涙目とカモフラージュ


それは俺が授業を終え、いつものように新聞部の部室の前に来たときのことだった。

「ぎゃあああああああああああああ!!」

突然の悲鳴に、一瞬ドアを開けるのを躊躇った。
そしてそれが良く知った人の――先輩の悲鳴だということに気付いてすぐにドアの取っ手にかけた手に力を込めた。

「どうしました!?」

飛び込むように部室の中に入ると、すぐ正面の奥、先輩がいつも陣取っているパソコンの前には案の定、先輩の姿があった。
彼は、椅子に座ったままうずくまり、両手で双眸を覆いながら「目がっ、目がぁぁぁぁ!」と、どこかで聞いたような台詞を喚いていた。
部室の中には先輩の他には誰もいなかった。いつも真っ先にいるはずの部長さえ。
俺は慌てて呻く先輩の傍に走り寄り、彼の肩に手を置いて顔を覗き込んだ。

「何があったんですか!?」
「……ま、槙……?」

先輩は俺の声を認めるとおそるおそる確認してきた。そうです、と返答すると彼はまた呻きだした。
経緯は分からないけれど、どうやら目に突然何らかの疾患を負ったようだ。

「どうしたんですか?目に何かあったんですか?」
「と、突然……」

俺はやや強引に目を執拗に覆う先輩の両手をはがし、症状を見極めるためにその場所を見た。
彼の薄く閉じた瞳からぼろぼろと止め処なく溢れる涙にどきりとする。

「……開けられますか?」
「む、無理、だっ」

そうしてまた目を隠そうとする先輩の両手首を、動かないよう固定する。
先輩はひどく痛がっている。コンタクトレンズをしているわけでもないこの人が、目にゴミが入った程度でこんなに涙を流すことはありえない。じゃあ、どうして?
こうなった何が原因なのか少しも見当がつかず、ただ困惑した。

「目が……目がー……」
「痛いんですか?」
「痛い、し、涙が、出る」

強制的に押し出される感じだ、と泣きながら彼は言った。涙とともに鼻水まで垂れてきたようで彼はぐすぐすと鼻を啜った。
とりあえず俺はポケットから、朝、通学途中に街頭で受け取ったポケットティッシュを取り出し、先輩の両頬と鼻をぐいぐいと拭った。
水分をあらかた拭い去ると、鼻水が糸を引いてティッシュに残った。
そして不意に、先輩の、短いけれど密度の濃い睫毛が指先に触れて俺の心臓が跳ね上がる。濡れたその睫毛を指先で優しく押さえると、先輩がびくりと肩を震わせた。

「……どんな風に痛みますか?」
「……つんとする感じで……なんつーか……たまねぎを切ってるときみたいな感じ、だ」

調理実習でしかたまねぎを切ったことのない俺には、あまりピンと来なかったけど、それはまあ痛そうだ。

「一体何が――」

ティッシュをごみ箱に投げ入れたあと、ふと視線をはずして机の上を見る。
小さくファンの回る音がして、それはこの部屋にある唯一のデスクトップパソコンが起動し続けていることを示していた。
ディスプレイが真っ暗だったからてっきり電源は入ってないのかと思ったら、モニターの電源スイッチだけが切られていてパソコン本体は稼働中だ。

「パソコン?」

ぎくり、と彼の体が固まる。逃げようとしたのか、体を捻る先輩の両手首を掴んで再び固定する。
左手は先輩の手首を離さないままに、右手でモニターの電源ボタンをオンにする。すると、先輩が作業していたであろうウィンドウ画面がぱっとあらわれた。

「……これ、ですか」
「――おい……見るなよ」

俺の、極秘なんだからな。と苦々しく先輩が吐き捨てる。
フォルダツリーを辿って見ると、随分と奥に隠されていたようだ。さすがの部長も確認しないであろう場所に、そのフォルダはあった。
フォルダの名前は、<shiori>。それは校内でも随一の美少女と名高い女子の名前だ。
先輩はご多聞にもれず彼女のファンで、我が新聞部の取材と称して彼女の写真を集めていた。
でもそれが、肖像権侵害だの盗撮だのとこのご時勢大いに問題になりそうな域だったので、部長に厳しく咎められたのだった。

「これ、もう消されてたかと……」
「……消したように見せかけておいてだな」

しぶしぶといった口調で先輩が言葉を吐き出す。
この人が彼女を日々遠目で慈しむような瞳で見ていることは、俺ももちろん知っている。けれどここまでの執着を見せられると、さすがに胸がむかついた。
パソコン画面の見すぎで目をやられるほどに、先輩は彼女にご執心ってことか。

「それで?ここのパソコンだとじっくり見られる機会がないから、家に持ち帰ろうとしたんですか?」

傍らに転がるUSBメモリを目にして、知らず俺の声は硬く、そして冷たくなった。
それを察知したのかどうか、未だ目の開ききらないらしい先輩の表情が不自然に歪む。

「いや、そうじゃなくて……その……」

気まずそうな弱々しい声は、俺の指摘通りで合ってるのだろう。

「個人的な嗜好に口を出すつもりはないですけど……正直、あんまりいい趣味とは言えませんよね」

彼が固く目を閉じたまま苦い顔をする。自分でも承知の上なのだろう。
ああ、このままいっそその無防備な唇を奪ってしまおうか。憧れの美少女ではない、同性のこの俺にそうされたら、この人はどんな顔をするだろう。

――してしまった。

思っただけで終わるつもりが、状況の旨さにすっかり乗せられた。だっていつも俺に無愛想な先輩が無抵抗な姿で、目を瞑って俺に顔を向けているんだ。
それでも掠めるような触れるだけのキスになってしまったのは、俺が直前で怖じ気づいたからだ。
果たして、彼は。
男で、そこまで仲がいいとも言えない後輩の俺にそんなことをされる日が来るとは、微塵も思いもしなかっただろう先輩は。
潤んだ瞳を、眉間に皺を寄せながら必死に開き「……ばかやろう」と一言つぶやいた。





その日の終わりに、件の写真フォルダは全削除するつもりだったのが、一枚だけどうしても探したい写真があったのだと先輩から告げられた。
それは先輩の好きな人の写真で、カモフラージュのように誰もが羨む美少女の写真データの海に沈みこませていたのだと、もごもごと実に言い難そうに語った先輩。
つまり、先輩の想い人は彼女ではなくて別に存在していて――と俺が落ち込んだり、そのあと浮上したりするのはもうすこしあとの話だ。



end.

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