徒』の一人だ。
そんなわけで、この世とあの世の狭間で俺たち幽霊は、今日も元気に登校するのだった。
死んでるのに元気ってのも、皮肉な話だ。

「おはよ〜ございます〜ぅぅ」

気の抜けた声ではっと目が覚めた。
生前の習慣というのはおそろしい。寝る必要もないのについ寝ちゃうんだから。
俺って本当に死んでるんだろうかと思うくらいいつまでたっても変わり映えがしない。
つまり俺はまだ『死人としての意識』が薄いんだ。『卒業』にはほど遠いなあ。

「はよー、鮎見川くん!」
「……おはよう、トーマ」

教室の入り口を見ると、学級委員長・茎折の仏頂面が目に入った。
そして俺の隣の席に座ったのは遅刻したトーマ。

「こらトーマ君、何度言ったらわかるんだ。早めに行動しなさい」
「すいませーん。ちょっと乗り移りそびれちゃってー」

へらへらしながらちっとも反省してないように言うトーマ。この軽薄な男が地縛霊だっていうんだから、世の中色々だ。
地縛霊っていったらもっとこう、いかにも未練を残して二言目には恨めしやとか言ってそうなそういうナリしてろよと思うわけだが、トーマは見た目も性格もとにかく軟派だった。
『クラスメイト』の仲間入りをしたのはわりと最近で、その理由も女とのドライブ中に不幸な交通事故で死んだという、プレイボーイの鑑みたいな奴だ。
その彼女は奇跡的に助かり、トーマだけがこうして『学校』に通っているというわけだ。

地縛霊はその地に縛られているから地縛霊という。かといって一人一人現地を回るほど先生たちも暇ではない。
ならば『学校』に来てもらうしかないわけだが、地縛霊は生者に取り憑くという方法でしか移動できない。
「電車に乗り遅れた」みたいな口調で言ってるけど、つまりトーマは、縛られた土地に通りすがる人に憑いてこないとここまで来られないのだ。

だからこんな遅刻はしょっちゅうで、でも地縛霊としては比較的軽度だから俺たちの普通クラス――戊級にいられる。
もっと重症の地縛霊だけを集めた級にならなかったのは幸いだ。
クラスは全部で甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十級からなる。
甲・乙はいわゆる『卒業』間近の人。癸に近づくほど卒業から遠い。

さて、この『学校』っていうのはどういう場所かと当然のように疑問が沸くだろう。立地的に。
先生の説明によると、この世とあの世の狭間、見た目は現世と同じの鏡面世界と考えればよいのだそうだ。
現実にある小学校や中学校、高校の裏側。各所で同じような『授業』が行われている。
はぐれた霊は日の出る頃にここに集まり、逢魔時に元の場所に戻る。まさに学校。
どこからか、いつからか、クラスメイトは増えて減る。俺も、ずいぶんと長いこと通学している。学級委員長なんて十回はやっているくらいに。

すると、トーマがくいくいと俺の服を軽く引っ張った。

「ねえねえ鮎見川くん、昨日は何してた?」
「静岡行ってた」
「エッ、まじで!?なんで俺誘ってくんねーの!!」
「……トーマ君はどうして誘われると思うんでしょうか」

俺はトーマとは違っていわゆる浮遊霊だ。どこにも居場所がない、そんな自分を悲観するのはずいぶん前にやめた。
だったらもう今の生活を楽しんじゃったほうがいいんじゃないの?という考えに至った。
思い立ったらなんとやら、俺は日本中を遊び回っていた。ただし肉体が死んだ当地である国には縛られているらしく、海外へは行けないようだった。残念無念。

死んでるのに何故かバスや電車で移動しないと落ち着かないのは、これもやはり乗り物に乗るっていう生前の意識が働いているせいなのだろう。
しかし昔に比べて移動が便利になったものだ。時代の移り変わりに順応してしまってるのも、やはり浮遊霊ならではだろう。

「くっそー、鮎見川くん冷たい……俺も行きたかった……」
「人に憑いていかなきゃなんない奴と遠出なんてお断り。足手まとい」
「ひっどぉ!」

ぶうぶう文句を垂れながら裾を引っ張るトーマ。
乱れてしまった着物の襟を正して前を向くと、トーマも「次は誘ってよ」と言いながらおとなしくなった。

――肉体に縛られなくなった死者の時間感覚は曖昧だ。だから教室に集まっている人々は年齢がばらばら。
この年齢ってのも食わせもので、外見年齢と必ずしもイコールではなかった。

人は、無意識に自分を美化する傾向にある。
死んだその瞬間の姿なんて知らないのが普通だ。例えば変な話、ぐちゃぐちゃになっていたとしても客観的にその姿は見られない。死ぬ間際に鏡を見る余裕のあるやつがいるか?
そうすると不思議なもので、自分がそれまでで最も輝いていた、あるいは『まし』だった時の姿を思い浮かべるようだ。
端的に言うなら十代から二十代。そのあたりが一番多い。
もっとも正しい年齢の姿を思い浮かべられるような人は、『学校』なんて通わずにとっくに成仏している。

そうして『クラスメイト』たちは実年齢や亡くなった時代おかまいなしに、いつまでもその姿を保っている。
何年、何十年経とうとも若いまま。かろうじて服装からあいつはあの時代の人間だろうってのはわかるけれども。
名前すら生前のものとは違うらしい。先生に勝手に命名されたニックネームのようなものだ。

とはいえ幽霊の意識なんてのはプカプカと浮くほど頼りないもので、そんなことにはこだわらない。
四季がある、気にするのはそれくらい。だって盆近くなると元気にならざるを得ないから。

「ねえねえ鮎見川くん」
「さっきからうるさいよ」
「小声で話してるじゃん!」
「そういう問題じゃない」
「そんなことよりさ、ガッコーのあと一緒におでかけしよ」

じろりとトーマを睨む。さっき言ったばっかりだろう、人に憑かないと移動できないような奴とは行動したくないって。
しかしちっともめげないトーマはまたもや俺の着物を引っ張った。

「俺さぁ、ちょっと行きたいとこあんだけど」
「一人で行ってこい」
「だめ!一人やだ!お願いあゆみん!」

ぶんぶんと大げさに首を振るトーマ。お前は駄々っ子か。

「……遠いの?」
「全然。すぐそこ」

少しばかり考えた末に、頷いた。
しばらくしてカァンと鐘楼が鳴る。授業終了の合図だ。
鐘の音が合図だったかのようにくるりとひっくり返った感覚のあと、俺たちは『現世側』に戻った。
外はちょうど夕暮れ時だ。あと一時間もすれば陽が落ちる――いや、三時間か、五分後かな。
いかん、近頃一日の長短がぼやけてる。もともと時間には疎いのに。

「鮎見川くん、こっち」

トーマに手を引かれて学校を出る。往き交う人間に憑依しつつ連れて行かれたのは雑居ビルの屋上だった。
高すぎず、低くもない。それでもいくらか空が近くなる場所。

「ここに何の用だよ、トーマ」
「内緒話しにきただけ」
「はあ?」

いたずら坊主のような無邪気な笑みを浮かべて、トーマが錆びついた柵まで歩いていく。
彼はそのまま柵をすり抜け、そこに透明な板があるのような足取りで、何もない空中まで歩いた。その足元は向こうの景色が透けて見える。
黄昏時の名前そのままに、落ちかけの太陽が黄金色に薄らいでいる。

「トーマ……」
「俺さぁ、最近よく遅刻するでしょ」
「どうだったかな」

最近かもしれないし、最初からだったかもしれない。曖昧に唸ればトーマはするすると宙を滑った。
その姿はずいぶんと『幽霊じみている』。生身の人間ではできない芸当だ。
人間ならまず「落ちる・怖い」といった意識が先立って、年季の入った霊でさえ空に浮くなんてことはなかなかできない。それなのに――。

「俺ここんとこ、ぼーっと空見てたら委員長が急に迎えに来てたってことが多くて」
「…………」
「本当はここにいるべきじゃないって思うことが増えたんだよね。強迫観念っていうの?そんな感じで」

それは、『卒業』が近いことを示す。喜ぶべきことだ。
なのにクラスメイトの門出を祝おうという気になれない。隣の席の彼がいなくなると思えば、心が鉛のように重く感じた。

「そうか……うん、そう、なんだ……。思ったより、早かった?えっと、遅い……のかな?」
「それでさ、生きてたときのことで思い出したこともあったわけ。聞いてくれる?」
「ああ」

思い出す、か。死に際に見るという走馬灯のようなものだろうか。
トーマは暗くなりはじめた空を見上げた。俺もその眼差しの先を追って、綺麗だな、と思った。

「俺、前はいわゆる『見える人』ってーの?そんなんだったわけ」
「見えるって、霊感が優れているとかそういう意味で?」
「うん。でもオカルトブームに流されたみたいに思われんのイヤで、周りには黙ってたんだけど」

ある夏の日、友達数人で心霊番組を見ていて「肝試しに行こう」と盛り上がったそうだ。
それは本物が出ると噂されていた心霊スポットで、見える人であるトーマは拒否したが、仲間に説き伏せられて参加を決めた。
ところがそこでメンバーの一人の女子がたちの悪いものを連れ帰ってきてしまったそうだ。

トーマは見えるだけで祓えるわけではない。ただ、肩代わりはできた。
帰りの途中で事故に遭い、同乗していたうちのトーマ一人だけが悪いものに引きずられて『こっち側』に来てしまった。
事故の衝撃による記憶の混濁で、友達と肝試しだったところを女とドライブだとずっと思い込んでたらしい。

「よくわかんないけど、そこにいなきゃいけないらしくてなんとなく座り込んでたら、鮎見川くんが来て『学校』に連れてってくれたんだよね」
「ああ、そんなこともあったか?」
「そのときにね、この人のいるとこならここでもいっかーって思ったよ」

スケートでもしてるみたいに空中をするすると滑るトーマ。俺はそんな彼を柵越しに目で追った。
しかしトーマはぴたりと止まり、俺の前で浮いた。

「ねえ、鮎見川くんの未練って何?」
「さあ……戦争の最中に死んだから、そのへんの何かだと思う。忘れた」
「忘れたって、それ未練っていえんの?」
「現にこうして留まってるんだから、未練なんだろ。そっちは?」

トーマが困ったように眉尻を下げて瞳を細める。
悪いものの呪いか影響が原因で死んだのなら未練なんて薄そうだ。
その証拠にあと一歩のところで『卒業』しかけている。なのに彼はどうしてまだ残っているんだろう。晴らしたい未練は何なのだろう。

「未練、は……鮎見川くん、かな」
「はい?俺?」
「事故って死んじゃったのは、ほんともうどうしようもなかったんだよね。だけど鮎見川くんがいるから、俺、『卒業』できない」

霊体の俺たちは風を感じない。暑さ寒さも感じない。
人間らしさから遠ざかっていく。やがて姿を留めていられなくなる。
トーマの腿から下が透けてほとんど見えなくなっていた。なのに思い出したように形を取り戻す。それを繰り返している。

「俺、見える人だったって言ったでしょ?生きてるとき、このあたりでキモノ着たかっこいい人を何度も見かけてたんだよね。幽霊ってわかってたけど悲壮感もなかったんで印象的でさ」
「それって――」
「うん、鮎見川くんのこと。そっちからは俺のこと気づいてもらえなかったから、死んでようやく会えたのが嬉しかった」

トーマの手が俺に向かって伸ばされる。その手は温かそうで、生きている人と寸分違わぬように見えた。

「たぶんね、鮎見川くんが『卒業』したら、俺も『卒業』できるよ」
「トーマ……」
「なんだろうね、こういうの。好きってことなんだろうけど、そんなに軽い言葉で片付けらんない。俺ら幽霊ってなんなんだろうね。魂ってやつ?だったら魂レベルで鮎見川くんに惚れてるってことかもしれないよ」

この瞬間、自分の中でぶわっと何かが蘇ってきて、あやふやだった自分の未練を理解した。

――俺は生前、あまり体が丈夫なほうじゃなかった。赤紙すら避けられるほどだ。
勉強もままならず、出かけることも出来ず、女性経験もなく伝染病で生涯を閉じた。
だから学校に通うこと、それ自体が楽しい。最初の数年間は勉強も楽しくて真面目に授業を聞いていた。
しかし最近は同じことを何度も聞くから、授業中に寝るようになってしまった。
『学校で勉強』はそろそろ飽きはじめた。飽きるというのは満足を通り越した状態だ。
日本全国を見て回る、これもやりたかったことのひとつだ。もう行ってないのは船で行く孤島くらいだ。

俺は、こちらに向けて伸ばされた手を握って柵をすり抜けた。
トーマが驚いた顔で俺を見ている。そちらに行くのはなんと容易いことだろうかとほくそ笑んだ。
地面はない。恐怖もない。黄金色に染まる空を征服している。

「なぁ、トーマ。俺、きっともうすぐ『卒業』するよ」
「そうなの?未練も分からないのにどうして?」
「俺の未練も、きっとお前だ。灯馬」

俺の未練はもうひとつ、どうしても叶えたかったことがある。それは恋愛だ。
物語のような身を焦がす大恋愛――なんてものでなくていい。
当たり前に人を好きになる、同じように自分を好いてもらいたい、そういうささいで贅沢な欲求。
肉体のない身分では長年難題だったそれを、灯馬は、叶えてくれるのだという。

握り合った手が二人同時にゆっくりと透けてゆく。それは溶け合っているように見えた。
隠れる間際の太陽の光が金色に輝いて、灯馬の姿を空の彼方に連れ去らんとしている。俺も彼と同じであるようにと願った。

「『卒業』したら、また会おう」
「うん、約束」

黄昏に溶けて消えゆく儚い約束であろうと、そのためだけに俺は、ようやく未練を断ち切れる気がした。









――変な夢を見た。
周囲は薄明るい。起き上がってちらりと隣を見ると、布団からボサボサ髪の頭がのぞいていた。

「おーい、起きろよ。朝だぞーっと」

布団をぽんぽん叩くと、中身が唸り声を上げた。

「はよー……ってかなに!?お前なんで泣いてんだよ!」
「え?」

そう指摘されて目尻を触ったら、かさかさとした涙の筋の跡があった。寝ながら泣いてでもいたみたいだ。
不思議な気持ちで首を傾げたら強く抱きしめられた。

「ごめん、やっぱ昨夜無理させた?」
「してないしてない」

散乱した二人分の服、丸まったティッシュの山、ゴミ箱には使用済みゴムの残骸。どれも昨日の俺たちの行動の痕跡だ。
抱擁を解いて目の前にある裸の胸に手を置いて撫でた。脈打つ鼓動はあたたかい。

「どうかした?」
「なんか……生きてるって素晴らしいなと思って」
「ハァ?なに突然」
「なんとなく」

説明しようと思った夢の内容は、もうすっかり忘れてしまった。
そのとき、スマホから起床時間のアラームが鳴りはじめたからすぐに止めた。

「ほら、急いで支度して空港行こうぜ」
「うん。あ〜ついに初海外かぁ!やっべぇ楽しみ!」
「だな」

今日も眩しい一日が始まる。まずは、愛しい人にキスをしよう。
そうして俺たちは、異国の空へと飛び立つのだ。


end.

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